有鹿神社

有鹿神社概略

有鹿神社(あるかじんじゃ)は相模川中流域の左岸、鳩川の勝坂水源と海老名耕地に信仰域を持つ神社。本宮(ほんみや)と中宮(なかのみや)が神奈川県海老名市上郷に、奥宮(おくのみや)が神奈川県相模原市磯部勝坂の有鹿谷に鎮座している。

正確な創建年代は不詳。日本三代実録には貞観11年(869年)11月19日に従五位上の神階を授けられていると記される。延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に記載されている相模国の延喜式式内社十三座の内、高座郡の小社、有鹿神社(アリカノジンジャ)に比定される。江戸時代末に編纂された新編相模国風土記稿には海老名郷五村の総鎮守であると記され、近代社格制度では神饌幣帛料供進指定の郷社であった。昭和28年(1953年)に神奈川県知事所轄の宗教法人として登記され、神社本庁との被包括関係に属する神道系の被包括宗教法人である。

神紋:三つ巴

屋根の紋は反時計回り、神輿の紋は時計回り。

公式ウェブサイト

https://www.arukajinja.jp/

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有鹿神社本宮(ほんみや)

有鹿神社中宮(なかのみや)

有鹿神社奥宮(おくのみや)

御祭神・御神徳・御神体

有鹿神社略記」では二柱の御祭神を合わせて「火水」(カミ)であり「有鹿大明神」と称え、親しみを込めて「お有鹿様」と申し上げる、とする。

太陽神と水神の御神徳によって収穫という生命を生み出す農業、産業を守護するとし、水引祭の渡御は奥宮の女神を本宮の男神が向かえに行く神事と捉え、夫婦神とする説から子育てを守護するという。

神奈川県神社庁HPの有鹿神社ページでは一柱「大日靈貴命」を御祭神としている。

過去の祭神については諸説あり、「日本惣国風土記神社覈録では「太玉命」、「新編相模国風土記稿」では「大日靈」(本地仏を虚空蔵)、「鷹倉社寺考」では「有鹿比古命」(本地仏を大日如来)、「神名帳考証」では「吾田鹿葦津姫」「有鹿葦津女」、「高座郡神社略誌」では「大日孁女貴命」「宇氣母智神」、小島重治前宮司の代に作られた「有鹿神社参拝の栞」では「大日孁貴命」と相殿「有鹿姫」とある。

有鹿神社の御神体は「新編相模国風土記稿」等によると高さ五寸(15センチメートル)、周囲九寸(27センチメートル)の淡い黒色をした丸石だとして、本殿内陣に収められている。また、奥宮の有鹿窟湧水を本来の御神体であるともしている。

祭事・特殊神事

水引祭

神事「水引祭」は「有鹿様の水貰い」とも呼ばれる「有鹿明神続縁起」「座間古説」に見える少なくとも室町時代末からの水神信仰、農業祭祀を伝える特殊神事で、かつては河原口、上郷から磯部勝坂へ神輿が渡御した。明治時代に一時中断したが、奥宮の石祠が昭和40年に再建されると、その機会に現在の形となり復活した。神輿は小さなものになり、自動車での渡御となったが、4月8日の遷座祭では本宮から奥宮へ御神霊をお送りし、有鹿の泉から湧き出す水を汲み、それを本宮へ持ち帰り神前に供える。6月14日の還御祭では奥宮へ御神霊をお迎えにあがり、人形で厄を落として、湧水(鳩川)へ流す神事を行う。

境内の建物・石造物・文化財

境内:有鹿神社本宮は相模川を北側に、中津川、小鮎川、鳩川という支流合流点に河成堆積した水はけのよい自然堤防上に鎮座していて、境内敷地面積は約1500坪(約4958平方メートル)、南から南東側を八王子道(御尊櫃御成道)に面して、東側を横須賀水道道が一部境内を分断している。ほぼ全域が海老名市自然緑地保全区域に指定され、有鹿の森とも呼ばれる鎮守の森はケヤキを中心に、ムクノキ、タブノキ、イチョウ等の樹木が境内の北側に茂る。

