「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座の記録

第1回「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座    『掛川國雄に聞く』

                       2022年4月17日(日)15時30分から 会場 南湖公民館

                        講師  茅ヶ崎純水館研究会 掛川國雄氏(小山房全のご令孫)

                        聞き手 茅ヶ崎純水館研究会 名取龍彦

純水館茅ヶ崎製糸所館主であった小山房全の孫にあたる、掛川國雄さん(茅ヶ崎市在住 87歳)をお呼びしてインタビューをしました。掛川國雄さんが生まれて、8か月後に房全が病死します。その死を看取ったのは、國雄さんの父の掛川雄吉医師でした。

房全の妻の喜代野は、関東大震災の時に自宅で震災死します。その後、再建した自宅の中庭に、房全が喜代野の胸像を作ります。胸像の下には島崎藤村が書いた追悼文のプレートがありました。喜代野は島崎藤村の教え子です。掛川國雄さん所蔵の島崎藤村の追悼文(拓本)を展示しました。

南湖公民館で、掛川國雄さんから、純水館の思い出や、母から聞いていたことなどを話していただきました。ご高齢にもかかわらず、鮮明な記憶に基づいて1時間半ほどお話がありました。

内容の一部をこの下に掲載しています。

最後に参加者みんなで記念撮影をしました。ご参加いただきました皆様ありがとうございました。

是非「茅ヶ崎純水館研究会」にご入会ください。2か月に一度、学習会や講演会を行なっています。

詳しくは「講演会のお知らせ」をご覧ください。


①名取会員からの解説 

         掛川國雄さんと小山房全との関係、純水館茅ヶ崎製糸所を解説

          『房全追憶録』から写真と掛川國雄さんの母泰子さんの文章を紹介

②掛川さんへのインタビュー

③会員からの質問

 

インタビュー内容

①生年月日

②生まれた場所

③茅ヶ崎で過ごした時期

④純水館の工場が閉鎖された後の工場敷地の思い出

⑤館長宅の中庭にあった祖母喜代野さんの胸像について

⑥小山家と島崎藤村との関係

⑦館長宅のその後、他人の手に館長宅が渡ったこと

⑧純水館について母親の泰子さんから聞いていること

⑨泰子お母様のキリスト教信仰

⑩なぜ、泰子お母様は茅ケ崎に住みたくなかったのか?純水館跡地へ行きたくなかったのか?

⑪小山敬三画伯について聞いていること

⑫ご自身の純水館に対する思い

⑬純水館について、茅ヶ崎市民へ、ご自身の親族へ伝えたいこと


お聞きした主な内容

司会者(名取会員) 生年月日と生まれた場所を確認させてください。

掛川國雄さん

生まれたのは、昭和10年1月21日。純水館館長宅、現在のまさに郵便局敷地内です。


司会者 國雄さんが茅ヶ崎で過ごした時期について教えてください

掛川國雄さん

父は、医者で、開業するということで、私が34歳(昭和14年)になる、小諸に移り、小児科を開業しました。その後、昭和18年まで、夏休みを利用して、茅ヶ崎の家に、そして海に遊びに来ていました。海あり、江の島り、富士山が見える景色にとても気に入っていました。


司会者 工場閉鎖の後の工場跡地はどんな様子でしたか。

掛川國雄さん

昭和18年の夏まで茅ヶ崎に来ていたのですが、工場は取り壊されて、がれきの山のような状態でした。国民学校1年生7歳の時に、工場の様子を見ようとすると、地下にボイラー室があったようなところががれきになっていました。そのがれきの山は、子どもにとっては格好の遊び場となっていました。今のヤマダ電機があるあたりは、草ぼうぼうになっていました。人が勝手に入れないように網で仕切られていたようでしたが、その中に入って、かくれんぼをしたりして、近所の子どもや工場の社宅に以前住んでいた人の子どもと遊びました。

館長宅は大きかったので、昭和18年ごろは経済的にも困っていたこともあり、下宿屋をやっていました。


司会者 館長宅の中庭にあった喜代野さんの胸像について教えてください。

掛川國雄さん

私は喜代野さんを知らない。喜代野さんの胸像がなぜそこにあるのか知りませんでした。館長宅の中庭にはありました。その後、戦争が厳しくなり、金物は家の中まで見られて、胸像も供出されたようです。



      中間省略(後日記録し保存します)



司会者 茅ヶ崎市民やご親族に伝えたいことをお願いします。

掛川國雄さん

人がいて、人がいい仕事をして、他がやっていないやり方で新しいものを作る。仕事にも、人にも誠心誠意。『修誠』です。これを純水館を通じて伝えたいと思います。