第10回「純水館・房全・敬三・藤村」学び講座の記録
『気韻生動の画家 小山敬三』講演会
その生涯と芸術観
主催:ちがさき丸ごとふるさと発見博物館(茅ヶ崎市教育委員会)・茅ヶ崎純水館研究会
場所:茅ヶ崎公園体験学習センター うみかぜテラス
2023年7月23日(日) 講演1 講師:名取龍彦(茅ヶ崎純水館研究会員)
講演2 講師:中嶋慶八郎氏(小諸市立小山敬三美術館 学芸員)
小山敬三画伯のお孫さんであり、学芸員である中嶋慶八郎氏から直接、小山敬三の人となりを聴くことができた講演会でした。講演会要旨と沢山の画像を準備して講演をしていただきました。
小山敬三画伯がどのように絵画に取り組み、その画境に至ったかを詳しくご説明頂きました。
会場には、100名を超える市民の皆さんにご参加いただきました。純水館茅ヶ崎製糸所と小山敬三画伯のつながりについては純水館研究会の名取会員からの説明がありました。
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館(茅ヶ崎市教育委員会・社会教育課)との共催により、充実した時間を過ごすことができました。
7月28日タウンニュース茅ヶ崎版に掲載された講演会記事
令和5年度 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 講演会 (茅ヶ崎純水館研究会まとめ)
気韻生動の画家 小山敬三
その生涯と芸術観
期日 令和5年7月23日
会場 茅ヶ崎公園体験学習センター
演者 小諸市立小山敬三美術館 学芸員 中嶋慶八郎
ただいまご紹介いただきましたように私の経歴は美術の関係ではないということでございます。
その私が、今日は小山敬三の芸術観についてお話させていただくのですが、私が小山敬三や他の芸術家の作品を解説するのではなく、小山敬三が自分の目指す芸術をどのように考えていたのかを、自筆資料や文献から考察したいと思います。
本日の内容は、
• 小山敬三が影響を受けた指導者や芸術家たちはどのような人たちか
• 若き日の小山が何を学び、どのような形でそれを自らの中に取り込み、独自のものとして構築したか
• 画家として独立した小山が理想とした画境とは何か
• 最後に親族として、身近にいたものとして、小山敬三の人となり
についてお話します。
1. 少年期〜渡欧まで
小山敬三がどのように育まれたか
小山敬三は明治30年(1897)長野県小諸町の延宝年間(1673-1681)から続く醸造業を営む旧家の三男として生まれます。敬三の父、小山久左衛門正友は1862年(文久2年)の生まれで、21歳で京都に留学し、漢学や国学を学びます。そこで知り合った文人画家富岡鉄斎とはその後長く交わることになります。父は芸術への造詣の深い人であったが、中でも鉄斎への傾倒は大変なもので、小山家には鉄斎の書画が多くありました。鉄斎については後でまたお話します。
父小山久左衛門正友は、当時近郊の大里村諸などで製糸工場「純水館」を経営していました。
父は江戸時代の生まれだが西洋文明への理解が深く、旧い城下町/宿場町であった小諸に新しい産業である製糸業を興しました(注1)。また、教育の重要性にも気づき、島崎藤村が教鞭をとった私立中学「小諸義塾」を支援したのも正友でした。敬三が西洋画に関心を持つのも、父の世の中の変化に対する進取の考え方と無縁ではありません。父久左衛門の新しい文化に対してやってみるが良かろうという姿勢が敬三にとって重要であったでしょう。
小山久左衛門正友の座右の銘『修誠』(誠を修める)は、小山敬三によると幕末の思想家佐藤一斎(1772-1859)の座右の銘です。「心を込めて物事に取り組む」の意だが、「人間は未来の事は知り得ないので、今を誠実に生きる事しかできない」という意味を含むとのことです。敬三は父のこの座右の銘を受け継ぎ、終生これを守りました。
