回「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座の記録

           2023年16日(日)  会場 南湖公民館

           牛渡公海氏に聞く    

 茅ヶ崎市南湖にあった、小山敬三画伯邸の庭の管理等を行っていた父母と共に、同じ敷地内にあった家で暮らしていた牛渡さんにインタビューしました。そこから、小山敬三画伯の茅ヶ崎での生活の様子を浮き彫りにすることが出来ました。

 牛渡さんが当時の小山画伯の自宅兼アトリエが見える航空写真等を準備してくれました。その写真を見ながら、場所や当時の様子を話していただきました。

 牛渡さんのご自宅から持って来ていただいた小山敬三画伯に関わる品物を見ながら説明をしていただきました。その中で敬三画伯からお母様に贈られた色紙について、参加者が「解読」に挑戦しました。若山牧水の歌を敬三画伯が書いたものでした。

                   第8回「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座

令和5年4月16日 南湖公民館 

『牛渡公海氏に聞く』

 

司会:今日は、牛渡さんに無理やり来ていただいている状態です。皆さんにも質問してもらいながら良いかたちでこの会を進めることが出来たらと思っています。よろしくお願いします。

前半は、牛渡さんに持って来ていただいた貴重な資料を見ながら説明していただき、その後、こちらの画面を見ながら、インタビューをしていきたいと思います。

〈展示資料の説明〉

牛渡:小山先生が母に書いてくれた書です。絵だけでなく皆様に書を見ていただく機会としていいかと思って持ってきました。次が牧場の絵なんですが、私たちがお手伝いをさせていただいている間に、「牛の絵が描いてある。牛渡さんなので差し上げます」と言って、いただいたものです。

司会:すみません、もったいないのでこちら(お母さんがいただいた書)から行きますね。読むのが難しいのですが、先程読んだ方、読みを教えていただけますか。

会員:半分しか読めなかったけれど、最初と牧水のところが読めて、どなたかが検索していただいたのですけど。最初が「あかつきの・・・」とあります。小山先生は漢字で当てたのか、手元にそのような資料があったのかわかりませんが。万葉仮名のような形式で書いていますね。若山牧水の歌を書いてお母さんに送っているんですね。この牧水の歌が好きだったのでしょうかね。

会員:検索してみるとこう書いてあります。「あかつきの ねざめしずけき こころもて すすりあじはふ 茶にしかめやも」

司会:読めたということで、これだけで面白いですね。次がこの絵です。1923年と書いてあったでしょうか。2回目にフランスに行った時に描いた絵ですね。以前茅ヶ崎市美術館の月本さんが見て、「タッチが小山さんの物ですね」と言っていました。

牛渡:次はこれもいただいた絵、柿の絵です。一水会の絵です。今回の話のために、物置を探していたら出てきました。

司会:柿の絵というのも珍しいですね。

牛渡:次は画伯のお葬式の時の写真です。南湖のご自宅から出棺されるときの写真です。そして、次が私と妹にいただいたお年玉の封筒です。金額が6万円と書いてあります。3万円ずつと言うことですね。昭和52年12月19日にいただいたものです。次が小山さんから廃棄してほしいと言われたものを父が保管していたものです。デッサンを持ってきました。富士山・浅間山・お花です。そして敬三さんの写真です。

司会:この写真のお顔はにっこりしている、なかなかないお顔ですね。動物は、小山さんは他にも描いているのかと、小山画伯のお孫さんにあたる中嶋慶八郎さんに聞くと、あまり描いていませんとのことです。貴重な物ですね。柿も珍しい。柿は南湖にありましたか。

牛渡:柿はなかったですね。

会員:富士山のデッサンを見ていてパシフィックが見える江の島の絵があるけど。

会員:パシフィックの上から見た絵かもしれないね。

会員:この絵、確かに高い所から眺めている。間違いないね。

司会:それでは席に戻っていただいて、スライドを見ながらお聞きします。

〈牛渡氏へのインタビュー〉

司会:お生まれはいつですか。

牛渡:1957年、昭和32年。今月で66歳になります。

司会:牛渡さんが作ってくれたパワーポイントも使いながら説明していただきます。

牛渡:西浜小学校の東に小山邸があります。1968年の航空写真ですが、この白い部分が小山邸でその北側に私たちが借りていた家が、敷地内にありました。南側は松林、門を入ると8から10段の階段を上がって玄関になります。南には小高い山があり、東屋(四阿)がありました。小高い山の手前にはくぼ地があり、その北に家がありました。東にバラ園がありました。

司会:この写真を見ると相当高い山に見えます。

牛渡:いや、写し方だと思います。

司会:掃き目の話がありました。

牛渡:毎朝母と細かい熊手で松葉を取り、そのあと荒い熊手で跡をつけていました。それを私も毎朝手伝わされていました。(作業をやらなくてよい)雨が降るのが楽しみでした。

