2006年9月20日、北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟の1室にて、文学部同窓会女性部幹事の永井信(ながい みち)さん 〔日本史第9期、1957年文学部卒業、1960年修士課程修了、1963年博士課程単位取得退学〕に、学生時代の女子学生事情を語っていただきました。
入学当時の女子学生の人数はどのくらいでしたか?
入学定員千人余のとき、1953年入学の女性は34人でした。理類に20人、文類は14人で、1組に2人、2組に3人、3組にはいなくて、4組に9人。 1、2、3組がドイツ語で、4組はフランス語。女子学生にはフランス語の人気が高かったです。前の年は50人くらいの女子学生がいました。 私たちの時は新制中学第一期だったというのもあったでしょうけど、少し少なかったですね。
四年制大学に入ることの当時の社会的なイメージはどのようなものでしたか?
当時は、成績のよい女子で北大に絶対入ると思われる人に、高校の担任の先生が、受験させるように家に説得に行っても、 「北大なんて入ったら、本人だけならいいけど妹たちの縁談に差し支えるから」と、頑として受け入れない親もいました。 逆に、呉服屋の息子で、呉服屋を継ぐから大学なんて行かないって言った男子だっていたんです。 そうかというと、秋ぐらいからちょこちょこっと勉強を始めてストレートで受かった人もいるし…。 今みたいにだれでも大学行くって時代でもないし、当時は、優秀な人だから大学へ行くと限ったわけでもなかったんです。 あのころ優秀だった女の子は、まず拓銀に就職したものです。仲良し女の子三人のうち二人は成績優秀で拓銀に入って、 大学に進んだ一人が最初に結婚したとき、拓銀にいった子の親は「ああ、うちも北大にいれとけばよかった」っていう笑い話もあるくらいです。
勉強の環境はどうでしたか?
理類や講義ごとの教室はリンゴ園の方まで散らばっていて、皆で教養本部の食堂でご飯食べたりするんだけど、 女子がいる場所がないってことで、女子学生の控え室を本部の二階に作ってくれました。当時、医学部に進むには、 入ってから試験があるから勉強したいということで、後には「北方資料室」になった平屋の建物が当時の大学図書館でして、 男子は多くそこで勉強していました。せっかくできた女子学生控え室は、お弁当食べたりもするのですが、 いつしか医学部志望の女子学生の勉強部屋みたいになってしまいました。
文系の学部の建物は、今の大学本部(旧制予科の建物)とその後ろに研究室・教室の建物が南向きに三棟あり、 それを繋ぐ縦の廊下、俗称「シベリア街道※」は、地べたにコンクリート打ちっぱなしただけで、教室も今のようなサッシじゃない窓だし、 えらく寒かった。哲学科の助手さんがド近眼で、あの頃ハシリのコンタクトレンズをシベリア街道に落としたって言うので、廊下に水が溜まってる中、 寒い冬に、みんな駆り出されて這いずり回って探して、そうこうしてるうちに自分の部屋に戻ったら「あった!」なんてこともありました。 あれは忘れられないね(笑)。
女子学生の苦労 -トイレ事情-
まず、女子学生を入学させたというのに、女子専用のトイレというものがありませんでした。 中央講堂の横の、教養本部のあった平屋の建物には、文類の教室があって、そこに男女の別のないトイレがありました。 入るとまず男子小用のトイレがダァーっと並んでいて、その奥に大便所が4つほどあるだけ。そこに男子をかきわけて到達しなければならないわけです。 小さな教室だけの建物にはトイレがついてないから、農学部とか理学部の大きい学部に行くのだけれど、昼休みならともかく、 授業の間の休みでは時間が足りないので無理だったし、とても耐えられるようなものではなかったです。
というわけで、「トイレを作ってください」と学生委員の先生に言ったら、文化人としても有名なある先生が 「あんたたち、就職も男女平等とか言ったのだからトイレが一緒だっていいじゃないか」と言ったものだから、 お願いに行った10人以上の女子学生は、全員大いに憤慨しましたよ。
北大の事務の女性たちは、学生が授業中のうちに入ればいいから、まあまあ用は足りていたのでしょうけど、 職員組合の青年婦人部も「今まで我慢してたけど、女子学生の言うことももっともだ」ということで、運動に合流してくれました。 女性用トイレは全学になかったという状況で、教養部に作ってくれってお願いしに行ったのだから、 みんながまだ学部に散ってない2年のときだったように思います。それで運動して、やがてついに女子トイレができました。
授業の思い出
入学式・卒業式は、今は道路の下敷きになっている中央講堂で行われました。現在のロータリーの南側ではないかと思います。
授業は今みたいにひとところではなくて、体育っていえば今の教養のところにあるグランドまで1キロほど歩いて行ったりして…。 水泳は、更衣室がなかったから、女子だけ銭函に海水浴に1回か2回行って単位になりました。 四期に分かれて、選択制で、冬はスキーか卓球、夏は水泳とか。きちんと泳ぎを習いたいとか、ピンポンもうまくなりたいとか、 スケートのコーナリングがうまくなりたいとか、こっちは向学心に燃えているのに、先生方は女子はだいたいできていればもういいという感覚で、 懇切丁寧には教えてもらえませんでした。保健体育は、そのとき札幌近郊の学校をすべて一人の先生が教えていたから、出題も同じで、 問題なんかは各校の学生の間に直ちに出廻っていました。
当時は、学費は年間3,600円くらいで高くなかったから、アルバイトでもしてなんとかなるものだったけど、問題は生活費。 それで、これも私たちの運動で、女子寮が北6条辺りに初めてできて、その後、正門まっすぐのところにもう一ヶ所できました。 北6条の女子寮は、どっかの社員寮を北大が買ってできたものでしたから、初めから老朽化したものでした。 それでも高岡熊雄名誉教授がずいぶん心配してお声を掛けてくださったのには感激しました。
女子学生の就職にまつわるエピソードなどは?
新聞会をやっていたある女子の先輩が、就職活動のときに、他のところの求人には「男子求む」とか書いてあったのに、 地元の某新聞社ではそれがなかったので面接に行ったのですが、そうしたら、「女が来るとは夢にも思わなかった、女なんか想定してない」 と言われて、断られてしまった。そのことを学生大会の時に、中央講堂の壇上で、 出席していた学生委員の先生の前で話をして、「女の人もせっかく勉強しているのだから、 女の人も就職できるように学校側も働きかけるべきだし、私たち学生自身も頑張らなければだめだ」ということを言ったことがありました。
私たちのときは、女子学生は全体で3%。今や、2000年の文学部では55%に達したそうですね。
※シベリア街道:旧予科校舎、現在の大学本部の北側に延びていた廊下で、特に冬期間のあまりの寒さにこのような通称名で呼ばれていた。
後輩から:
永井さんの語りから、女子学生が、少ない人数ながら学部を超えて団結して熱く燃えていた様子が、かなり生々しく感じられました。 永井さん、本当にありがとうございました。