敬三がスケッチ旅行から、父の病気の為に一時実家に戻った時に、親戚は皆スケッチ旅行に出るのはやめておけと言ったが、父久左衛門は「お前は自分の仕事をしっかりやれ」と言われてスケッチ旅行へ行きました。小山敬三のスケッチ旅行中に父久左衛門は死んでしまいました。
富岡鉄斎ですが、京都出身の儒者、陽明学者、画家、書家。日本と中国の芸術に精通し、各地を旅行した。豪放な作風で知られる文人画家の理想である「万巻の書を読み、万里の道を旅する」を信条とし、「気韻生動」を目指しました。
気韻生動とは、気品にあふれ、描かれたものが生き生きとしていることです。
小山久左衛門正友とは親交がつづき、敬三は子供の頃から鉄斎をはじめ、家伝の名品に囲まれて育ちました。
次に島崎藤村です。藤村は書く日本語の基礎を作った人です。
木曽馬籠出身の詩人、小説家 千曲川スケッチや破壊などの作品があります。
1899(明治32年)私立の中学校「小諸義塾」に英語教師として赴任し、小諸で6年を過ごしました、
小山久左衛門は小諸義塾を経済的に支援しました。藤村とは長く親交が続くと共に、小山敬三の姉は義塾の女子部で藤村の教えを受けました。
藤村は1913から1916年にパリに行き、文学、絵画、音楽などの芸術を探究しました。藤村は絵描きになりたかったこともありました。
少年期の絵について
小山敬三は1910年(明治43年)上田中学(現在の上田高校)に入学する。上田中学の美術の先生は常井久太郎という人で、敬三は当時普及していた水彩画を習っていました。当時、国内では水彩画が一般の愛好家に広く普及していました。常井先生は日本の西洋画の草分けの小山正太郎の弟子で、題材としては、自然の風景を写実的に描くことが主流でした。油絵は一般の市民にはまだ広まっていませんでした。小山敬三の水彩画の作品《杉の夏》 1931水彩画 は小諸の純水館があった付近から浅間山麓を眺めたものと思われます。
初めて描いた油絵《盛夏樹林》1914年は今も鮮やかな色彩で小山敬三美術館に飾られています。
この絵は、兄の邦太郎が東京の土産に買って来てくれた油絵セットで描きました。溶き油の使い方が分からず、チューブから出した絵具を直接カンバスに塗って描いたと言われます。そのおかげもあって今も色鮮やかなままです。小山家を訪ねた小杉放庵が「小諸にゴッホがいる」といってよろこんだ、と言われています。
ゴッホについてですが、
ゴーギャンらと共にポスト印象派を代表する画家です。
1910年に森鴎外が「スバル」誌上でゴッホを紹介しています。1912年「白樺」がゴッホを特集します。
「白樺」はセザンヌやロダンなども紹介していました。
小山敬三は「白樺」を購読していて海外の芸術に強い関心を持っていたようです。
このゴッホの《糸杉》を小山少年が見たかどうか分かりませんが、先ほどの《杉の夏》と構図がよく似ています。
村山槐多という人がいます
岡崎の出身、京都育ち山本鼎の従弟です。
1914年ごろに従弟の山本鼎の上田の父宅にたびたび来ていた村山と小山は親交がありました。二人は印象派などについて議論したと思われます。
村山は早熟な少年で、フランス文学にも関心が深かったので、小山は村山から思想上の刺激を受けたと思われます。
画家になろうと上京した村山は、日本美術院で小山と共に絵を学んだこともありました。
私の解釈ですが、村山はその後、破滅的な人生を送り、小山が渡欧する前の年、23歳で当時流行していたスペイン風邪で亡くなります。違った生き方をした二人ですが、日本の洋画の先駆者たらんとして心が通じていたと思われます。
画家を志す小山敬三
小山敬三は家業を継ぐために、慶應義塾大学予科の理財科に入学するが、画家への志を捨てきれず大正5年に中退し、父を説得して川端画学校で藤島武二にデッサンを習いました。
藤島武二は東京美術学校西洋画科の助教授だったが、大正3年(1914)から川端画学校の洋画部の主任教授を兼務していました。
おそらく藤島は小山に東京美術学校に行くことを勧めたと私は思います。
