心に刻みしこと 60年代後半の学生生活

2007年10月23日、北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟の1室で、中村得子(なかむら とくこ)さん〔宗教学第24期、1972年卒業〕に、 学生時代の思い出などをお聞きしました。

今年は2007年ですから、40年前に北大に入学したんですね。大学にいたのは、4年プラス留年した1年で、5年間です。大学紛争の渦中に在学し ていましたが、経験したことは僅かです。

私は1967年(昭和42年)に入学しました。生まれたのは、1948年(昭和23年)、敗戦後間もない広島市です。実家は香川県高松市というところです。 まだ北大の入試は、東京でもやっていた頃でしたが、北海道で受験しました。

願書を出しても受験票がこないんですよ、心配して学生課に連絡したら、「受付ています」と言われました。後で分かったんですが、玄関で飼っていた犬が それを全部かじってしまって、ぐちゃぐちゃになっていたんです。

文類を受けました。何を勉強したいというより、北海道に行きたいという気持ちでした。父が旅順で大学を終えたものですから、よく父の写真で、 リンゴの木に登ったり、スケートをしている姿を見ていました。旅順工大は、古い白亜の建物で、北国にすごく憧れていたのです。 雪の降るところに行って見たいなと、そんな気持ちでした。

高松というところは、女子の進学先はだいたい女子大です。半数の女子は職業意識を持っていましたが、残り半数は教養のつもりで進学しました。 お茶の水、奈良女子大とか、まあ上智大学で語学をやるとかです。それで、帝国大学にいく女性は、殆どいないという感じです。 むこうではまだ帝国大学なんですよ。

北大にきた時、女子寮を希望しました。父が、親戚もいないし、自分が寮生活をしたものですから寮を勧めたのです。 農学部の横から桑園にいったところの、あのおんぼろの女子寮です。その寮に願書を出していたんですが、入れるかどうかも分からず、 また学生課にいくと、「あなたは審査に受かっていますから、すぐ寮に入ってください」というんです。で、寮にいくと「あなたは名簿に 入っていませんから、だめです」いわれます。その時すでに寮闘争が始まっていたんです。 大学側が管理権として5名を選び、寮の自冶権として5名を選んでいました。5名の空きに5名、5名で10名です。 そのうち3名位はダブっていたんですが、残りはどちらかに選ばれて、どちらかに選ばれていないんです。学校は無理押しして入れる、 寮生は絶対入れない、私にとっては、はじめから厳しい状態でした。

当時、駅留めのチッキで小荷物を送っていました。札幌駅留めで送ったのです。でも札幌駅は貨物の取り扱い駅ではなく、桑園、新札幌、苗穂、 3つの駅に洋服やら布団袋などが別々に着いていたんです。駅も住む所もわからないんです。父に「どこに行くのか分からない」と電話で言うと 「おまえは、寮に入れ」と訳の分からないことを言うのですよ。それで、ともかく住む所を決めようと思って琴似の方に下宿を決めました。 とても良いお宅で、母と娘2人の下宿でした。でも結局辞退者がいて、女子寮に入りました。最初はいづらかったんですが、若いし、同じ学生ですし、 だんだん仲良くなりました。その時、すでに学校側と寮生とはごたごたしていたんですね。

私は、香川県から行ったんですが、高校時代から、所謂70年安保というのが迫っていること、何ごとか大学にいったら あるのではないかと思っていたんです。ところが寮が、すでに政治的雰囲気のなかにありました。

その前年(1966年)、早稲田で学費値上げ反対の闘争がおこっていました。恵迪寮では、革マルも強かったので、民青との争いがあり、 寮生の処分者が出ていました。私が入った時は、その処分撤回運動が始まっていたのです。そういうことが、だんだん分かってきたんです。

大学に入ってまずサークル、何に入ろうかとうろうろ見ていたら、文連会館というのが正門の横(今の学術交流会館)にあって、 1階に学生の下宿やアルバイトを斡旋する、ちょっと郵便局のような感じの所があって、階段を上がって奥に北大新聞会、その横に雑誌研究会 というサークルがあったんです。

