純水館茅ヶ崎製糸所について

純水館の本拠地があったのは長野県小諸町(現小諸市)です。小諸で延宝2年(1674年)から続く豪商小山家の当主小山久左衛門が、明治23年(1890年)に長野県大里村諸で製糸工場の純水館を創業し、最盛期には同県内に10程の工場を有していました。純水館茅ヶ崎製糸所は、小山久左衛門の長女喜代野と結婚した房全(旧姓工藤)が館主に就き、大正6年(1917年)に生糸の生産を始めます。発明から間もない御法川多条繰糸機で作られた生糸は、大正末にはニューヨークで「Special Double Grand Extra(スペシャル・ダブル・グランド・エキストラ)」と高品質の格付けがなされ、他の日本の製糸工場に先駆けてアメリカへ輸出されました。その生糸は、第1次世界大戦の戦勝国アメリカで、女性の社会進出とともに流行し始めた女性用絹靴下の原料になりました。フルファッションと呼ばれる、足にぴったりフィットする絹靴下の原料として求められたのは、細く、強く、均質で美しい光沢のある最高品質の生糸です。また、国内では、大正12年(1923年)の皇太子(後の昭和天皇)のご成婚に際して、全国から集められた繭が純水館茅ヶ崎製糸所で繰糸され、皇室へ献上されました。この繰糸は、純水館が全国で唯一選ばれた製糸工場として有名になります。工場経営に関しても、房全は「糸もつくるが、人間もつくる」と言われ、従業員の教育にも心を配り、模範工場としての名も馳せました。

 しかし、大正12年(1923年)の関東大震災では工場が全壊し、房全の妻の喜代野が震災死してしまいます。その後、横浜の生糸貿易商渋澤商店や小山一族会の支援で工場を再建しますが、生糸相場の下落や不況、人造絹糸(人絹、レーヨン)の消費拡大により経営は厳しさを増して行きます。「製糸業は生死業」とも言われた時代に、純水館は絶頂期と衰退期を経験しました。房全は、純水館の経営に加え、製糸業界が苦難の時代に、神奈川県製糸同業組合長を務め県下蚕糸業界の発展にも尽力しますが、持病に心労が重なり昭和10年(1935年)に53歳で病死します。そして、純水館は昭和12年(1937年)に廃業し、20年程の歴史に幕を閉じました。