父は小諸義塾以来親交があった同郷の島崎藤村を訪ねてアドバイスを受けるように勧めました。藤村は46歳でパリから帰ったばかりであり、敬三は20歳でした。
画家を志したこともあった藤村は小山の画家志望に賛同し、フランスへ留学することを勧めました。
敬三「先生僕は絵描きになるんです」
藤村「それは結構です」
敬三「美校なんですが妙な型にはまってはと行かないんです」
藤村「それも結構です。今パリに残っている山本鼎君や正宗得三郎君は、美術学校で身にしみた型を破るのに大層苦心している。しかし、あなたはこの大戦が終わったら、直ちにフランスに行って美術の雰囲気の濃いパリで、広く深く古今の芸術を研鑽してくるがいいと思う。」
小山は藤村を訪ねた時、父から東京美術学校に行くように勧められていました。小山は川端画学校に通っていて、文展など多くの美術展も見ていたが、当時の主流派への反発が「美校にはいかない」発言になったのだろうと思われます。反骨精神を持ちながらも基礎をしっかり学ぶことの重要性を認識したところが小山の並外れたところだと思います。
藤村のアドバイスを聞くまで、敬三も久左衛門も外国に行くまでもないと思っていましたが、藤村の一言で、フランスへ行く話が進むことになりました。のちの小山敬三の生涯を決めた重要な言葉となりました。
渡仏までの間に小山が考えた結論は、「日本のフランス印象派一辺倒の考え方はおかしい。日本に日本画の伝統があるように、西洋にも学ぶべき伝統的な絵画の技術があるはずだ」というもので、それを現地で体得する必要がある、と考えました。そう考えたのも小山敬三が普通の人とは違うところです。
2. 欧州で絵画の修業
藤村の激励を受け、小山敬三は1920年、23歳で単身フランスに渡ります。余談ながらこのころは世界で5000万人以上が死んだいわゆるスペイン風邪がまだ完全には収まっておらず、1918年まで続いた第一次世界大戦はフランスにも深い爪痕を残しています。このような情勢でも人々は積極性を失いませんでした。芸術家たちも待ち侘びた活躍の機会を生かそうと勇んで海外に出ていきました。日本人だけで400人くらいはフランスへ行っていました。
1920年(大正9年)にフランスに渡った敬三は、西洋絵画はデッサンが基本と考えて、当時シャルル・ゲランが主宰していた画学校アカデミー=コラロッシュに通います。美術館、展覧会を精力的に見てまわり、美術史、語学を勉強しました。
「私は絵画の基礎についてアドバイスはできるが、才能を伸ばすことはできない」とゲランは言っていました。当時、多くの日本人は印象派を学んで来ようとしていたが、学ぶべきは表面的な事ではなく基礎だ。ゲランと小山の考えは同じだったのです。敬三は1921(大正10年)年にはブルターニュ旅行で描いた作品でパリ最大の公募展サロン・ドートンヌに初入選します。
敬三は、画学校で伝統技術を学びながら、バルビゾン派、印象派、ポスト印象派、フォーヴィズムなどの新しい活動も研究していました。
実家からお仕送りで生活していた敬三は繰り返し実家に手紙を書いています。その手紙の中に書いてあるフランスでの様子は次の様です。
全く本物を見なければ駄目だ。セザンヌ、ルノワール真にうれしくなる。モネ、ピサロの展覧会が開かれて、自分にいろいろ考えさせてくれます。ピサロの絵はなかなかいい。
フランスに発つ前は印象派はどうか?と言っていたが、実際見てみると、良い物は良いと言っています。
日本人のように、新しい物を使い始めると古い物は棄てて顧みないという風とは少しこの国の人は違います。
画界の方もそうです。ウンと新しい流れもありながら、古い事をやる人達は実にコツコツやって飽きません。
新しく自分の道を一歩一歩開いて行くことに苦労しています。私はそれに人生の意義の全部の値を見出しています。
小山は色々な画家の研究をしていたのです。
ピサロは新しい考えにもオープンであり、正統派も受け継いでいた画家です。
セザンヌも深く研究していました。
