淡い光に誘われるまま、触れる。
それだけでどきどきした。
前は背中からで、非常時でそれどころではなかった。
けれど今は正面からで、しかも本体の葉を許されている。
聞こえる吐息が艶めかしい。
今、どんな顔をしているのだろう。
めっさ見たい。
視線を上げると、赤く切なげな顔のりんさんと目が合った。
ご姉妹はそれぞれに好ましい方たちだと思う。
…けれど、りんさんに対しては、りつさんともりなさん達ともどこか違う感情を抱いている。
「好き」を見つけていないことが気になるからなのか。
それが何故かも、何と呼ぶべき感情かもわからないまま、ただどうしようもなく、気持ちはりんさんに向いている。
みんなが知る、笑っている姿や、好奇心に目を輝かせる姿。
いつもの姿以外に、私だけが知るわかばの姿がある。
抱きしめる腕の強さとか。
身体に触れる手の優しさとか。
求める時の熱のこもった目線とか。
少しだけ低くなる声の響きとか。
その時の顔も、熱さも何もかも。
すべて、私だけが知っていればいい。
あたり一面が、燃えるように赤い。
本によると、食器にも描かれていたこれは紅葉という植物らしい。
「赤は虫や赤霧を連想するから苦手だが、これは悪くないな」と笑うりんさんの髪に、はらり、と紅葉が落ちた。
髪飾りみたいによく映えて綺麗です、と感想を述べたら、彼女の頬も紅葉のように赤くなった。
船の外は見たことがないものに溢れている。
毎日探検しているけれど、その度に新たな発見がある。
木々や色とりどりの実、動物…。
新しい物だけでなく、何かを見つける度に目を輝かせ、僕に呼びかけるりんさんを見ると、嬉しくなってくる。
そんな顔をもっと見たいから、今日も少しだけ遠回りして帰ろう。
りんさんが顔を綻ばせる姿を見たことがなかった。
はじめは僕への警戒かと思っていたけど、やがてご姉妹を守るために必死だからだと気づいた。
だから、少しでもその手伝いを、背負う重荷を共に担えたら、と思っていた。
あの時「好きだ」という言葉と共に見せたあの顔を、僕は忘れることがないだろう。
衝き動かされるままに、りんさんを抱きしめ、唇を奪う。
そのまま貪るように舌を絡めとると、りんさんが受け入れ、応えてくれる。
互いの唾液を幾度となく交わしあう。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
許容され、阻むものがなくなった本能はひたすらにりんさんを求め、抱きつぶそうと猛っていた。
箱に帰り着くと、先に帰り着いていたりんさんにおかえり、と微笑まれた。
以前は「帰ってこなくても良かった」などと言われていたことを思うと隔世の感がある。
今なら、あの時は心配していたことを隠していたのだろうな、とわかる。
素直に迎えられる今に感謝をこめて、笑顔で「ただいま」と言った。
「…りんさん、気持ちいいですか?」
わかばが息を荒げ、腰を使いながら尋ねる。
埋められた充足感だけでも堪らないのに、深い場所をえぐられ、浅い場所を往復され、おかしくなってしまいそうだった。
言葉の体をなさない声が上がり、返事をするどころではなかった。
言葉の代わりに、脚を腰に巻きつけた。
いつか間抜けそうな顔と評したこともある普段の顔とか。
曇りのない笑顔とか。
ケムリクサや新しいものを見つけた時の、目を輝かせている顔とか。
何か起きた時、口を結んで考え詰める真剣な顔とか。
食い入るように私を見つめる時の顔とか。
挙げ出すとキリがない。
どの顔も、私の好きなわかばの顔だった。
船の外は水に溢れていて、補給の心配がなくなった。
当然赤虫が襲ってくることもない。
「あんまり幸せすぎて、この暮らしが夢なんじゃないかって思う」
わかばは私の手を取って微笑む。
「夢じゃないですよ。僕たちが、勝ち取ったものです」
現実と示すように、感覚の薄い私にもわかるほど強く抱きしめた。
目を覚ますと、まだ薄暗かった。
その薄暗さに、船の中の日々を思い出す。
箱の外に出ると、既に起きていたわかばが「今日は早起きですね」と微笑む。
せっかくだから散策することにした。
生まれたての風に吹かれながら、東の空から光が差し夜が明けていく様を二人で眺めた。
こんな早朝の逢引も悪くない。
変な建物の寝台に書かれた文字が目に入った。
『性転換した上で相手を満足させなければ出られない部屋』