御社殿:矢倉沢往還(大山街道青山通り)と交差する明神大縄を北へ続く参道の先に石造りの神明鳥居があり、その先、境内西北側に木造銅板葺の社殿が南向きに建つ。拝殿、幣殿、覆殿が三棟一宇であり権現造りのような構造だが、本殿を覆殿で覆う形状。覆殿内の本殿は海老名市重要文化財で、一間社流造、柿葺の大規模な社殿で18世紀中頃のものとされる。外部は獅子や獏の彫刻、脇障子の昇龍透彫などが施され、内部は内陣と外陣に分かれた珍しい構造で神職が入り祭祀を行うことを想定して作られている。拝殿は明治時代以前に建てられたという日吉造向拝付。向拝には「有鹿大明神」の神額があり関思恭の書とされている。拝殿内部の天井板には江戸時代の絵師、近藤如水による龍絵図が描かれていて海老名市重要文化財に指定。幣殿は両流造、覆殿は神明造で拝殿よりも後に造られたと考えられる。覆殿屋根の千木は内削ぎ、鰹木は4本である。

鐘楼:鳥居から境内へ入ってすぐ左側にある入母屋屋根の鐘楼(令和2年(2020年)時点)に掛かる梵鐘は三代目で、一代目は応永24年(1417年)に宝樹沙弥(海老名持季)が寄進したと伝わる。一代目が地震で壊れた後、元禄2年(1689年)に二代目が再鋳されたが、第二次世界大戦の金属供出された。現在(令和2年時点)の三代目は昭和53年(1978年)に再鋳された。

手水舎:鐘楼の向かい、切妻屋根の手水舎があり、平成2年(1990年)奉納の寺社手水鉢型の水盤に龍之口から水が注がれている。

石舎:御社殿の左奥側、三社様の隣には古い石碑、旧水盤を集めて庇で覆い保護する石舎がある。延享2年(1745年)に建立された相模国十三座有鹿神社社号碑、享保元年(1716年)に寄進されたと伝わる水盤などが保管されている。

鳥居:境内南側境に明治32年(1899年)に建立された石造りの神明鳥居が現在の一の鳥居である。

狛犬:境内に狛犬は二対ある。鳥居両脇には建立年代不明の江戸獅子流れ型、左側が吽形の子持ち、右側が阿形(欠損)の牡丹持ち。御社殿前には大正8年(1919年)建立の江戸獅子流れ型、左側が阿形の子持ち、右側が吽形の珠持ち。

石灯籠:御社殿前には石灯籠が四基あり、新しいものは平成9年(1997年)に建立された春日灯籠。古いものは明治17年(1884年)に建立された。

他、石造物:鳥居右前には郷社有鹿神社碑、有鹿神社誌碑、相模国十三座内有鹿神社碑(再建)の三つの石碑。社頭の踏石(通常時はスロープの下)は元は海老名氏館敷石であったとされる御影石。境内参道の石畳は平成8年(1996年)に完成し、旧石畳は有鹿天神社、三社様の参道石畳に再利用されている。玉垣は平成9年(1997年)に奉納。

参心殿:鐘楼の北側に建つ「御札頒布所」「神楽殿」「神輿殿」を兼ねる参心殿は平成26年(2014年)に完成。御札頒布所は主に例大祭や正月に使用されている。神楽殿も同じように例大祭、正月の出し物や奉納舞のために使われ、土日等にパンダ宮司の奉納舞に使われることもある。神輿殿はガラス張りになっており、例大祭で担がれる神輿を見ることが出来る。

神輿:令和2年(2020年)時点で、有鹿神社例大祭で担がれる神輿は昭和28年(1953年)に制作されたものである。制作は神輿師、後藤直光。屋根延神社型神輿で漆塗り、担ぎ棒は四点棒で、担ぎ方は江戸前担ぎである。

社務所:御社殿の東側に建つ社務所は会議室、トイレなどを備え、平成9年(1997年)に完成。御朱印の受付、御守、御札の頒布は社務所で行っているが、職員、神職は常在ではなく、不在の場合は海老名市大谷の事務所で電話対応としている。

御神木:御社殿西側のカゴノキ(鹿子の木)。樹齢は不明。また、先代の御神木は三社様の後ろ側にあるタブノキ。過去に雷に打たれたと伝わっている。

花壇:手水舎南側にある大ケヤキ切り株周辺の「欅根花壇」、境内東側の駐車場の奥には「厨二病庭園」、有鹿天神社の裏手にある「天神北畑」など、境内の各所に季節折々の花々を植えた花壇が作られている。