サントヴィクトワール山連作は小山の浅間山シリーズと呼応するものです。セザンヌは物体は個々の消失点を持つと云っています。小山も複数の視点から見たと思われる風景画も見られます。色々な作風を徹底的に研究していました。
滞仏初期
当時、大きなパリの公募展にサロン・プランタン(アカデミック)とサロン・ドートンヌ(アカデミーを批判 前衛も認める)がありました。サロン・ドートンヌに入選した《ムードンの並木道》この絵は色彩は地味で立体感を表現しています。奥に見える光に向かって、視線を誘導するような構図の仕掛けが見られます。
滞仏中期
《河畔(ブザンソン)》1923 油彩
この作品について美術評論家の田近憲三は、当時のパリでは色彩を多用して画面を構成する方法が主流であったのに対して、小山は色調をおさえて、代わりにマチエールによって対象を表現している、と言っています。小山の作品は寡黙な色彩と言われるが、絵塗幅で奥行きを表現しています。
スペインへ
小山敬三は留学の終わり近くになって、藤村が強く勧めたスペインにいきます。そこで、グレコとトレドの街の魅力に取り憑かれ、春と秋の2回、都合半年もトレドに滞在して制作を行います。
マネ
《スペインの歌手(ギタレロ)》1860 油彩
マネはこの有名な作品を制作した時点ではスペインに行ったことがありませんでした。藤村が実際に行ったことのなかったスペイン行きを小山に勧めたのも多分にあこがれを含んだものだったと思われます。当時は誰もが、スペインにあこがれていました。
グレコ
ギリシャ出身のエル・グレコはビザンチン芸術の流れを汲み、イタリアでルネッサンスの美術を学び、その後スペインに渡って生涯の半分を古都トレドで過ごしました。
トレドの魅力について、小山は「実生活から超脱したような雰囲気と深い憂愁」にあって、その雰囲気はグレコの絵そのものであったと述べています。
トレドは今でも中世の風景が残っています。
小山はグレコの魅力は高い技巧による生き生きとした表現と、コンポジションにあると述べています。
この《トレド風景》は風景がコンポジション、構図の最も主要な場面を占めていて、当時としては先駆的な試みであり、優れた風景画であると述べています。当時は宗教画の背景に風景遠景を描くものだったのです。
グレコは実際には見えない大聖堂の尖塔を描き入れています。
写実をくみ取って、新たに組み上げる小山のスタイルは、グレコから学んだと書いています。
滞仏後期
グレコとトレドに出会うことで、それまで、小山がヨーロッパで学んできたことが、大きくまとまっていきました。グレコが愛したトレドの街にも魅せられ、それまでの修業の成果をつぎ込んで描かれたのが、《アルカンタラの橋》を代表とするトレド連作です。
《コヴァンチョエラス》1926 油彩
当時はフォービズムに代表される色彩による奥行きの表現がさかんであったが、「寡黙な色彩」と評される小山の絵は、写真では分かりにくいが、質感で立体感を表現しています。流れるような遠景と幾何学的な近景の対比も奥行きを表現しています。
《アルカンタラの橋》1926油彩
力強い動勢をベースに、面を明確にして構成し、抑えた色彩の中で絵肌を正確にコントロールして圧倒的な質感を実現しています。古典と近代の様式が、その存在を表出することなく溶け合っていながら、それらから一歩抜け出しています。面を組み立てていますが、コヴァチョエラスに見られる硬さはなく、橋の材料感が伝わってくるかの様です。ロダンは面とは物体が空間において占める存在である、と言っていますが、この絵はまさにそういうことではないでしょうか。ヨーロッパのさまざまな技法をさまざまな主題で試し、その中から自分のスタイルをつかんだランドマーク的な作品でパリの美術界をもうならせた会心の作です。小山敬三初期の代表作です。
フランス人が見た小山
『小山はヨーロッパに教えを求めはしたが、いかなる規矩にもはまらず、またいかなるはかないエキゾティズムの成功からも逃れ得ている。過去の重荷と現代の誘惑の間にあって分裂することなく、力強く全体的な統一を保ち得ている』 1927年パリで開かれた個展を評して、美術評論家 エミール・コンドルワイエ
