宮鐘

三代目宮鐘

鐘銘

延喜式内社有鹿神社に應永二十四年十一月海老名氏後裔寶樹沙彌寄進の大宮鐘有り星霜二百七十余年に耐え遂に仍て氏子中相計り元禄二年三月之を改鋳せり此鐘朝夕清流を渡り或は稲穂の波に乗り近郷迄優美妙音を響かせまる大東亜戦争起り戦局急を告ぐ昭和十九年紅白襷姿で見送られ惜くも砲彈に變る以後三十余年神域に鐘楼淋しく残る故に近上陛下即位五十周年を記念氏子中発起家内安全五穀豊穣家業繁榮と平和を祈願再鑄奉納す

昭和五十三年四月吉日

寄進者 氏子中

京都 三和梵鐘株式会社 謹鋳

社長 山本日淳

鋳匠 小椋義一

々 山田政治

有鹿神社本宮の宮鐘は、鳥居から境内に入ってすぐ西側にある昭和53年(1978)7月に再建された銅板葺き入母屋屋根の鐘楼に掛けられている。

現存の宮鐘は三代目、昭和53年4月に再鋳された。氏子奉納。京都の三和梵鐘株式会社による制作。匠として小椋義一、山田政治の銘が入る。全高約120センチ、口径約70センチ、乳は5×20+8で108個、龍頭有り。池の間に鐘銘3面と神と龍の浮彫1面、撞座のある正面縦帯には郷社有鹿神社、左縦帯には家内安全、右縦帯には五穀豊穣、草の間4面には龍の浮彫がされている。

鐘楼

神鐘再建記念碑

神と龍の浮彫

龍頭

二代目宮鐘

二代目宮鐘は元禄2年(1689)3月に荻野郷新宿の鋳物師、木村清兵衛正重と木村太郎左衛門吉重作で再鋳されたと【鷹倉社寺考】に記されている。昭和19年(1944)第二次世界大戦のため金属供出される。

【海老名市史5資料編現代】の海老名市域の社寺供出梵鐘一覧にはその大きさが記載されてる。

総高3尺7寸6分(142.88センチ)、笠形1尺3寸(49.4センチ)、鐘身2尺8寸3分(107.54センチ)、口径2尺1寸(79.8センチ)、厚さ2寸(7.6センチ)、撞座径3寸2分(12.16センチ)、撞座高3分5厘(1.15センチ)、乳段列5段16列

鐘が掛かっていた鐘楼は八王子道を挟んだ有鹿小学校敷地の一角(かつての有鹿神社境内地)にある有鹿姫之霊地史跡の碑の場所にあった。

初代宮鐘

初代宮鐘を寄進したのは宝樹沙弥(海老名持季)で応永24年(1417年)と【有鹿明神続縁起】にある。また【鷹倉社寺考】ではこの梵鐘は明応4年(1495)8月15日の地震で破損したという。

【海老名郷土誌 大島家史と其郷土誌】によれば沼田頼輔所蔵の貞享3(1686)正月に別当総持院から代官へ提出された古文書に鐘銘が伝わる。

相州田倉郡海老名郷

有賀大明神宮鐘銘文

應鑄造鐘事

夫犍槌一打。三千之衆雲集。霜鐘三振。四生之苦氷銷。故能田剡免刀輪。獄率休鑊湯。長眠聞之驚覺。永夜因之忽暁。當社所以繁榮之垂跡。所以暫添般若。𥛦道場主只鳴鐘乎。然今道人淸自造立。毎刀伏有緑。道俗各添消塵。相濟斯願。伏願生々吐如來梵響。世々曉衆生之苦聲。今不任至願。謹奉勸。

應永廿四酉丁十一月三日

勸進 沙門剛中ロ之

大檀那 沙彌寶樹

大工 和泉守經光

作者の和泉権守恒光については詳細は不明。鎌倉大仏などを造った相模鋳物師である物部氏の意匠を受け継ぐ作風であった清原氏の一族と考えられる。同じ作者の宮鐘が伊勢原市沼目の八坂神社銅鐘(県指定重要文化財)として残っている。