1950年代アメリカとその残滓を汲むフォールアウトの世界では、魅力的で多様な女性キャラクターたちが登場する。今回はアメリカという国とその中に存在する「女性」——とりわけ「魅力的な、理想的な女性」とされる「イデアル・ウーマン」について考えてみようと思う。
アメリカの歴史といえば「リブ」の歴史だと言わんばかりに、アメリカでは古くから多くの人権運動が行われてきた。人種、ジェンダー、そしてセクシュアリティ。そしてその歴史の中で、「理想の女性像」というものも常に形を変えてきた。ここではまず最初に、ざっくりと1950年代アメリカの家族やその中の女性の立場にふれてみよう。
五〇年代アメリカにおける家族の景色
今日でもよく目にする「核家族」という概念、これは1940〜50年代にアメリカで誕生・定着した。核家族とは、簡単に言えば「夫婦とその未婚のこども」を指す家族単位のことだ。現代日本でも普段何気なく使っている言葉なのだが、これを英語に訳すとなんとそのまま「nuclear family」である。アトミック・エイジなアメリカらしいネーミングだ。
とはいえここで示される「nuclear」は直接的に核兵器などを意味するのではなく、ラテン語の「nux」——「木の実」の意味。転じて短い「核心」を指す。原子核を表すラテン語「nucleus」の語源でもある——から来ているそうだ(「核」って言ってるけど核兵器じゃないよ! という言い訳は、少しどころかだいぶ「こじつけっぽい」感じもするが)。
では、そんな核家族の中でアメリカの女性はどんな風に生きていたのだろう。家族モデルなどという言葉があるように、人の在り方にはある程度の理想——それは悪く言えばステレオタイプとも表現できる——モデルが存在している。
1950年代アメリカと言えば、第二次大戦が終わりを迎え兵士として前線へ出ていた多くの若い男たちが故郷へと戻って来た時期である。そして、それまで戦時中であったことを理由に人材不足を補うため軍需産業などへ働きに出ていた多くの女性たちもまた、家庭へと戻って行った時期だ。これを幸か不幸か現代の目線から評価するのは難しいが、とにもかくにも、そうした中で戦後アメリカの「新しい家族のあり方」というものが形作られていったのだった。
もちろん、すべての女性がそうだった訳ではない。アメリカ政府のプロパガンダも含めて提供された、そして主に男性の目線から見た「結婚し子供を持つ、郊外住宅の主婦」という「理想の女性像」に疑問を持つ女性もいた。しかし大半の若い女性は、それに憧れる結果となった。
これは日本でも同様で、結婚した夫婦と二人の子供という「標準世帯」モデルが普及した(余談だが、筆者もこの「標準世帯」の一員である。両親と、子供二人という家族構成だ)。ちなみにその前の日本の家族構成を表す言葉は何かと言うと、「団塊世代」である。
イデアル、その意味と狭間
さて、ではここで「理想の女性」イデアル・ウーマンに話を戻そう。「イデアル」とは、そして「理想的」であるとは、一体どんなものを指すのか? そんな疑問を少しずつ、ほぐしていこうと思う。
まず「理想」という概念には二つのグループが存在するように思う。個人が各々にもつ個別の理想と、集団が揃って持ち得る共通した理想だ。ここでは後者について話を進めていく。また、この時代の「理想的な女性」とは主に男性目線、そしてセクシャルな思惑で形作られていったものである……ということを先に断っておこう。いつの世も、異性愛者は「つよい」のである。
イデアル(ideal)という言葉そのものについても勉強していこう。先ほどから何度も掛け合わせているように、この言葉は一般的に「理想的な」という意味を持っている。しかし英和辞典を見てみると、なかなか面白い意味もこの言葉には隠れているのだ。もし手元にあるなら、ぜひ一緒に「ideal」という単語を調べてみてほしい。
筆者が見ている英和辞典では、名詞の意味として最初に出てくるのが「理想」、そして次に出てくるのが「極致」だ。日本語ではよく「美の極致」なんて言い方をするが、それが理想的であるという考えと結ばれているのだろう。