瞬間、身体が熱くなり、気が着けば男になっていた。
信じたくないが、現実は非情だった。
こんな私を相手にできるわけがない。
そう思っていたら、わかばは揺るぎのないキラキラした目で私に触れた。
今の僕には、息を吸うのも難しい。
背中から加わる途轍もない圧力を受け、肺は悲鳴を上げている。
いずれ潰れるだろう。
けれど、意識を失うわけにはいかない。
まだやることがある。
霞む目を開くと、りんさんの無事は確認できた。
蒼白な顔で、僕に向けて何かを叫んでいる。
青色の最後の一枚を発動させた。
今の僕には、息を吸うのも難しい。
鼓動が速い。口がカラカラに乾く。
世界がひどく眩しい。
初めて見た笑顔はそれ以上に眩しかった。
そして、告げられた「好き」という言葉。
ずっとりんさんにだけ抱いていた、何と呼ぶべきかもわからない感情の答えがそこにあった。
同じ想いを伝えるために、口を開いた。
どうしてこんなことになるんだろう。
僕の膝に頭を乗せ、ダイダイさんを抱えて眠るりんさんを見ながら頭を抱えた。
ダイダイを取ってしまうのは簡単だけど、りんさんの寝顔はどこか満足気で起こすのに忍びない。
眠ろうにも膝の上の感触や無防備な姿に気を取られてしまう。
結局、朝までこのままだった。
今日も今日とて、わかばは群生しているケムリクサに夢中になっている。
採集を待ってはいたが、いつまで経っても終わらない。
「すみません、あともう少し…」
「何回目だ、行くぞ」
もう待てないので、小脇に抱え、歩き出す。
「あー!」
わかばは未練たらしく残されたケムリクサに手を伸ばし、叫んでいた。
わかばが怪我をしたが、ミドリがなかった。
傷口を確かめていると「痛いの痛いのとんでいけ」と口をついて出た。
「今のは…?」
不思議そうに尋ねられたが、自分でもよくわからない。
けれど、わかばは「なんとなく痛みが和らぐ気がしますね」と笑った。
言葉に効果はなくとも、気持ちは伝わるのだろうか。
まさか、こんな世界があるとは思わなかった。
赤霧がなく赤虫もいない、光溢れる土地。
水に溢れ、ご姉妹が渇くこともない。
新しいものもたくさんあって、いくら探検しても飽きることがない。
発見がある度に、教えようと振り向いたら、同じことを考えていたりんさんと目が合うこともしょっちゅうだった。
ぱちり、と目が覚めた。
少し寒いと思ったら、服を脱いだままだった。
どこに置いたかな、と探すと、りんさんの身体の下に敷き込まれている。
何とか起こさないように取ろうとしたけれど、上手くいかない。
どころか欲求に素直な身体が元気になってしまう。
寝てる彼女を起こすのも悪いし、どうしたものか。
普段は鈍くさいし、けして強くはない。
なのに、わかばに抱きしめられた時に感じる力強さは何だろう。
その手が肌をなぞると、感覚は弱いはずなのに反応してしまうし、耳元で囁かれるとぞくりとして、胸がドクドクと脈打つ。
熱く強い目で見られると、好きにされたくなって、身体の奥底から疼いてしまう。
すー、すー、と穏やかな呼吸が聞こえた。
りんさんを見ると、とても安らいだ顔をしている。
以前は、休む時もいつでも対応できる姿勢で、こんなあどけない顔をしてはいなかった。
本当に、良かったと思う。
見ているうちに、僕も眠たくなってくる。
目を閉じる間際に、りんさんの顔を見てから眠りについた。
「りんさん!」
わかばが前に出て、ケムリクサをかざした。
展開された防壁が赤虫の攻撃を防ぐ。
ためらいなく背をさらすその姿に、りんへの不信は毛ほどもない。
考えたこともないかもしれない。
りんもわかばを信用できないというポーズを取りながら、気がついたらわかばのカバーが当たり前になっていた。
瞼を開けると、わかばがとても優しい目で見つめていた。
膝を枕にして眠っていたらしい。
いつだったろうか。
こんな風に、わかばを見上げる夢を見たような気がする。
「すみません、起こしましたね」
謝るわかばに大丈夫と返す。
もう少しこうしていいか、と尋ねるとわかばはとても嬉しそうな笑顔で頷いた。
りんさんと「好き」同士になってから、二人きりで過ごす時が増えた。
手を繋いで歩いて、同じ物を見て、笑いあう。
寄り添って、抱きしめあう時もある。
けど、それだけでは物足りなくなってきた。
その柔肌を暴き、身体を重ね、深い部分で交わりたい。
心が、身体が、どうしようもなくあの人を欲していた。