駐車場:境内東側に参拝者用駐車場があり25台駐車可能。入り口は東門でラインは引かれていないが、駐車位置の目印に立て札が立つ。

その他:鳥居前に例大祭で幟旗をあげる二本の幟旗竿。鐘楼の前に有鹿神社由緒が案内されている由緒板。参心殿北側には納札所、絵馬掛け。手水舎の東側玉垣沿いに奉納板。社務所北側には倉庫。東門近くの建物は例大祭等の時のみ使用できるトイレ。有鹿天神社の北側には古い幟旗竿を納めた旗竿舎。境内北東にある建物は水防小屋といって洪水時に使う土嚢用の袋などを保管する倉庫である。

鐘楼

御神木

神輿

欅根花壇

境内末社・境外摂社

境内末社

有鹿神社本宮境内には二社の末社が鎮座している。

三社様(さんじゃさま):境内西側、御社殿後ろ側にある三社様は三神相殿、木造亜鉛葺切妻造の社殿で「新編相模国風土記稿」に「諏訪、稲荷、山王合社」と見えるので江戸時代末までには境内に祀られていたと考えられる。神額は左に「倉稲魂命 稲荷社」中央に「大己貴命 日枝社」右に「建御名方命 諏訪社」となっている。例祭は有鹿神社と同じ日に斎行される。

有鹿天神社(あるかてんじんしゃ):境内東側、銅板葺一間流造で庇に千鳥破風の社殿が有鹿天神社。平成3年(1991年)に遷座される以前は、海老名氏館跡東側(河原口屋島天神森)に祀られており、海老名氏館の鬼門を守護していたと口伝されている。「新編相模国風土記稿」に見える「天神社」はこの有鹿天神社であると考えられる。天候を司る天神をお祀りするとしており、天満宮ではない。

境外摂社

三王三柱神社(さんのうみはしらじんじゃ):三王三柱神社は有鹿神社本宮から西に約300メートルに鎮座する境外摂社。延宝8年(1680年)建立の石碑の残る山王社に、三峯講、伊勢講の社を明治末に合祀し、上郷の鎮守社とする。「新編相模国風土記稿」には「山王社 龍昌院持」となっている。境内には有鹿井戸、道祖神、海老名氏館敷石がある。例祭は4月最初の日曜日に斎行されている。

大藪稲荷神社(おおやぶいなりじんじゃ):大藪稲荷神社は有鹿神社本宮から北東に約450メートル、相模三川公園の堤防上に鎮座する境外摂社。文久3年(1863年)、明治45年(1912年)に再建した記録が残る。

熊野社(くまのしゃ):熊野社は有鹿神社本宮から北東に約780メートル、上郷の小字名「熊ノ森」に鎮座する境外摂社。社は石祠、明治8年(1875年)8月の再建。例祭は三王三柱神社と同じ日に斎行されている。

神武社(じんむしゃ):神武社は有鹿神社本宮から南西に約380メートルに鎮座する境外摂社。元は蛇口森と呼ばれ石神社が祀られていたが、この場所で日露戦争(1904~1905年)戦勝祈願のために橿原神宮を遥拝したことから石碑が建てられ、神武社が祀られるようになる。明治末、神社合祀政策によって石神社が有鹿神社へ合祀された後、昭和15年頃に再び戻され、境内には古い石祠が残っている。「新編相模国風土記稿」には河原口に天神社、神明宮、諏訪社、熊野社、第六天社があったとしていて、境内に残っている石祠はそのうちの社であると考えられる。神武社は第二次世界大戦後、河原口鎮守となったと伝わる。

三社様

有鹿天神社

三王三柱神社

有鹿井戸

大藪稲荷神社

熊野社

神武社

石神社

中宮・奥宮

中宮(なかのみや):有鹿神社本宮から東北東方約400メートルの所に有鹿神社中宮は鎮座している。境内地は約21坪(約70平方メートル)で、石造りの鳥居を潜ると御神体である霊石が見つけ出された有鹿池(あるかのいけ)がある。令和2年(2020年)時点では水が涸れている小さな池には太鼓橋が掛けられ、橋を渡ると平成10年(1998年)建立の石祠が建てられている。いつからこの地で祀られ始めたのかは不明だが、昭和20年(1945年)の「有鹿池」石碑があり、その頃には祀られていて、土地の所有者であった浜田氏が昭和51年(1976年)11月に有鹿神社へ寄進した。浜田家には御神体が相模川上流から流れ一度勝坂で祀られていたが衰退したため有鹿池に流れ着いたという伝承が残る。これが中宮遷座伝説の元となっている。