そこで出している雑誌が、『雄たけび』という名前でした。娘に「どんなサークルに入ったことがあるの」と言われた時に、「雑研、雄たけび」 というと、「それなんなの」と言われてしまいました。そうですよ。当時、そういった言葉を割りと普通に使っていたんですね。 北海道を知りたいと思って雑研に入ったんです。そこは雑誌をつくる会なので、結構文学部の人達がいたんです。

その夏は皆で炭鉱に行ったんです。その頃炭鉱は斜陽化にむかっていて、閉山とまではいかないけれど、末期症状でした。 前年(昭和41年)「佐藤総理大臣様、炭鉱をつぶさないで下さい」と、当時の総理大臣に手紙を書いた赤平豊里炭鉱の小学校6年生の少女の手紙が 話題になっていたんです。

その空知川のほとりの赤平炭鉱に、雑研の仲間たちと取材に行きました。初めて炭鉱というものを見ました。珍しかったですね。 その頃女子寮に入った人達は、皆貧しかったです。持ち物もほんとうに粗末でした。炭鉱の子女もいました。友達から聞く炭鉱の大変さや 北海道の社会について、色々考えていました。

そして、1967年10月8日、羽田で京大生の山崎君という人が亡なったんです。佐藤首相のベトナム訪問を阻止しようとして、 学生が羽田の周辺で激しく機動隊と衝突しました。そこで、学生が1人死んだんですよ。寮の問題はあまりピンとこなかったんですけれど、 これからは学生運動が盛んになるのかなと思いました。とにかく学生が死んだわけだから、北大でもそれに抗議する集会がワーッと教養から 農学部の間のあちこちであったんです。はじめて、あちこちで大衆組織の人達が、ヘルメットは被っていなかったけれど集会をやったんです。 急に立てカンバンなどが構内にふえました。私には、人が死ぬということは60年安保以来のショッキングなことでしたから、 この時はじめて集会に出たんです。まだ学内でやっていて、外に出るのはもう少し後になります。私が学外のデモにでたのが何時だったのか忘れましたが、 すごい緊張感がありました。この年は、なにか色々の兆しが出てきた年でしたね。

一方、雑研は訳の分からない状態でした。政治的なことをやる人とやらない人(ノンポリ)が、分かれてきた時代です。でも、 皆何か自分のバックボーンになる考えを、探していた時期ではあったと思うんです。当時読まれていた本は、吉本隆明、高橋和巳、埴谷雄高などです。 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』がベストセラーになったりもしました。私はロシア語をとっていたので、ドストエフスキーくらいから始めて、 文学と政治などが渾然一体としたものを読んでいました。クラスでも読書会が盛んでした。私のクラス、1年6組でもクラス雑誌を何号か出し、 みんな盛んに書きました。

クラス53名中、女子8名でした。その女子の半数は札幌出身で、残りは道外です。女子学生の比率は、まだ少なくて1割くらいでしょうか (大学入学者もその世代の2割という説もあります)。

宗教学に移行しました。久しぶりに4人が移行したのです。学部生はおらず、院生2人で、移行生にも机がありました。土屋先生が、 まだ助手でいらして、中川秀恭先生はおられませんでした。その頃、宗教学の卒業生は、院生をやってどこかの大学の助手や助教授になったり、 高校教員になるのが、最良のコースだったんです。割と暢気で静かな雰囲気で荒れた感じは全くなかったんです。

古いシベリヤ街道のある校舎で授業をうけました。新校舎は、造られていましたが、移行生は、立派な校舎には入れてもらえませんでした。 でも楽しかったです。投げ込み式ストーブが黒板の横にあって、時々ゴーッと音をたてて燃え上がって、前の方の人が石炭をくべにいくということが 珍しかったんです。ええ、スチームもありました。ガーン、ガーンとすごい音がしたり、所々に穴が空いていて、ヒューと水蒸気が噴出したりするんです。

移行した時、宇野先生が担当教授でした。先生の前の大きなテーブルに4人が座ったんです。全員ドイツ語を履修していませんでした。 マックス・ウェーバーをやるというのにです。先生が「どうやって、ゼミをやろうか・・・」「来年3年生になるまでドイツ語をやろう」 ということになったのです。宇野先生からドイツ語を教えていただきました。デモに出ながら、3~4カ月間執拗にドイツ語をやりました。 でも何も覚えていないんですよ。当時、面白いフランス哲学・思想が出てきた頃ですから、私以外の3人はフランス語もやっていました。そんな風でした。

