あ行
あ
青山通り大山道
よみ:あおやまどおりおおやまみち
矢倉沢道(往還)の一部で江戸から青山を通り、大山へと向かう街道である。海老名では一大縄、厚木の渡しが道筋となっている。
浅間大神
よみ:あさまだいじん
下今泉の鎮守。延暦元年に橘永範が勧請したという。鳩川用水を守る農業神でもあり、蚕の神でもあるという。有鹿神社の兼務社。
厚木の渡し
よみ:あつぎのわたし
矢倉沢往還の相模川を渡す公の渡船場。厚木側は溝呂木氏が、河原口側は河原口村と中新田村が管理していた。有鹿神社と直接関係する史料はないが、厚木の船喜多神社と共に渡しに近い神社であることから何らかの祭祀で関わってた可能性が考えられる。
有鹿遺跡
よみ:あるかいせき
有鹿神社周辺はその地域自体が遺跡の上にあるが、有鹿遺跡とは有鹿小学校敷地内で発掘された遺跡で、中世井戸跡、須恵器、則夫文字の書かれた杯などが発掘された水辺祭祀跡と思われる遺跡である。海老名市発掘調査報告書ではNo.88となっている。
有鹿岡
よみ:あるかおか
有鹿神社創建時の有力者が葬られたという伝説のある古墳。安養院境内にあり、発掘調査の結果は経塚であったという。現在は三眼六足稲荷元宮の祠が建っている。参拝は安養院の許可を得てから。
有鹿河
よみ:あるかがわ
惣国風土記によると、鳩川を有鹿河という。有鹿郷の稲作を鳩川の水利によって行って来たことに由来する。鳩川の水源の一つとなる磯部の勝坂の有鹿泉には有鹿神社の奥宮が鎮座する 。この地において、古来、水引祭という祭祀がなされて来た。
説明文:有鹿神社宮司様
有鹿窟
よみ:あるかくつ
有鹿谷の段丘崖に出来た内径一尺(約30センチ)ほどの横穴で水が湧き出している。水引祭ではこの有鹿窟にご神体が収められ神事が行われた。大正時代、関東大震災で穴は埋まってしまったが、清らかな湧水は健在である。
有鹿郷
よみ:あるかごう
和名類聚抄に見える郷制の郷。その名前から位置を有鹿神社周辺(現在の海老名市、綾瀬市)に比定されている。少なくとも平安時代中期までは呼ばれていたとされる。
有鹿神社奥宮
よみ:あるかじんじゃおくみや
奥宮は相模原市南区磯部勝坂、有鹿谷に鎮座し、有鹿泉の女神である有鹿比女命を祀る。鹿の彫刻のある石祠は明治19年(1886)年に建立されたという。
有鹿神社下社
よみ:あるかじんじゃしもしゃ
【お有鹿様と水引祭】によると、伝承では現在の社家の辺りに一の鳥居があり下社も建っていた、という。
有鹿神社中宮
よみ:あるかじんじゃなかのみや
中宮は海老名市上郷1丁目12に鎮座し、有鹿比古命、有鹿比女命の二柱を祀る。かつては座間にあったものが有鹿池のあるこの地に遷座してきたという。有鹿明神縁起によると天正三年、慶雄が有鹿池で霊石を得るとあるので、それ以前に遷座した可能性がある。
有鹿神社本宮
よみ:あるかじんじゃほんみや
神奈川県海老名市上郷1-4-41に鎮座する本宮は、有鹿明神縁起によると天平勝宝六年(754)に郡司の藤原廣政は社殿を修理したとあり、当時から常宮としてこの地にあったとされる。
有鹿台
よみ:あるかだい
勝坂遺跡のある台地の異名。過去の水引祭ではこの台地に有鹿神社の神輿の御旅所が設えられ、御神体を有鹿窟に奉安して神事を行って、一夜を明かしてから海老名に戻ったという。
有鹿谷
よみ:あるかだに、あるかのやと
勝坂遺跡西側の谷を小字「有鹿谷」という。有鹿窟から湧き出す有鹿の泉が谷の木々を潤している。シラカシ、アオキ、ヒサカキ、タブノキなどの生育する樹林は相模原市天然記念物に指定されている。有鹿神社奥宮祠と勝坂有鹿谷祭祀遺跡がある。
有鹿天神社
よみ:あるかてんじんしゃ
有鹿神社境内摂社。かつて海老名氏館の鬼門を守っていた天神社を本宮境内に遷座。菅原道真を祀る天満宮ではなく、天候を司る天神を祀るという。
有鹿池
よみ:あるかのいけ
有鹿神社中宮境内にある石橋の架かる小さな池。有鹿明神縁起によると清浄の霊池とされ、後冷泉院により仏舎利が奉納され有鹿明神が随喜してこの池に影向したことから影向の池とも。同縁起には別当寺総持院の住職、慶雄が夢告によりこの池より御神体となる霊石を得たとされています。
有鹿の泉
よみ:あるかのいずみ
有鹿窟を含む崖面の段丘礫層から湧き出る泉。有鹿神社奥宮の前を流れ、鳩川へと合流する恵みの水は農地を潤す。泉には相模原市天然記念物に指定されているホトケドジョウが生息している。
有鹿の丘
よみ:あるかのおか
相模川の左岸中流に位置し、南北に走る河岸段丘。この丘を中心として農耕と機織の生活が営まれる。有鹿神社は、この尾を衛るので、「衛尾」の里という。有鹿郷の一部である。
説明文:有鹿神社宮司様
有鹿の老
