水引祭

水引祭とは「水貰いの神事」「有鹿さまの水貰い」とも呼ばれる有鹿神社本宮、奥宮で行われる特殊神事である。

有鹿大明神縁起には室町時代末に再興された伝承が残り、神事の行われる奥宮付近には古墳時代の祭祀遺跡が発見されており、起源はさらに遡るとも考えられている。時代により様子や込められる祈りに変化はあるものの、今日まで地域の水神信仰、農業祭祀を伝えている。

現代の水引祭

現代の水引祭は4月8日の遷座祭6月14日の還御祭の二つのお祭りから成り立つ。

遷座祭

遷座祭(せんざさい)では、4月8日の朝に海老名市上郷の本宮で水引祭のための小型の神輿、水桶、柄杓をお祓いして、有鹿比古命の神霊を神輿へお遷しするお祭りをして、車で相模原市南区磯部の奥宮へ向かって発御する。奥宮では氏子総代が神輿を奥宮の石祠に供え、宮司が神輿から奥宮へ神霊をお遷しして、水引祭を行うこと、その事由を祝詞奏上する。

宮司、禰宜、総代が水桶と柄杓を持ち有鹿泉に向かい、泉にて警蹕の中、柄杓で水桶に三度水を汲む水貰いの神事を行う。その後、参列者は紙の人形(ひとがた)に穢れを移し、鳩川へと流れ落ちる小川に流す。

その後、神職、総代、氏子、一般参列者で奥宮の石祠にて玉串奉奠。撤饌して海老名の本宮に戻る。本宮では水桶と神輿が御神前にお供えされ、遷座祭が滞りなく斎行されたことを奉告するお祭りが行われる。水の入った水桶と神輿は還御祭までこのまま神前にお供えされる。

還御祭

還御祭(かんぎょさい)では、6月14日の朝に本宮で有鹿比古命をお迎えすることを奉告する参拝式が行われ、その後、車で奥宮へ向かい発御する。奥宮の石祠に神輿をお供えして、宮司が還御する事由を祝詞奏上し、有鹿比古命の神霊を神輿にお遷しする祭りを行う。

その後、神職、総代、氏子、一般参列者で奥宮の石祠にて玉串奉奠。撤饌して海老名の本宮に戻る。宮司、禰宜、神職及び総代は、本宮の御神前に神輿をお供えした後、有鹿比古神の神霊代を神輿から出して本殿にお戻しする祭りを行う。

この祭りの形態は昭和40年頃から行われているという。

近代の水引祭

近代の水引祭は明治末から大正初期頃に中断したとされているが、伝えによっては時期の違いが見える。どの言い伝えが正しいかの判断はできないが、言い伝えの中から、江戸時代末期から明治維新と神仏分離という大きな変化の中で移り変わる祭りの様子を窺い知ることができる。

明治3年の祭りの取り決め

”明治三年(一八七〇)四月の取り決めによると、四月八日(大祭)は、当社社頭で神酒・神饌を供えてから正午刻に出発する。行列は、榊持二人(河原口村、上郷村各一人)、太鼓持四人(両村各二人)、警固二人(両村村役人各一人)、宰領八人(両村村役人各四人)、駕輿丁(みこしをかつぐ人)一六人(両村各八人)。途中、下今泉村富士宮に立ち寄り、上今泉村で小休止。磯部村の旅所(有鹿谷)へ着くと神酒・神饌を供え、神体を洞窟へ安置した。六月十四日(小祭)の帰路の行列は往路と同じ、途中で座間村と座間入谷村で小休止するというものであった(上郷自治会蔵「御利解御下ヶ願書」明治三年)。旅所でも神事を行ったので、神主も同行したものと思われる。座間村や座間入谷村の人々も鳩川の水を利用するので有鹿神の神輿が通る時は帰路の夜間でも提灯をつけて見送ったといわれる。”「海老名市史7通史編近世」(海老名市,2001)

遷座式の廃止(

”海老名郷五村ノ鎮守ニシテ祭日四月八日神輿ヲ磯部村高勝ノ地ニ移シ六月十四日ニ至ルヲ以テ例トナス明治年丙子之ヲ廃”「大日本國誌 相模国第3巻」(内務省地理局 [編],1988)

遷座式の廃止(2)

明治十三年、古例の遷座式を癈し、七月十四日を以って例祭日に變更”「海老名郷土誌 大島家史と其郷土誌(大島正徳,1980)