1968年頃は、面白い時代だったと思うんですね。フランスでは5月革命が始まっていました。アメリカでの反戦運動やヒッピー文化、演劇やロックなど、 世界中で新しい文化のうねりが起こっていました。そしてこの年に入って、東大闘争が始まったんです。日大でも使途不明金で、すごかったですね。 秋田明大の日大、筋金入りだったですよ。東大に全共闘が出来、日大にも出来たんです。北大は、まだ、割と暢気でしたね。

1969年1月と思います。安田講堂で機動隊との攻防戦があり、テレビ中継されたんです。屋上で、ヘルメットの学生たちが放水されたり、 「安田講堂でまた会おう」「時計台放送は、一時ここで中止」とかアジ演説があり、機動隊に封鎖解除されたんです。それまで東大は、 総長と全共闘とが団交をずっとやっていたし、処分撤回闘争など色々あるのでしょうが。

東大紛争は、医学部から始まったんですよね? 医学部ほど、講座制という旧体制の頑強なところなのに、 北大の場合は医学部から火がついたということはないので、その意味で革新的なことだなと思いましたね。

そうです。医学部なんですね。あの時は、帝大解体というのが一番最初にあったんです。大学に入って、そこにある権威というものに、 皆乗っかって官僚などになっていく。志を持っている人は、それで社会に貢献しようと思えたのでしょうが。この時期は、 学生がものすごく増えていましたし、その権威主義にすぐ乗っかっていけないと思う学生もたくさん出てきたと思うのです。 東大の学生も同じと思います。最初は、権威に対する反発、抵抗という思いで皆の共感を得たんです。北大でも確かなことは言えませんが、 青医連などは闘争の大きな牽引役だったと思います。

ある種の志でという点で、純粋さは理解できたけれど、やがてノンセクトラジカルにまでいってしまうのですよね。

何の疑問もなく、権威的な国立大学を卒業して、それでいいのか。何か違うものを深く求めるべきか。皆葛藤があったんです。

自分は、経済的に恵まれるか、成績がちょっと良かったということで、大学に入って来たのだけれど、小学校や中学校のクラスには、 進学しない人達がたくさんいました。私たちの時代は、団塊の世代でしたが、まだ一握りの人達しか大学に進みませんでした。 地方ではエリートだと云われて進学してきた沢山の人間が塊となった時代に、自分らしく生きることとは何だろうかと考えた時、 勉強だけしていて就職試験をうけて、それだけでいいのかと悩みます。自分が青春の色々な悩みをもったその時期が、 まさに政治闘争の時期とぶつかってしまったんですね。だから全共闘の一番はじめの頃は、あまり政治的ではなかったんですよ。 ただ知識人としてどういう自分であるべきか、という事だったと思うんですよ。知識人というレベルでさえない自分達とは、いったい何なんだろう、 という事だったんです。

だから70年安保というのは、要するに団塊の世代の闘争なのですね。

ええ。しっかりとした上昇志向がないと勝てないというのは変だけれど、ちゃんと風にのって飛び上がれないという競争のなかで、 色々な自意識のレベルがあって、そうはなれない自分、自分は何か、そういう自我意識に向かいあわされてしまったんですね。 やはり人数が多くて、競争社会にいたからだと思います。でも、結局、そこに戻らなくてはならないのは確かなんですね。社会で仕事をし、 食べていかなければならない。モラトリアムとよく言われたけれども、大学に入ってずいぶん長く7、8年かけて卒業していったのは、 その間にやっと身のふり方に折り合いをつけたというか、出会いを見つけたという感じかなと思います。甘かったかもしれないけれど。

前述した様に、1969年1月18日、安田講堂に機動隊がはいって東大闘争は終ったわけです。その年の入学試験は行なわれませんでした。 それで、多くの大学が入学式粉砕ということをやって、東大闘争を引き継ごうとしたんです。

北大では、4月10日に入学式粉砕闘争があったんです。早朝、入学式場の体育館を封鎖したんです。その時に、 北大全共闘のかたちがほぼ出来てきたと思うんです。それまではクラス反戦というほんの一握りの教養の学生がやりました。