よみ:あるかのおゆ
鷹倉社寺考の引用する寒川神社の由緒書(滅失)によると、有鹿神社を有鹿の老(おゆ)と尊称する。
説明文:有鹿神社宮司様
有鹿神の使姫
よみ:あるかのかみのつかわしめ
使姫(使婢、神使)とは神の眷族として神に代行して現世と接触する考えられる特定の動物のこと。有鹿神社の神使は有鹿岡に棲んだという白狐で、三眼六足神社に祀られている。惣国風土記によると、この白狐は農夫の姿になって虫の害から稲を守ったという。
有鹿の輿巻
よみ:あるかのこしまき
座間市桜田辺りの異称。有鹿神社の神輿が水引祭の帰路にここで水争いに巻き込まれた。その時、有鹿の神が大蛇となって現れ、神輿を守るように取り巻いた。大蛇は「しばし待て、水を与えよう」予言するとその後、水田に水は満ち水争いを収めたという伝説が残る。
有鹿の霊石
よみ:あるかのれいせき
総持院の住職、慶雄は夢告により有鹿の池から得たこの霊石を有鹿井戸で洗い清めて有鹿神社の御神体とした。新編相模風土記稿によると高さ五寸、周囲九寸の淡い黒色色の卵型の石という。水引祭では神輿で有鹿谷まで運ばれ、有鹿窟に収められた。
有鹿比古命
よみ:あるかひこのみこと
有鹿神社の御祭神、天神で、男神の太陽の神であるという。地域では大日靈貴命の別名であるとされてきた。
有鹿比女命
よみ:あるかひめのみこと
有鹿神社の御祭神、地神で、女神の水の神であるという。奥宮の御神体である有鹿窟、泉の神である。
有鹿姫
よみ:あるかひめ
小沢城城主、金子掃部助の娘が有鹿郷士との婚約中であったが、太田道灌により小沢城が攻め落とされ、娘は相模川に身を投げた。すると娘は大蛇に姿を変え、川を下ると河原口に流れ着き、娘の姿で息絶えた。村人は娘を哀れに思い、 有鹿姫の名を贈り、有鹿神社の片隅に葬ったという。
有鹿袋
よみ:あるかぶくろ
鳩川から分流した農業用水路が上郷の三王三柱神社の所で、河原口方面、中新田方面、上郷西側方面へ袋の口のように分水する。そのためこの辺りを有鹿袋という。今は用水路は暗渠となっている。
有鹿大明神縁起
よみ:あるかだいみょうじんえんぎ
有鹿神社の縁起書。永和年間(1375~)に書かれた古縁起、天正年間(1573~)に書かれた続縁起の二篇。総持院に所蔵されている。
吾田鹿葦津姫
よみ:あたかあしつひめ
安養院
よみ:あんよういん
海老名市河原口2-4-12に建つ曹洞宗の寺院。稲荷山と号する。阿弥陀如来が本尊。境内に有鹿明神の使姫が祀られていると伝わる三眼六足稲荷神社と、有鹿丘と呼ばれる経塚が残されている。
【人物】足利持氏
よみ:あしかがもちうじ
室町時代の武将で、第四代鎌倉公方。永享の乱で海老名道場に陣を敷いたと永享記に記されている。
雨乞い
よみ:あまごい
有鹿神社に関係する雨乞いの話は上郷に残っていますが、現在は行われていません。日照りが続くと大山様へ村人がお詣りに行き、水を竹の筒にいただいてきて氏神様の有鹿神社に供えた。その水を水田へもって行き、雨が降るような言葉を唱えて撒いたといいます。
い
一大縄
よみ:いちおおな、いっちょおな
古田条里制の下で明神大縄と交差する東西に走る大路。現在の河原口の有鹿神社の南から国分の大欅下に至る。
説明文:有鹿神社宮司様
一の鳥居
よみ:いちのとりい
中世まで、有鹿神社の社人達の居住する「社家」において、明神大縄の上に建立されたという大鳥居です。
説明文:有鹿神社宮司様
う
え
海老名郷土かるた擬木
よみ:えびなきょうどかるたぎぼく
海老名市の史跡や郷土史を紹介する目的で建てられた擬木柱です。有鹿神社境内には「あ」有鹿社は式内社にて水守る、の擬木が建てられています。
海老名耕地
よみ:えびなこうち
鳩川の流域に沿って形成された農耕地域で、相模川に流入する平野部。相模国一の穀倉地帯。大化の改新により古田条里制の敷設。ほぼ全域に渡る五百町歩の墾田の寄進により有鹿神社の社領。
説明文:有鹿神社宮司様
海老名氏霊堂
よみ:えびなしれいどう
海老名氏館敷石
よみ:えびなしやかたしきいし
【人物】海老名季定
よみ:えびなすえさだ
海老名氏館
よみ:えびなしやかた
【人物】海老名季兼
よみ:えびなすえかね
お
大藪稲荷神社
よみ:おおやぶいなりじんじゃ
三川公園内に祀られている有鹿神社の境外摂社。大藪の名前は昔、辺りが藪に覆われていたからだという。創建時期は不明だが、文久三年と明治四十年に再建されている。
奥津宮の説
よみ:おくつみやのせつ
【古代相模の方位線】には、奥宮を里宮祭祀場、石楯尾神社を旧有鹿神社中津宮、そして座間キャンプ内の高地を旧有鹿神社奥津宮とする話が書かれている。現在、一般人の立ち入りは出来ず、遺跡や祠があるという情報は見られない。