日清戦争までには無くなったという祭りの様子

”明治二十八年あたり迄の話なのですが、旧暦六月八日に河原口の有鹿明神の前夜祭に有鹿の輿が勝坂(相模原市)の有鹿谷に魂迎えに参ります。当夜は鈴鹿明神の輿が宮世話人、部落役員一同と、天王大縄に有鹿の輿を待ち、有鹿の露払いとして有鹿明神の先に行きます。勝坂の四辻辺で二基の輿を休め、一休止する時、勝坂の氏子が迎えて有鹿谷の御魂を輿に収めて又四辻に引返し、夜中まで夜祭(よまち)を致します。明け方に勝坂を発ち座間の上宿に設けてある二社の御仮屋に輿を収めて翌日一日は座間で御祭をしました。(中略)この一日祭には農具市がたち、食気物の露天屋、露天バクチ、臨時の飯食屋などで、笊蕎麦を沢山集めて乱痴気騒で一日を過ごしました。その日の夕刻、有鹿と鈴鹿明神の輿は仮屋を発って河原宿で鈴鹿と有鹿の輿は別れます。河原口では三日間本祭を行い、夜間、有鹿谷で霊納めに参りますが、沿道の店は迎えの行事はしなかったようです。入谷では有鹿の祭と同じ日に本祭を三日間挙行しましたので総計七日間祭をやった訳です。古老の話では、明治二十八年の日清戦争の勝戦の時には入谷だけで盛大に祭をしたという所を見ると、有鹿明神との合祭は、日清戦争以前に停止したのであろうと思われますが、確かな事はわかりません。一説には明治の初年に別個に祭礼を行ったという説もあります。”「鈴鹿明神御由緒」(飯島忠雄,1959)

当時の神主の姿

”四月八日の祭礼の時は神主が先に立ち、氏子が大勢で神輿をかついで、八キロの道をはるばる勝坂有鹿谷まで来て、泉の上の台地にお旅所をしつらえて、神霊を洞窟中に奉安し、神事を行ない一夜を明かして海老名にもどる。そして六月一四日にまた神霊を迎えに有鹿谷まで神輿を奉じるのである。この行事は明治末期から大正初期まで行なわれて、当時の神官井上多摩喜が馬上姿でりりしく先頭に立ち、行列はなかなか盛大であったそうである。”「郷土相模原 第14集」(座間美都治,1964)

鈴鹿明神社との関わり

”鈴鹿明神社と、海老名市上郷にある有鹿神社とは深い係わりがあった。有鹿神社の祭礼は、六月十三日から十六日までの四日間とされ、このお祭には、有鹿の神輿が相模原市勝坂の有鹿谷まで行き、「水もらいの神事」をして一泊し、翌朝帰る慣行があった。この時、入谷では明神の神輿を担いで、大縄道(市役所南側の道)を通り河原宿の鈴木英夫氏前で有鹿の神輿と落合い、その先導となり勝坂まで行き、お祭を共にして次の日鈴木氏前で別れたという。その折に、入谷・座間両村の名主がそれぞれ五名お伴に加わったとのことである。この様な行事が行われたのは、座間から海老名にかけての広大な水田を潤おす用水の確保を、祈願する神事であった。農民にとって耕作用水は生活がかかっていたので、それを確保することには、皆、真剣だった。そのため、水争いは随所に起ったようである。水争いで最も大きい事件は、明治八年頃、海老名側との紛争である。その年、座間側で鳩川用水を海老名に十分送らなかったために起きたもので、栗原の名主大矢弥市が調停に立ち、一旦は収まったかに見えた。ところが入谷の農民がこの調停を不満とし、有鹿神社の「水もらいの神事」に参加しないと言い出した。困った海老名側が詫を入れてようやく収まったものの、この争いで有鹿神社の祭典が一日延期された。水争いとは別に、入谷と座間が完全に別れた明治十三年六月には、座間の若い衆が、鈴鹿明神の神輿がミソギに座間分の鳩川用水を使うのは承知出来ないと、これを強硬に拒んだことがあった。幸い、座間・入谷の役員が双方の間に入り、説得に努めて事なきを得たという。”「座間の語り伝え・信仰編」(語り伝え聞き取り調査団 図書館市史編さん係,1979)