4月28日沖縄反戦デーで「北大生、あかつきの乱闘」と書かれたものを持っているんですが、もしかして得子さんのことかしらと思ったんですよ。

皆さんが思っているほど、そんなに暴力学生ではなかったですよ。(笑)「革マル派、大学本部封鎖。堀内学長を軟禁して、 大衆団交をせまる。翌日自主退去」(5.20)と書いてますが、よく分からないです。「五派連合、大学本部再封鎖」(5.26)とありますね。

大学闘争」という題で検索してみましたら、「北の砦、北大バリケートより、全国の闘いを学友へ 北海道大学学部共闘.全学助手. 院生共闘会議 '69年」という記事がありました。

この年全国140校位の大学が、学園闘争に入ったそうです。どこも無期限闘争、バリケート封鎖という状態で、 なんとかして東大の闘争に連なろうという気持ちでした。

東大からオルグがきたと聞いたことがあります。70年安保闘争という大きな政治目標を前にして、北大にも、 集会やバリケートの指導にやって来たと聞いています。北大生は、バリケートの出口をつくらなかったという、有名な話がありますが、 それも真偽の程は分かりません。

一番最初にバリケート封鎖したのは、本部でした。5月末(5.20、5.26~)で、教養部の封鎖は、1ヶ月後(6.28~11.8)ですね。 同じ日に起きたように錯覚していたけれど、随分違うんですね。

文学部の封鎖は、どうだったんですか? 8月17日、法文経教4学部を封鎖とありますが。

私、夏休みで帰省していました。封鎖の最中に戻ってきました。バリケートといっても1~3階の椅子や机を1階に移して積み上げているだけで、 皆出たり入ったりしていました。よく先生に「誰々、なんとかの本がいるから取って来て」といわれ、学生が「はい」といって 先生の部屋から本を持って来たりといったふうでした。でも中哲、中文の教官室から揃った全集や、小奇麗な本が盗まれたそうです。

英文の先生も盗まれたと聞きました。本職の泥棒も入っていて、売れそうなものは盗まれたと聞きます。ただ幸いにして北大中央図書館は 北大生が封鎖(7.10~11.8)したので貴重な借用本は散逸しなかったといいます。

かなり盗難はあったんですね。北大図書館は革マル派の拠点で他から人を入れなかったです。文学部には色々な人達がはいっていて、 こんなことを人に擦り付けるのはどうかと思うんですが、壊されたり落書きされたことは外部の人達によってなされたように思います。 封鎖の時のことはきちんとは分からないですけれど、文学部闘争委員会というのがありました。これは助手、院生、学部生が集まって30人位が、 自分達は全共闘であると表明したんですね。「8.17全共闘と仮称」と書いてあります。この事ですね。大学から、中央ローンで集会を開いて街に出て、 色々な政治的スローガンでデモをして帰ってくる。そんなに投石もしていないですよ。文学部の学生は、全共闘と名乗ったわりには大人しいというか、 期待されない面々で、数にもならないということではあったと思うんですけれどね。

文学部の無秩序状態は、5、6月から夏休みをはさんで秋くらいまででしょうか。封鎖派と反封鎖派学生との小競り合いがあり、 一般学生の気持ちも授業再開の方へ傾きだしていきました。なんとか早く秩序を回復しようと、学校側は機動隊を入れることになりました。 文学部の解放は10月30日です。こんなに遅くまでやっていたんですね。寒いね。でも文学部は、機動隊に解除されたのではなく、 民青の人達が入ってきて解除されたんです。民青の反封鎖派の人達がバリケートを壊して入ってきたんです。1階階段辺りに火を付けられたんです。 それで上の方にいた全共闘の学生たちは降りられなくて軍艦講堂へ行って、法学部の3階のあたりから、図書館へ行く渡り廊下(木造)の 屋根の上をつたって図書館へ逃げました。その壁の非常用ハシゴを革マルの人達に助けてもらって上にあがったんです。図書館の中はきれいでした。

封鎖中、女性はバリケートの中で寝泊りしたんですか?

いいえ、寝泊りはしていませんでした。下宿に帰っていましたよ。

10月21日、何かやりあいましたよね?