さらに意味を探っていこう。次は形容詞としての意味だ。「理想の」「理想的な」「申し分ない」……こんな感じの意味が辞書には記されている。そしてさらに意味を調べてみると、これがまた面白い。なんと「観念的な」「想像上の」「架空の」といった意味が出てくるのだ。
これには筆者も驚いた。「理想」というポジティブな意味と「架空」というどこか後ろめたい(?)意味が、同じ単語の中に含まれているのである。理想とは、現実的なものではないのか。
確かに「理想を掲げる」ということは、「今そこにない状況やモノゴトを望み求める」ことに他ならない。もっと簡単に、かつオタク的に言えば「二次元への萌え」にも近いかもしれない。なるほどそうか、と思わず頷いてしまった。
また、哲学をかじっている人ならすぐに気づいたかもしれない。イデアルという言葉はそのまま「イデア」から発生したものだ。「イデア」とは古代ギリシャの哲学者プラトン(あのソクラテスの弟子でもある)が説いた、根本的な、そして完全な、真の姿といった意味を持つ言葉だ。
ちなみにその「姿」とは肉眼で見ることはできない代物で、心の目を研ぎ澄ますことによって初めて「見る」のが可能となる……といった具合である。プラトンの提唱したイデア論では、我々が肉体的に知覚しているものはすべて「イデアに似せた姿」であるとしている。これについてはユングの「元型論」も併せて読むと考察が捗ると思う。
お茶の間に現れた、理想的女性
言葉の意味がわかってきたところで、次は実際にどのようにして「理想的な女性」が発生し認知されるようになったのかを調べてみよう。1950年代のアメリカでは、ちょうどカラー映画やカラーテレビ、そしてカラー写真がメディアとして普及し始めた頃である。日本では1960年代に本放送が始まったカラーテレビだが、アメリカではやはり少し早めの1954年に本放送が開始されている。
これが世界初のカラー本放送であると今日言われている。戦前からその技術はあったのだが(放送もある程度していた)、戦時中はそれをお蔵入りにしていたらしい。Fallout4序盤の主人公の自宅のテレビが2077年において未だ白黒なのも、「戦争中であるから」だろうと思われる。
白黒からカラーになったことで、そこに映される人物がより鮮明に、かつ美しく見えただろうことは想像に難くない。企業や広告会社はこぞってその新しい「人目を引く技術」を取り入れたことだろう。
そしてそれをよく見る機会を得た人物といえば。そう、家庭に戻り、主に主婦として長時間郊外の住宅に身を寄せることとなった「理想的な家族像」の中の女性たちだ。
手元にある資料「黄金の五〇年代アメリカ(海野弘著)」によれば、「五〇年代の広告には、この時代のアメリカ女性の理想が描かれている。健康で美しく、しみ、しわのないつるつるの肌をしている。テクニカラー・ガールなどと彼女たちは言われる。」とある。テクニカラーとは、当時のカラー映画・印刷などの彩色技術、またそれを開発した会社のことである。
そして忘れてはいけないのが、女性自身に生まれた余暇とカラー技術によってその売り上げを大きく伸ばしたであろう美容産業である。もし現代において美容商品の広告が白黒だったら、もしみんなが美容にかける暇も時間もなかったら、果たして購買意欲は湧くだろうか? それほど湧くことはないだろう。
1950年代アメリカというものは、何にしても「輝かしい」時代だった。女性もまた美しく、輝かしくなければならないといった暗黙の了解が、そこにはあったようにも思う。女性の持つ美への欲求が、ある種の同調圧力とともに高まっていった時代でもあった。
アメリカ女性の理想がそういった広告の中にある、と言われると筆者がすぐに思いつくのは「シャネルの5番」でお馴染みマリリン・モンローだ。「何を着て寝ますか?」「シャネルの5番を数滴」——とある香水をめぐる伝説のあの発言は、今でも確かに輝いているように思える。ちなみに当時マリリン・モンローを広告に起用していたシャネルは、2013年に再び彼女を起用している。
もし誰か一人、1950年代アメリカの理想の女性……「イデアル・ウーマン」を挙げよと言われたら、筆者はマリリン・モンローと答えるだろう。どことなく、フォールアウトの広告に登場するピンナップガールたちや「ヌカ・ガール」「リタズ・カフェ・ガール」に似てはいないだろうか?