例祭日変更後の新聞記事

”相模川中祭典 高座郡海老名村河原口指定郷社有賀神社の祭典は十四日挙行せしが同祭典は相模川中流を神輿の渡御ありなかなか盛んにて午前十時社司井上多満喜、神職古木倉之、早川神造諸氏祓の式を行ひ幣饌料供進使若林郡長、加城郡書紀を随へ参拝し玉串及び幣帛料を捧げ夫より規定の祭式あり村長、名誉職員、小學校教員并に生徒全部参拝し式を終る神輿は村内隈なく渡御し最後に相模川橋下流に飛び込みワッショワッショの聲勇ましく揉み合ひて後式を終りたり”「横浜貿易新報大正4年7月17日(土)三面」

近世の水引祭

現代の水引祭の原型であり、有鹿様の水貰いの印象が作られたのが近世水引祭。始まりは有鹿神社の縁起書だが、その先は周辺地域で起こった出来事についての資料が主になる。

縁起由緒

海老山總持院に所蔵されている巻子、有鹿大明神縁起神奈川県古文書資料所在目録「第6集」(1))内の続縁起に描かれた近世の水引祭再興縁起。有鹿神社の祭祀の断絶に嘆き、再興を誓った僧、慶雄が託宣を受けて霊石を発見した後に霊鳥に導かれ霊洞に霊石を納める、そして再び夢告を受けて霊石を有鹿神社へ戻す、という水引祭の型が見える。

”正親町院御宇義昭將軍時、總持院現住慶雄闍黎、信心堅固、而有秀才、然修學共精勤、殊愾神社之長零落、慯祭祠之久断絶、参詣之毎度、祈誓再興、於此事太切也由、明神鑑其誠情乎、天正三夏四月七日之夜、夢中懇告慶雄遮黎宣、吾昔游清潔池日、宿吾神於水中靈石、而今深沈于淤泥、益人等不知焉、而穢於池辱於吾、爾明日朝尋出彼池中之靈石、納茲於神殿、永可崇吾神、又去神社於東北千千步百百步、而有吾鎮坐可守護諸人民清潔洞、明日令吾神連行彼洞吾當以鳥知吾鎮坐所矣、遮黎夢覺、倍起信無疑慮、而營澡浴、早旦行古老之日頃語傳明神影向之靈池、法施一心誓入于池探覓彼靈石、至干泉底果如神告得之、歓喜頂載、而覆以法衣、納以經倭篋捧歸、先奉安置吾寺之佛前、法樂而後悉告鄉人云云、老若男女即時群參、奉拜夫神之靈石、歡喜感歎讙而即奉備御供神酒、奏神樂、貴賤頂戴供酒、于時遮黎如告卽日謂奉成行幸、倏靈鳥飛來、卽随飛行奉成行幸、終下彼靈洞之處、至彼處見果有靈窟、卽若神勅納神體於靈洞還畢、(古老傳云、彼神窟從往昔、迄于今終無見窟内者云云、又貴賤老若供奉也、)同年六月十三日之夜、復夢中告慶雄遮黎宣、吾方思以明日歸本宮、汝來宜連歸納于本宮、又以今此祭嗣永爲恒例焉、遮黎卽夢驚、待明而悉告鄕中、行彼窟奉成還行神體於本社、從斯以降若神勅爲毎歳之定式者也、鄕俗驚茲瑞現、同年秋再修於神社也、於是遮黎之兩願共滿焉、天正十三年乙酉歳二月十有一日 別當海老山總持院”

続縁起は天正年間(1573〜1592)に書かれたとされ、この後に紹介するいくつかの近世資料の内容も概ねこの続縁起の水引祭型と大きな違いは見られない。

神職が記した水引祭

江戸時代初期の寒川神社神官が編著した鷹倉社寺考には水引祭に修験が関わっていると書かれている。

”例祭ハ四月八日、六月十四日ナリ。当日神輿ノ渡御アリ。神輿、当年十七歳ノ男昇テ村北磯部村勝坂村地内ノ霊祠ニ到レリ。里人有鹿谷ト唱ヒテ神事ノ外スルコトヲ禁ゼリ。爰ニ(四月八日)神輿ヲ駐シテ神事ヲ修行セリ。社人及ビ修験千葉某奉仕ス。六月十四日卯ノ刻に帰座スルヲ例トス。”

"大光寺 月迎山卜号ス。天台宗、羽黒行人派修験道場ナリ。江府日本橋、普門院末。昔日ハ海老山月迎院大光寺卜号シ有鹿明神神輿供奉ノ修験ナリ。明神隣村有鹿谷渡御ノトキ其ノ先達ヲナセリト云フ。"「鷹倉社寺考」(金子伊豫守 著ほか. 海老名古文書研究会, 2003.)