正門前で、10.8、10.21と色々と集会が続くんです。この10.21は国際反戦デーで、北大正門前の市道で全共闘系の武装デモと機動隊が衝突したんです。 皆その辺の敷石をかき割って投げたので、翌日路面電車の軌道はデコボコでした。周辺の古本屋さんなど大変だったでしょうね。 この頃は集会、デモを街へ出かけていってやったんです。機動隊の人達は指導学生の名前を知っていて、「○○君、もう少し寄せなさい」とか言うんです。 また、「○○君、少し早めなさい、遅めなさい」とか、デモに出ている学生も苦笑いだったり、また呼ばれているよという感じでした。 投石等もしていたんですけれど。地方都市のことなので、まあそういう面もあったんです。最後まで真面目で、暴力学生というのとはちょっと違う人達が 全共闘の中にたくさんいましたよ。彼らは、今障害者の問題や環境問題などをやっているんです。

当時、男性と一緒に走るのはかなり大変でした。フランスデモというのは、手をワーッと左右にひろげて繋ぎ、道路いっぱいに広がって走るのです。 背後を機動隊に追われながら走るのは、すごく疲れてしんどかったです。それに比べてジグザグデモは、皆くっついて蟻ん子のようにビシュビシュと 歩いていくので苦しくはないんですよ。集会に参加する男性は多かったけれど、女性はすぐに減っていきました。街頭デモに最後まで参加する女性は、 そう多くはなかったです。この反戦デーの衝突での逮捕者は83人でした。そして女子も5人と書いてありますが、おそらくそれは教養部か 看護学校の学生だと思います。看護学生は非常に熱心に参加していましたから。

こうしてこの1969年の11月に、本部で機動隊との攻防戦があって、それで北大の闘争というものが一応終わったんです。 あの頃大谷会館(南3西1)は、左翼の集会にもホールを貸してくれたんです。すでに全共闘は解散すべきかどうかという状態でしたが、 赤軍派の支援集会が開かれたんです。会場に入る前に一人一人警察のチェックがまずあり、次に開催者側のチェックがあって中に入ると、 ものすごい人でした。そのすごい人の間を赤軍派の人達が入ってきたんです。北海道まで経済支援と後方支援を募るために、 オルグに来たんでしょう。最後としてはすごかったです。 その後のことですが、70年になると政治的なことはあまり上手くいかなくなっていったのです。

かって自治会を再建した事があるんですが、入学の時にはありましたか?

しっかりとありましたよ。自治会選挙が1、2回あって自治会ということで色々なことが行われていました。その後全共闘になったので、 どうなったか分からないです。本当に学生運動は新左翼が出てきて、区別できないくらい、名前も分からない位に分かれてしまいました。 何か資料を見ても分からないです。皆ヘルメットに自分の好きな名前を書いていたんですけれど、この前読んだ本には、 最後になると「ニヤロメ」と書いてある人もいたそうです。何か自分の好きなようにしているという感じだったですよ。

私は、鳥山教授(文学部事務取扱、西洋史)の卒業証書なんですよね。一年間留年して72年に卒業しました。よく卒業させてもらえたなと思います。 再び1978年北海道に帰ってきました。

私の年、60歳くらいになると、かなり人が亡くなってきます。自分を含めてそろそろ死ぬ年齢になったんだと、本当にそう思うのです。 あの様な経験をしてどのような人生を送ったのかなと見渡すと、大体においてフリーライターになったり、まあ組織に属さない人が多かったかなと思います。 死んだ人はそこで終わった訳ですし、これから生きのびた人が、どんな風になるのか分かりませんけれど。全共闘とはどういうものだったのかなと、 私はガンの告知を受けた時、こんな思いが浮かんだんです。

「ガンですよ」と言われて、「あー、分かりました」と答えました。「手術です」と言われた時、なぜか私は全共闘なんだと思いました。 「あなたは誰ですか」と言われたら「私は中村得子です」というより「私は全共闘です」という、そういう感じなんです。 自分が死ぬということに一番近づいて、ガン告知された時でも、それはそれでしかたがないやと思えるのは、 やはり全共闘だったということが大きいなと思うんです。だから友達に「案外これって、へのつっぱり位になるよ」と言ったんです。 誰かと一緒に突き詰めて何かをやった経験というもの、その中での一人だったという経験が、もう一度どこかでぽっと出てくることがあるなら、 死ぬとか、困難な状態の時に役に立つかなと思うんです。実際になったらドタバタと騒ぐのかもしれませんけれど。