司会:アサヒグラフに『熊手の掃き目』という文があるので少し紹介します。

入江相政侍従長の『熊手の掃き目』(アサヒグラフ別冊 美術特集小山敬三 所収)の紹介

この作業はどういったいきさつで始まったのでしょうか。

牛渡:母に庭掃除を手伝えと言われて始まりました。毎朝5時に起こされて、毎朝やりました。私の担当が終わるのが6時半頃でした。ある時には、新聞配達の人に、「新聞配達やらないか」と言われたりしました。

司会:掃き目はどの範囲をやったのですか。

牛渡:門から玄関。庭に続く脇と家の北側までです。くぼ地の方は休みの日にやりました。そうすると一日がかりになります。

司会:掃き目はどうやってつけるのですか。

牛渡:門の方から内へひと熊手ずつ引き寄せてきました。やり方はお母さんの指導でした。

司会:お父様の管理はいつからですか。

牛渡:1968年昭和43年です。そこから父が亡くなる2019年まで半世紀やっていました。父の会社が北茅ヶ崎にあり、社宅が東京にあって通っていたのですが、社宅が無くなることになって茅ヶ崎へ来ました。どうして(小山敬三邸と)つながったかはわからないです。父は庭いじりや土いじりが好きで、何でも自分でやっている人でした。庭の管理を専門でやるのではなく、サラリーマンをしながら管理のお手伝いをしていました。父の管理の仕事は、庭の管理、自宅の中で修繕、外装の掃除というところでした。

司会:お母さんの仕事はどうでしたか。

牛渡:母は毎日お世話をしていました。住み込みのお手伝いさん以外の仕事をやっていたようです。食事の世話も庭掃除も、たまには奥様のお手伝い、画伯の絵のお手伝いもしていました。キャンバスを張ったり、出かける時に一緒について行ったりしていました。

司会:新高輪プリンスの巨大壁画『紅浅間』を制作する年に奥さんのマリールイーズが亡くなり傷心の小山画伯だったようですが、要請を受けて取り組んだそうです。その時もご一緒していたと聞きました。

牛渡:『紅浅間』を描く時、品川までいつも同伴していました。電車の時もあったが、ほとんど車で行っていたようです。(後に)私が車の免許を取って東京へ(母と一緒に)行くと、私より母の方が道を詳しく知っていました。母は画材などを買いに行くときにも一緒に行っていました。

司会:キャンバスを張るのは難しい技術だそうですが、それを任せていたと言いますが、相当の技術だったんでしょうと、茅ヶ崎市美術館の月本さんもおっしゃっていました。身近なお世話も絵の制作のお世話もしていたようですね。小山画伯や妻のルイーズさんについて聞いていることは何かありますか。

牛渡:小山先生が毎朝腕立て伏せを50回やっていたのは母から聞きました。あなたもやりなさいと言われました。

司会:高齢になってもやっていたんでしょうか。

牛渡:そうですね。ですから、胸板も厚かったし、がっちりした体格でした。洋装は少なく、ほとんど和装でビシッと決まっていました。

司会:もともと小諸の出身ですが、小諸のこども相撲の時は横綱でしたからね。

マリールイーズさんについてはどうですか。

牛渡:小山先生によく怒られていました。お出かけになる時には、女性の着ける小さな帽子を着けて出かけていました。

司会:夫婦の会話は何語で話していたんでしょうか。

牛渡:フランス語だったり、ちゃんぽんだったと聞いています。

司会:小山画伯とは、(牛渡さんは)あまり会話はしていなかったと言うことでしたね。

牛渡:小5の時に引越してきて、家を貸してくれているという程度の認識でした。

司会:お持ちいただいたお年玉袋についてですが。

牛渡:お年玉袋は今回このような機会があって、家の中を探していた時に出てきたものであって、私の手元にお金は入っていないんです。

司会:そうだったんですね。当時では大金ですよね。

牛渡:私は直接受け取っていないです。父のアルバムを見直していたら出てきたものです。12月19日と書いてありますが、あれは父の字です。私が結婚した時には、小山先生から、花瓶を直接いただきました。

司会:すごい先生だと分かったのはカレンダーとおっしゃっていましたね。

牛渡:社会人になってあるとき、銀行で年末に配られる大きなカレンダーの『紅浅間』の絵の下に小山敬三と書いてあって、あそこに住んでいる人だよと言ったところ、一水会の有名な画家だと言うことが初めてわかりました。

司会:色々ありがとうございました。今日を振り返って、お話をするのはどうでしたか。

牛渡:一年前に小山先生について話があると言うことを公民館の掲示板で知って参加したのですが、あの時手を挙げたことをちょっと後悔していますが、こんな形で話をさせていただくとは思ってもいませんでした。そんなつもりで小山先生を見ていたこともなく、記憶をたどり、父母を思い出して話させていただきましたが、皆様のお役に立っているならうれしいです。