小山は当時の著名な美術評論家によるこの批評が「我が意を得たり」というものだったと述べています。
「規矩にはまらない」とは、ある作家のスタイルにとらわれない、ということです。
「はかないエキゾチズム」とは、当時日本の作家がパリで成功する一番てっとりばやい方法は日本風の絵を描くことだったことを指しています。
「過去の重荷」とは、ギリシャ・ローマからルネッサンスにいたる歴史であり、「現代の誘惑」とはもちろん印象派やキュビズムといった取り組みを指すものでしょう。
欧州修行を終えて
小山はこの留学でヨーロッパで西洋絵画の伝統技法を学び、歴史的な作品を実見することで、文化の中での古典の位置づけを知ることができました。また、それらの伝統の上に創造された、当代の先進的な作家達の活動を実見し、科学的な絵画技術と絵画の主題からの自立という近代絵画への思想を知ることができました。様々な作品を研究し、各地を取材して制作を行った結果、印象派の「感覚からの光の表現」をさらに進めて、永い生命を持った絵画としての美を作者が構築する方法が自らの目指す絵画であるという結論にいたりました。
3. 帰国後の歩み
1928年(昭和3年)に帰国してからは、ヨーロッパで学んだ技法を東洋の精神と融合させ、日本の伝統となる洋画の創出を目指しました。1929年茅ヶ崎にアトリエを構え、日本各地を精力的に旅行して、自らの絵画表現を発揮できるモチーフを探したが、当初は西欧と日本の風景の違いに苦戦します。その孤独な戦いの中で1933年理想の題材である姫路城に出会い、これまでの技術と思想を注ぎ込んだ独自の画風を構築します。戦後は浅間山シリーズなどを加えて領域を発展させるが、独自の作風は終生揺るぎませんでした。
白鷺城シリーズ
《白鷺城大天守閣》1956油彩 第12回日展 小山会心の作品
日本に帰った小山は、画題を求めて各地を訪ねますが、ヨーロッパの豪壮な建築と比べて、日本の神社仏閣、数寄屋、民家などは美しいものの繊細すぎて、自分の油絵のスタイルには合わなかったのです。たまたま訪れた姫路城は力強い美しさを持っていて、夢中になって戦前戦後を通して何枚も作品を描きました。それが評価されて1959年に日本芸術院賞を受賞します。画家としての評価が確立します。
瓦を描くために中国まで行き、タッチを重ねることで質感を出すようにしました。白鷺城の瓦は手前は細かく描いているが、あえて描いていないところもあります。大胆な省略とデフォルメが小山敬三のすごい所です。この手前の屋根も実際にあったのかはわかりません。
浅間山シリーズ
《浅間山黎明》1959 第21回一水会展 油彩
戦後まもなく、小山敬三は故郷の山浅間山を描くために軽井沢に山荘を求めます。以後、亡くなるまで夏の三ヶ月はここで山を見て過ごしました。小山は四季折々の浅間を描いていますが、中でも初冬の浅間が好きでした。山荘は夏向けの建物でしたが、小山はわざわざ11月に軽井沢に行って、閉めた山荘を開け、冬の澄み切った空にそびえる山を描くのを習慣にしていました。軽井沢は高原の東にあって、抜きん出た浅間山に東から上った陽が真っ先にあたり、周りはまだ暗い中で浅間山だけが赤く染まります。この「紅浅間」という現象は、いつも見られるものではなく、また、夜明け直前の1、2分だけのものです。この絵でも、手前の山はまだ暗く、空には月が残っています。その中で画家は巨大な山の力を感じています。小山の作品の特徴は、印象派のように一時の感動をその場で絵に仕上げるのではなく、何枚ものスケッチを元に構図を練りながら下絵を作成し、何ヶ月もかけて作品にする点です。その過程で、山や雲、木々は小山の心の中で自由に色と形を変えていきます。そのやり方に小山は確信をもっていました。実際に見ると、浅間山はこんに大きくはないですし、雲の配置も考えて描かれています。小山は軽井沢でスケッチし、南湖のアトリエで作品を完成させていました。
人物画