父の世代の戦争体験をした人達は、本当に強かったと思います。あの経験は大きくて、動かし難いものだったと思います。 生死ということについては何とかなるかな、といった恐れのない気持ちがあると思うんです。きっとあの戦争を体験した人達は、7、 80歳まで良くここまで生きたと思いながら、あまり語らずに亡くなっていったのでしょう。父もそうでした。

今は政治も経済も閉塞状態ですね。特に若い人が、希望を持った生き方が出来ないというのは、社会が成り立たないということですからね。

若い人達は職もなく追いつめられていますよね。それに比べて、貧しかったけれど何か変な希望があったのでしょうね。 私たち団塊の世代の子供たちは30歳位で団塊ジュニアですが、引きこもりが多いし、仕事がない、働く場がないという状況です。 自分達が定年を迎えた時一番の心配は、子供の事だと言う人が大変多いです。それに、定年後年金だけで生活出来る人は一握りだと思います。 何%くらいの人が悠悠自適に過ごせるかは、想像以上に少ないんです。リストラや退職金の半額カットなどが結構出て来ていますから。

しかし、やはり若い人に仕事がないのが一番希望がないですよね。それに富の配分が相応にきちんと出来ていない。貧富の差が益々拡がっています。 勝者がそうでない者のことを分からなくなっています。それはそれとして認め合うことが全然出来なくなってきていますね。 本当に、むしろ今こそ物申してよい時代ですね。私たちの時代の解決出来なかった、見落された問題を深刻化させていると思います。

最近、土屋先生が私に「中村君、よかったね。貴女は言葉の人間でなくもっと感情的人間だから、今絵を描いているのはあっているよ」と言われました。 若い時にやったら良かったかもしれないけれど、色々の事があったから今こういう事が面白いと思うんですよ。 若い人がもっと希望というものがあったら、例えば農業でもいいし、職人でもいいし、ただ勉強するだけでは、全然ね。 ほかに面白いことはいっぱいありますよね。

決して良い教育状況ではないですね。農業高校や工業高校がなくなってきて、ひたすら皆普通高校から大学へ進学というようになってしまったしね。 かっては、大学を出なくても、色々なところに夫々に向いた優秀な人材がいたんですよね。

今、教育制度が一律になって皆大学を目指すようになってしまいましたね。毎年、北大を卒業した女性のうちで就職先がなかなかない人もいるでしょう。 自分に合うものが分かれば、その人達その才能を見つけられたかもしれないのにと思うんです。とりあえず皆が大学を目指していきますね。 ここにきて、色々な問題が何となく見えてきましたね。はっきりと現れてきたのですか?それを解決する方向性が見出せないですよね。 若い人達だけに押し付けてもだめですね。確かにこれからは暇ができるようだし、どうやって年をとっていくのかは私たちの課題だと思うんです。

北大のキャンパスは広いし、のどかな緑があってすばらしいですよね。構内はずいぶん変りましたね。

北大を卒業した本州から来た人達は、大学が懐かしいのね。学生時代、青春時代を思い出した時、あー、いい時代だったと思うんでしょうね。 定年直後の友人がやって来て、うろうろと北大のなかを歩いたり、札幌を楽しんでいきました。大学だけここで過ごして向こうに戻った人達にとっては、 北大はすばらしい思い出の中の一場面なんですよ。卒業生にとっては本当になつかしく、暇が出来たらぜひ一度帰りたい所なんです。 北大は皆の心のふるさとなんですから、もっとPRをしてもいいと思います。

高校生の時に大学受験を諦めたんです。勉強したくないし、つまらないと思って。それで北海道に行きたくて旭川の農協に手紙を書いて 「私は農業をやりたいから、そちらに行きたいです。どうやったらいけますか」と書いたんです。そうしたら「旭川は畑の真ん中にあるのではなくて、 ちゃんとした町ですから、この近くに牧場もなければ農場もありません」「早まらないで、もう少し考えてください。大学に入って考えてはどうですか」 という返事をもらったんです。高校1年の時です。北海道に行くのに旭川農協に手紙を書いてもだめで、これはちょっと違う方法を考えた方が 家を出て行きやすいと思ったんですね。

