第6回「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座の記録

           2022年1218日(日)  会場 南湖公民館

           『南湖の小山敬三』       講師:尾髙忠昭(茅ヶ崎純水館研究会 会

           第4回講演会のまとめ報告   報告:長田清司(茅ヶ崎純水館研究会副会長)

『南湖の小山敬三』

 同じ南湖に住んでいる、尾髙さんが見たり、聞いたり、調べたりした小山敬三について話していただきました。

 小山敬三のアトリエは現西浜小学校の東側にありました。尾高家では小山別荘と呼んでいて、海岸砂丘の山があり、その北側に敷地3000坪の別荘がありました。小山別荘の先はもう海でした。明治41年から44年ころにかけて、敬三の母梅路や兄の邦太郎、姉の喜代野が南湖院に入院・通院していたこともあり、小諸から避寒のためにこの地に別荘を建てたようです。3000坪あった敷地はその後、半分を売り、1500坪になりました。

 敬三が絵描きになりたいと、父の小山久左衛門に話した時、三日三晩の話し合いが続いたと言います。最後に「私(敬三)の面倒を一生みてください、その代わり『誠』を持って絵を描きます」と言った敬三の言葉に父久左衛門は絵描きになることを認めます。その話し合いが行われたのが、この小山別荘なのです。

 大正12年に起きた関東大震災で小山別荘をはじめ、南湖地域の家々はつぶれてしまいました。その後この土地に小山家の支援でアトリエを建てました。アトリエには、南側と北側に窓があります。フランスでのアトリエをイメージし、設計士の熊瀬久一郎と念入りに相談して建てたようです。北の光で絵を描くということで、午前中は絵を描き、規則正しい生活をしていたようです。

 その後、敬三はアトリエと土地を担保にして銀行からお金を借り、別荘敷地内に母のための家を建てています。昭和19年に母の梅路はここで亡くなっています。昭和56年には妻のマリールイーズが亡くなります。昭和62年には敬三も亡くなり、このアトリエで密葬が行われました。その写真も残っています。

 敬三はスケッチをいろいろな場所でするのですが、仕上げはアトリエの中でする人でした。近代美術館に所蔵されている入江侍従長の肖像画についても、このアトリエに入江侍従長自身が何回となく訪れて描いたようです。その絵を完成させるために、アトリエの管理を手伝っていた牛渡さんに、入江侍従長と同じポーズをとらせて描くいうこともあったようで、その写真が残っています。