奥宮(おくのみや):北方約6キロメートルの神奈川県相模原市磯部勝坂の有鹿谷に有鹿神社奥宮は鎮座している。有鹿谷は国指定の勝坂遺跡公園内(4.29ヘクタール)の西側、河成段丘崖下にあり、周辺の照葉樹林は相模原市の天然記念物に指定されている。石造りの鳥居と猪鹿蝶が彫刻された明治19年(1886年)建立の石祠台座、昭和40年(1965年)建立の石祠があり、そこから北へ小川(有鹿の泉)を辿ると段丘崖から湧水が湧き出す有鹿窟があります。有鹿神社宮司の作った小型木製鳥居の建てられた湧水地は、かつて内径一尺(30センチメートル)程の穴があり、水引祭で御神体を奉安したというが、関東大震災で崩れてしまったと伝わっている。昭和以降の水引祭では湧水の水を汲むのみとなっている。

有鹿の池の太鼓橋

旧有鹿之池石碑

猪鹿蝶彫刻

有鹿の泉

アクセス

本宮

中宮

奥宮

史料から見る歴史

当社の正確な創建年代は不明。「日本惣国風土記」には天智天皇3年(664年)に初めて祭礼を行ったとある。六国史に有鹿神社の名が見えるのは「日本三代実録」で貞観11年(869年)11月19日に従五位上の神階を授けられている。延長5年(927年)延喜式神名帳」に「高座郡小社 有鹿神社」と記載され、承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」に「高座郡有鹿郷」が見えることから、この頃には同地に鎮座していたとされる。

「鷹倉社寺考」によると康平7年(1064年)正月に海老名源四郎某が有鹿明神に領具を寄進しているとある。永和3年(1377年)に書かれたとされる「有鹿大明神古縁起」と天正13年(1585年)に書かれたとされる「有鹿大明神続縁起」は、別当寺であった総持院に「有鹿大明神縁記」巻子(巻物)として所蔵されていることが「神奈川県古文書資料所在目録 第6集」に記されている。「新編相模国風土記稿」では縁起の内容を扱っているものの「共に其頃の物とは見えず」と成立年代については不確かとしている。

相模國分寺誌」では永徳元年(1381年)に正一位の神階を賜ったとしているが、これは諸神同時昇叙(「神祇史綱要」参考)によるものとする説である。「相模國分寺誌」「海老名郷土誌」で応永23年(1416年)に寶樹沙彌(海老名持季)が宮鐘を奉献したとしている。これは貞享3年(1686年)に総持院から代官へ提出されたという古文書(沼田頼輔氏所蔵)で銘文が伝わっていることを根拠としている。

鷹倉社寺考」には天文18年(1549年)「北条相模守より上海老名郷有鹿社、総持院に二十貫文」、永禄年間(1558~1569年)「北条左馬頭より二十五貫文の社領の寄進の文、別当総持院蔵」とあるが、古文書は現存していない。

元和8年(1622年)に上郷村に領地を持っていた高木主水(高木清秀)の内室が社殿を造立したとする。これを「海老名郷土誌」では古文書(沼田頼輔氏所蔵)によるという。寛保4年(1744年)に江戸の書家、関思恭が書いた「有鹿大明神」の神額が奉納され、延享2年(1745年)に「相模國十三座内有鹿神社」の碑が建立され、万延元年(1860年)に藤原隆秀(近藤如水)により拝殿天井に「龍絵図」が描かれ、それぞれ現存している。天保10年(1839年)に成立した「相中留恩記略」には長谷川雪堤が描いた総持院の挿絵があり、そこに有鹿神社も描かれている。

明治元年(1868年)に神仏分離令により、総持院の別当が廃止される。明治6年(1873年)に郷社に列せられており(「明治神社誌料」等)、明治43年(1910年)に神饌幣帛料供進社に指定されたことが「横浜貿易新報」明治44年7月18日(火)の紙面に載っている。

有鹿明神縁起から見る由緒

有鹿神社の縁起、由緒とされる「有鹿大明神古縁起」「有鹿大明神続縁起」は総持院に所蔵され現存しているが実物は公開されていない。内容は「海老名市史2資料編中世」(504~508p)で読むことができる。(ここでは原文ではなく要約解釈したため、解釈違いの場合がある。)