当時、教養部は文系が9クラスありました。学生が多くて詰め込み教室で、いっぱいなんです。建物は今と少し違いますね。すごく汚いプールがあって、 ここで水泳の単位を取るのかと思ってぞっとしました。それから体育館もありました。その裏手あたりに夕日に染まった蔦のからまったレンガの建物が あったんです。何だったのかしら。空き地がたくさんあって、テニスコートもありましたね。

教養の時勉強した中で一番面白かったのは、生物学のワムシの授業だったんです。『ワムシの研究』という分厚い本を買わされて、 でも面白かったんです。ほかの授業は興味がもてなくて、なかでも一番分からなかったのが哲学だったんです。今思えば入学から卒業まで 授業をちゃんと受けた気がしないんです。私は、大学でこれといって勉強したいものがなかったし、大学というところは、 それを教えてくれるところだと思っていました。哲学というものがさっぱり分からなかったので、これは極めなければいけないと思い移行したんです。 なかでもキリスト教とは、いったい何なんだと思って、これをやろうと思いました。宇野先生が原始ユダヤ教を研究されていました。 でもニーチェで卒論を書きましたよ。何かしっちゃかめっちゃかでしたね。だから土屋先生が「おい、何とかならんか」と云いましたよ。(笑)

学生運動家と、どうつながるんですかね?(笑)

運動家じゃなかったですよ。

土屋先生との付き合いもおかしいんですよ。ほとんど犬猿の仲?だった。(笑)半分はなれあいと云うか、親しみもあって不思議な感じでした。 良く付き合っていただけました。いつも土屋先生にとっては何をやっているのかと思っていたのでしょう。よく心配してくださいました。 常に、分からない事をやろうというのが私のスタンスでしたし、結構好奇心が強くて色々なことに挑戦していくんです。

水戸黄門みたいに、結末が分っているからいいようなものの、私達も聞いているだけで何をやっていたのかと思いますよ。 身内の親や友達は気がもめたでしょうね。

両親は気がもめたと思います。両親は身の細る思いだったと思うんですけれど、「あー」とも「うー」とも言わなかったんです。 親達は最後に北海道に来て私の側で亡くなったんです。今二人は簾舞の墓地で眠っています。北海道が気に入ったんですよ。 父は満州にいたことがあるので、久しぶりの北国の生活をすごく喜んでくれました。紅葉を愛で、四季の移り変わりを楽しみ、 除雪の大変さや私の家の大きなボイラーの耐用年数についても、技術者らしい観察をしていました。「お前のしたことで、 北海道に移住したのが一番よかった」と言われました。18歳で家を出てから40歳後半になって、10年間父と母をみられたから本当によかったです。 80歳になっていたんですけれど、四国からよく来たなと思います。そうなったのも不思議なことですね。

実は両親は、前に一度来ているんですよ。私が大学生の時、『北大新聞』をたまに取ってみたら、北大はどうも授業をやっていないようだ。 学費を送っているけれど学費がどうなっているか分からない。それで銀婚式は夫婦で北大に行こうと決めたらしく「行くから」と云うんです。 北大はバリケート封鎖の最中なので「来ていいけれど、北大には行かないでおこう」といっても、「絶対行く」と聞かないんですよ。 校門を入った途端「杉山~」とヘルメットをかぶった友達が呼ぶんです。それでどうも授業には出ていないし、おかしな事をしているということが 分かったらしいんです。昔の親は本当によく耐えたなと思います。

今も好奇心で何処にでも行く気持ちを持っています。好奇心さえあれば将来何とかなると思っています。

最後に、参考にした『北大文学部五十年の歩み』について書き添えたいと思います。大学紛争の始めから終わりまで、コンパクトに目が行き届いた よい資料だと、今更ながら敬意の念を深くしています。

参考資料 『北大文学部五十年の歩み 創立五十周年記念誌』(2000-9)北海道大学大学院文学研究科・文学部編 所収「文学部50年史略年表」

** 大いに盛り上がった3時間余りの座談会でした。参加者それぞれが、60年代後半の、大きなうねりのような熱い時代を共有し合い、 話題は?今”にも及びました。中村さん、長時間本当にありがとうございました。