初めて見た世界は薄暗く、彼女たちの輝きが一際目を引いた。
その鮮やかさは、深く心に刻まれている。
共に過ごすうちに、想いは唯一無二のものになっていた。
そうした感情を昔の人たちは恋と呼び、中でも初めての恋は特別なものと考えていたようだ。
僕の初恋は色鮮やかなまま、現在進行形で続いている。
姉妹たちが減り、背負うものが増えていくうち、甘え方を忘れた。
そもそも、甘えるということがすっかりわからなくなってしまっていた。
わかばと出会い、固まりきった心を少しずつ溶かされ、心配のいらない世界に出て、やっと肩の力を抜くことができるようになった。
だから、わかばも私に甘えてほしい。
うとうとしていたらしい。
ふと気がつくと、天井からの淡い光が、側で眠っているりんさんを照らし出していた。
空のキイロは、ずいぶん高い位置にあるようだ。
昼の光の下とはまた違って見える静かな寝顔に、僕まで安らぎ、満たされるようだった。
傍らの体温に眠りを誘われ、僕はもう少し眠ることにした。
わかばと船長が二人で何やら楽しそうに話している。
いつもの風景なのに、何かがおかしい。
よく見ると、わかばが船長の白衣を着ている。道理で何かが変だと思った。
駆け寄ってわかば、と呼びかけるとよくわかりましたね、と少し驚いた顔をした。
わからないわけがない。
キラキラして見える方がわかばだ。
船の外では、夜でも空が光っている。
私たちは湖から汲んだ水を飲み、わかばは見つけた木の実やウスイロを食べる。
残りを心配せず飲める水は安心の味がした。
広々とした空の下で姉さんとりなが笑っている。
隣のわかばと目が合うと、微笑んで手を取り、繋がれる。
毒と何か暖かいものが穏やかに広がった。
夜には、二人で抱き合っている。
そのうち体を絡ませ、繋がるようになった。
この行為の意味は知らない。
だけどその瞬間ほどわかばを強く、近くに感じる時もない。
なぜかはわからないが、こうしていることは姉さんにもりなにも言ってはいけないような気がしている。
だから、これは二人だけの秘密だった。
これは裏切りに違いない。
朦朧とした意識で思った。
ミドリさんの葉は既に尽き、木への操作は弾かれた。
こうしたところで、死を少し先延ばしするだけだろう。
それでも。
死んでほしくなかった。
少しでも生きてほしかった。
最後の最後で、僕は自分のエゴを優先してしまった。
りんさんを裏切ってしまった。
わかばには、もっと自分を大事にしてほしい。
痛いのは嫌だとか言いながら、いざという時には自分の身を顧みずに私たちを守ろうとする。
そう言うと、僕はりんさんが心配ですと言われた。
大切なもののために無理をするから、と。
きっと、どこかで似ている私たちは、互いに守りあうぐらいがちょうどいい。
「あれ…?」
わかばが少し首を傾げた。
失礼します、と言って私の首筋に自分の顔に近づけた。
花の匂いがするらしい。
さっき二人で寝転んだ時についたのだろうか。
「りんさん本人の香りと入り混じって、めっさいい匂いです」と朗らかに笑うわかばを見て、匂いがわからないことを初めて少し寂しく思った。
また会えるなんて思わなかった。
「りんちゃんは仲良くやってるみたいだねえ」
顔を合わせるや否やりょうは笑った。
何も言ってないのになぜわかるんだろうか。
そう尋ねると、私からわかばの匂いがする、らしい。
思い当たったことに、ひどくドクドクする。
…毎日側にいると、匂いまで移ってしまうのか。
「どうして目を逸らすんだ」
りんに問われ、わかばは答えに詰まった。
「好きだ」と言われてから、りんはわかばに微笑みかけることが多くなった。
嬉しいし、ずっと見ていたいと思う。
けれど、その笑顔があまりにキラキラしていて凝視できない。
この、ひどく矛盾した感情を、どう伝えればいいのだろうか。
怖くないわけがない。
それでも、咄嗟に動いてしまう。
死ぬのは怖いし、生きるのは大好きだ。
けれどご姉妹が、りんさんが苦しむ姿は見たくない。
僕より遥かに強いこともわかっている。
守りたいなんて言うのはおこがましい。
けれどそれでも、彼女たちが苦しむよりは自分が痛い思いをする方がマシだった。
走る。ひたすら走る。
ここはどこなのか。
何が起きているのか。
何もわからないままに襲われ、生存本能に従ってひた走る。
走りながら思う。
そもそも、僕は何だ?