ふんわりとした金髪、健康で美しい所作や出で立ち、そしてスターという経歴の輝かしさ。彼女自身は決して先述の「理想的な家庭の中の女性」ではなかったかもしれないが、彼女は彼女が持ち得る「理想の女性らしさ」を見事に体現した人物でもあった。
そんなマリリン・モンローの活躍は世に言う「セックス・シンボル」として大衆の心に刻まれることとなる。(主に異性の目から見た)性的な魅力に溢れ、その美しさで人々を魅了し、時代の理想を象徴する——「セックス・シンボル」と言うと現在ではどこか悪い意味を持つ(それは「性的魅力だけでのし上がった」「知性も技量もなく、性的魅力しかない」といった皮肉的な意味合いで使われることも多い)ような印象もあるが、1950年代に生まれたこの言葉は理想的で、かつ魅力的な人物を表す肯定的なアイコンでもあった。
セックス・シンボルはイデアルなのか
ここまで、1950年代アメリカの様子を交えながら当時の理想と女性について伝えてきた。しかし、気になる点がある。それは当時の女性が憧れたであろう「理想的な女性やそれが持つ女性らしさ」というものは、果たして「セクシャルな魅力」と直接結びついているのだろうか? というものである。
これは現代でも度々、女性とそのジェンダー・セクシュアリティにまつわる様々な議論に上がるもので、一概にどうとは言えない。「理想の男性像」についても、これは同様だ。
女性から見た「理想の女性」と男性から見た「理想の女性」は、違う「理想の女性」のようにも思える。また、何についての理想なのかによってもその姿はいくらでも変わってくるだろう。しかしそれは個人が持つ「理想」の話だ。では、大衆が持つ「理想」とは何なのか。そしてそんな「理想」に感じる「魅力」とは。
それを知るにはやはり、当時の社会背景がヒントになると思う。先にも述べた通り、五〇年代アメリカでは女性は(若いうちに、男性と)結婚し、子供をもうけ、主婦となって郊外に住むことが「理想」とされていた(そういう意味では、Fallout4で既婚者であり赤ん坊の息子が居ながらも弁護士として働こうとしていたノーラは、「理想的」ではあるが少し珍しい存在とも言える。もちろん、そこにはコズワースの手助けもあったであろうが)。
妻となる女性には夫がおり、また子供のいる女性は母となる。その意味するものとは。そうなると、半ば必然的に表面へと浮き出てくるのが性愛的な魅力とそれに付随する行動である。筆者はどちらかと言えばそういった価値観に疑問を呈す側の人間だが、多くの人はそれを「価値あるもの」「理想」として見ている可能性がある。
価値のない「理想」に人が飛びつくことは稀だ。何故なら、人間は得をしたい生き物だからだ。ここにはない、自分にとって得になる価値を持ったモノゴトを見出すことで、理想は出現するように思える。そしてそれを得たいと求める。理想が実現したならば人間的な成長、その手応えを感じることもできるだろう。
セックス・シンボルはイデアルのひとつであると筆者は考える。確かに当時は、そうだったのだから。そしてそれは同時に、価値観を抜きにすれば「ただの結果」であるとも言える。
さて、あなたはどんな価値を理想とし、どんな理想に価値を見出すのだろうか。一度、胸に問いかけてみると面白い考察が得られるかもしれない。
では最後に、筆者が「1950年代の理想の女性」として挙げたマリリン・モンローの言葉を紹介し今回は幕を閉じるとしよう。
「誰もがスターなのよ。みんなが輝く権利を持っている」
「他の誰かになりたいと思うことは、あるべきあなた自身の無駄遣いをしているということだわ」
「私が望むことは、私自身と私の才能を愛されること、それがすべて」
2019.03.15 初版
2023.09.16 掲載