小山敬三は人物画の名手でもあります。戦後まもなく、国内旅行が大変だった頃、よく人物画を描いています。小山の肖像画は人物の風景画だと言われます。風景同様、何枚ものスケッチから下絵を作り、絵の鑑賞者と描かれている人物の心が通うように、真正面から描きます。スケッチをみると最終的な作品は写真のようにモデルを再現したものではないことがわかります。手の位置など工夫しています。
4. 小山が目指した芸術〜西洋の技法で東洋の心を描く
小山は理想とする芸術について「智、情、意の調和の上に、作者の新鮮な感激が盛られて、血が通い、魂がこもって見る人の心を揺り動かす、即ち“気韻生動”(注2)の画境こそ、長い生命を持つ芸術である」と述べています。
ま気韻生動とは
智、情、意の調和の上に、作者の新鮮な感激が盛られて、血が通い、魂がこもって見る人の心を揺り動かす、即ち“気韻生動”の画境こそ、長い生命を持つ芸術であると云っています。
気韻生動は、絵画における六章の法則として、中国南北朝(439-589)の美術評論家謝赫(しゃかく)が表した絵画にとって重要な要素。後の明代の南画家が再解釈し、文人画の規範として普及した。
気韻生動 気品にあふれ、描かれたものが生き生きとしている
骨法用筆 技術に優れ釣り合いがとれている
応物象形 主役と脇役の対応がとれている
隋類賦彩 物の本質に相応しい色彩を用いる
経営位置 構図がしっかりして全体と部分の統一がとれている
伝模依写 優れた古典から学ぶ
この一番最初が気韻生動
そして6番目に古典から学ぶがあります。
日本の絵画のあるべき姿について「西欧の芸術と密接な関係をもつ日本においては、西欧の文化を背景として起こったこれら芸術上のレアクションを、そして、そのよって来る原因を注視する必要があると同時に、また我が国そのものに立脚して、その動きを深く観察しなければなるまい」と述べています。
子供の頃、毎日作品を見ていた鉄斎が目指したのも東洋の絵画の理想の姿「気韻生動」でありました。小山は、強烈な個性を表現する西洋の画家たちの中にあって、また、激動の世をくぐって来ながら、自分を見失わず、一筆一筆を誠をもって作品に取り組んで来ました。
デッサンとは
描かれる一点一劃が全画面にいかに互いに響き合い、ムウブマンを起こしたまま均衡を保ち合わせるかであると云っています
小山敬三の人となりです。
身近にいたものと云ってもどうだったかを思い出してみて、ここで皆さんにお話しできるのは、
奇矯なところのない人 普通にきちんとした人でした。
誰にでも礼儀正しい人 小さなっ子供であった私にも一人の大人同様に扱ってくれました。
穏やかなゆったりした人 バタバタ走るようなことはありませんでした。
身だしなみに気を配る人 フライドチキンのカーネルサンダー人形のような服装で出かけていました。
家族を大切にする人 ルイーズ夫人の無理難題にも優しく応じていました。
形式にこだわらない人 客に抹茶を出すとき、ポットのお湯で点てていました。
ユーモアがあり茶目っ気もある人 こんなことがあったと面白おかしく話してくれました。
弟子をとらなかった 基本は学んで、師に似てはいけないという思いもあって。
好んで書いた色紙に杜甫の五言古詩『屛跡三主首』の其の二からの詩があります。
拙を用って吾が道を存す 幽居は物情に近づく (漢文で書かれていた色紙)
意味は、『世渡り下手なまま自分の主義を待っている。それで静かな暮らしの中で外界のありのままに近づくことができている』です。これと共に繰り返し書かれていたのが、『修誠』です。小山の心の持ち方は『平穏な心を保つ。世情菜流されず世評に右顧左眄することなく我が道を誠を持って進む』と云う事でした。本当にこういう人でした。
(文中敬称略)
以上
(注1)小諸における近代製糸業の先駆者は高橋平四郎であった。
(注2)中国南北朝(439-589)の美術評論家謝赫(しゃかく)が表した絵画にとって重要な六つの要素の筆頭。「気韻」品格が「生動」生き生きと感じられること。