どこから来て、何をしていたのか。
全くわからない。
このまま走って、どこへ行き着くのか?
何もわからないまま、ひたすら走り、逃げていた。
船の外は、色々な音や色に溢れている。
見る物、聞く物、触れる物。
全てが珍しくて、いくら探検しても飽きることはない。
夢中になっていると、りんさんの穏やかな声がかかった。
「わかば、そろそろ帰ろうか」
僕たちは手を繋いで、りつさんたちが待つ箱へ向かう。
変わらない、僕たちの帰る場所だった。
私たちは、さいしょのひと──りりから生まれた。
けれど、姉妹それぞれ違う「好き」を見いだした、りりではない別の存在だ。
記憶の葉を見た時、りりと一緒にいた船長がわかばだと思った。
けれど、違う。
わかばは船長ではない。
私とわかばが新しく出会って、惹かれ、私たちだけの関係を結んでいった。
「疲れているんだろう、ほら」
膝を差し出すと、わかばは「すみません」と一言謝って頭を乗せた。
やはり疲れていたのだろう、すぐに寝息が聞こえはじめた。
他人と協力はしてもあまり甘える方ではないわかばが、素直に身を委ねてくれるのはとても嬉しい。
髪を撫でると、ひどく満たされた気分になった。
腕を差し出すと、うとうとしていたりんさんは素直に頭を預けてきた。
安らいだ寝顔に幸福感が満ちる。
「おやすみなさい、りんさん」
そして僕も眠りに就く。
夢でも会えるかはわからないけれど。
目を閉じる間際に。
目を開けた時最初に。
りんさんの姿を見れることが、とても嬉しい。
ひそかな本音だった。
もしも、記憶を失う前の僕がケムリクサの研究者で、今より詳しい知識があったなら。
もっと良い対処ができただろうか。
赤い根に潰されながら、そんなことを考えた。
だけど、もしもの話なんて意味はない。
今この場にある僕で、なんとかするしかない。
考えろ。
まだ、りんさんのために何かができるはず…。
空のキイロ─太陽、と言ったか─が山際にかかり、色を変える。
時間によって位置や色が変わるのが、いつも不思議でならない。
橙色の光に照らされ、細く長く伸びた影が先を行くわかばの影と隣り合う。
少し手を動かすと、影同士が手を繋ぐ。
すぐに振り返ったわかばがにこりと笑って戻り、私の手を取った。
幾度も触れ合った身体はわかばの手がなぞる度に昂ぶり、声を漏らさずにいられない。
なんだか恥ずかしくなって唇をぎゅっと噛みしめるが、それでも抑えることはできない。
それを見てとったのか、わかばが口づけてくる。
唇をこじ開け、舌と舌が絡んで水音を立てる。
喜悦の声は、その中に溶けた。
全く見たこともない建物が立ち並ぶ街並み。
わかばの大元となったヒトにとってはとても懐かしい景色であるが、彼にとっては何もかも知らない街だった。
隣にいる紅紫色だけが、馴染んだものだった。
未知への不安と好奇心が入り混った目の彼女の手を取り、大丈夫ですよと笑いかけ、二人で歩き始めた。
そっとわかばの脇腹に触れる。
以前赤い根に貫かれた場所だ。
私たちと違ってわかばは血を流すし、普通の治療では痕が残るらしい。
ミドリがなければ、わかばはどれだけ傷跡が残っていただろうか。
それでも、躊躇わずに身を晒すだろう。
それどころか…。
そうならなくて良かったと、痕のない傷跡を撫でた。
記憶の葉の映像を見たりんさんは「あれはたぶん、お前だ」と言った。
けれど、僕には全く思い出せないし、ピンと来ない。
今現在が充実しているからか、元々過去にそこまで興味がなかった。
僕にとっては、ご姉妹と、りんさんと過ごした日々がすべてだった。
できれば赤い木を止めた後も、ずっと一緒に。
わかばの目はいつもその感情を映しているから、見ていて飽きない。
新しいものを見つけた時や興味の対象を語る時はとてもキラキラしているし、真剣な時は説得する真摯さに溢れている。
そして、私を求める時の目の熱さ、何とも言えない強さに、なされるままになってしまう。
結局、私はその目に弱かった。
りんはわかば君を見る時や話題に出す時、胸元がドクドクする、これは毒に違いない、と言う。
たしか、りょくちゃんから聞いた毒ってもう少し違うものだったような…。
でも、わかば君が来てから、りんの顔は少しずつ柔らかくなってきている。
だから、毒は毒でもきっといい毒で、薬なんじゃないかにゃ。