社寺考は複数回補筆されたとみられるため、初稿の記事だとすれば万治2年(1659)より以前の内容になる。

摩擦の数々

正徳5年(1715)には勝坂の有鹿明神社地について磯部村の仏像院が社地の支配は自分たちのものであるという訴状を寺社奉行へ提出し「磯部村内勝坂有鹿明神社地出入書物」(下溝福田為一郎家文書)、有鹿神社側は社地押収のための謀略であると反論した。結果は社地の支配は仏像院に認められたものの、社地の地上物(樹木)は氏子、勝坂の民の物であるとし祭礼についても有鹿神社が奉幣することとなる。

元文4年(1739)に書かれた座間宿村名主、片野庄右衛門の日記には有鹿明神祭礼渡御について事前に座間宿村、勝坂村でやり取りが行われて、馬乗について承引できない座間入谷村の名主を説得するといったことが書かれている。

宝暦11年(1761)には磯部村の住人が有鹿明神の神輿を集団で破損させてしまうが、内済した詫び証文が残されている「有鹿明神神輿打破出入内済請人証文」有鹿側は複数年に渡り嫌がらせを受けていたとしており、この騒動が磯部村の突発的な感情で引き起こされたのではなく、積み重なっていた鬱憤から起こされたものであり、これが水引祭の神輿渡御であるため、原因の中には水利に関するものもあると考えられる。

村民地誌による視点

座間の住人が明和年間(1764〜1772)に書いたとされる地誌、座間古説には渡御の道行きや住民視点での様子、享保のころより有鹿神社と鈴鹿明神の神輿が共に勝坂へ渡御するようになったことが書かれている。(現代語訳を引用)

"有鹿明神は四月八日に勝坂へお通りになったが、梨の木では諏訪坂をよけて、星の谷坂より太鼓を打ち、にぎやかに神輿を進めて来た。この時、突然鈴鹿の森より神風が吹き、有鹿の神輿 を西の方の田に巻落として、ようやく風が収まり、有鹿はやっとのことで勝坂の穴に入ることができた。それで今でも鈴鹿の森の西を輿巻という小字で呼んでいる。それ以来、有鹿明神は梨の木の諏訪坂をお通りにはならなくなった。昔から鈴鹿様の御祭礼の時、六月七日には鈴鹿の森より神輿が出御され、大川原へ浜降りにお出になった。そのあと、鈴鹿の森の下の宮川という家の前に、同月の十四日まで御休息になり、鈴鹿の宮へお帰りになった。同じ日に有鹿の神も海老名へお帰りになったが、その時には有鹿の神は石になり、称宣はこれをかますに入れて馬の背に載せ、御幣をさしてお帰りになった。そして、途中、 座間の神輿が鈴鹿の宮へお入りになるまでは、祢宜は前もって控えていて、鈴鹿の神輿がお宮へお入りになってから、そのあとをお通りになった。これが昔からの儀礼であったのに、近年の享保のころより、神輿で有鹿をお迎えに行くようになったが、これは昔からの儀礼を欠いたやり方で、海老名の氏子のやり方は間違っている。"「座間古説」(座間市立図書館市史編さん係 編, 1987,)

新編相模国風土記稿

江戸時代後期、天保12年(1841)成立の相模国の地誌にも神事の型としては変わらずに載せられている。

"祭禮年々四月八日神輿を舁て、村北磯部村内勝坂と云所に到る、此地に洞あり、有鹿谷と呼ぶ、爰に神輿を駐て神事を修し六月十四日歸座するを例とす"

世、古代、古墳時代の祭祀

近世以前はどのような形態で祭祀が行われていたのかについての資料が無く、不明。続縁起でも「殊愾神社之長零落、慯祭祠之久断絶」と書かれているのみ。

有鹿神社に関係する祭祀遺跡と見られる遺跡は、弥生時代の河原口坊中遺跡、古墳時代(4世紀末〜7世紀後半)の勝坂有鹿谷祭祀遺跡、平安時代(9世紀中期~10世紀前期)有鹿遺跡、中世〜近世の安養院有鹿丘経塚があり、それぞれ水辺での水霊、農業に関する祭祀の跡であると考えられている。

画像引用:大場磐雄 責任編集. 神道考古学講座 第2巻 (原始神道期 1 古墳時代の祭祀遺跡), 雄山閣出版, 1982.11. 

有鹿遺跡の則天文字墨書土器

河原口坊中遺跡の小銅鐸