有鹿明神古縁起

神代の昔、天孫降臨の後、天皇支配の長久と人々の利益のため八百万の神を国々で祀ってきた。相模国高座郡海老名郷では有鹿神社である。大日霊の分魂が眷属神を従えて勝境に降りられた。古老の伝えによれば、海老名郷はかつて大海老の住む入り江で、海水が引いた後は麗しく豊かな田園となったので「海老名」という美しい名とした。鹿や霊鳥の集う麗しい丘に明神が降臨し、その姿を流水に留めた。人々は産土神として祀り有鹿大明神と称した。

神亀3年(726年)春、行基が有鹿神社に参籠したところ、たちまち天皇は平癒した。天平勝宝6年(754年)8月12日、海老名郷司、藤原廣政の夢兆に有鹿明神が「虚空蔵菩薩の化身」として現れ神託を下される。廣政は神祠を再営、境内は美麗な社殿と十二の坊舎が軒を連ね、別当寺の海老山満蔵寺総持院の大伽藍を造営、弘咋大徳を招き開祖とした。二年後、天平勝宝8年(756年)9月、墾田五百町を神供料とした。

延長年間(923~931年)、日本国中の大小名神を記録した「延喜式」に載る。相模国高座郡六座中、随一である。永承4年(1049年)、後冷泉院が仏舎利を諸国の社に納めると、有鹿明神は歓喜して影向霊池に現れ、海老名の繁栄を見て舞い踊り、喜びながら社殿に戻った。

後醍醐天皇の代(1318年~1339年)、兵火で有鹿神社の社殿、総持院焼失、神領は簒奪される。

有鹿明神続縁起

称光天皇の代、将軍足利尊氏の後裔足利義満の時、応永23年(1416年)冬、寶樹沙彌は社殿の修理を成し遂げ、翌年夏に梵鐘を奉納。

正親町天皇の代、将軍足利義昭の時、総持院住職慶雄は有鹿神社の長い祭祀の断絶に嘆き悼み、参詣の度に再興を心に誓い祈ったので、有鹿明神は天正3年(1575年)4月7日の夜に夢枕に現れ「我は川に流る霊石に宿って、今は人知れず深く池の底に沈んでいる。明日の朝、池の中から霊石を探し出し、神殿に納め、永く我を崇めるべし」と告げる。翌朝、慶雄は影向池に霊石を探し出し、一旦仏前に安置すると、霊鳥の飛行に導かれて行幸し、降りた所に霊洞があったので御神体を納めた。同年6月13日夜、夢告により翌日、本宮へ遷座し、これを毎年恒例の神事とした。この奇瑞に郷の人々は驚き、同年の秋、神社を再び修理した。

現代の有鹿史観とパンダ宮司

有鹿神社公式サイトによると、現代の由緒書は宮司の小島庸和さんの著書「お有鹿様と水引祭」である。小島宮司は他に「有鹿信仰と一宮伝承」「有鹿様の水引祭」「相模国府の所在について」といった論文を発表し、歴史、宗教、様々な面から「有鹿郷」を中心とした郷土を研究していて、これら著書は有鹿神社についての史料、神事、伝承、口伝などを歴史的、宗教的に解説している。この「水引祭」を主題とした「古一之宮説」「有鹿郷から海老名郷への地名変更説」「五之宮説」などの「有鹿の史観」を解説することにより、歴史に基づいた有鹿神社の由緒を記している。

令和2年(2020年)、有鹿神社の氏子地域は海老名駅周辺の開発によって市街化が加速的に進み、その変容は激しい。そんな中、有鹿神社ではソーシャルメディアを使った活動やテレビメディアへの露出を増やしている。その中心にあるのが「パンダ宮司」を始めとしたキャラクターたち、それを生み出している禰宜の小島実和子さん。親しみやすいキャラクターを介して少しでも神社に興味を持ってもらい、日常生活の中にいる「神様」の存在や日常という身近なことに感謝の気持ちを持つ心、そういった神道についても発信しているという(withnews)。また巫女舞や境内の美化にも力を入れており、参心殿では奉納舞を公開、花壇には季節折々の草花を植えて整備している。

現代の有鹿神社はこの二つの路線で、神社を取り巻く変わりゆく環境と神社と関わりの少なかった人々の神社に対する印象に対応している。(小島宮司のツイートを参照)

寺院と有鹿神社

総持院(そうじいん):海老山満蔵寺と号する、現在は高野山真言宗の寺院。天平勝宝6年に郷司の藤原廣政が見た有鹿明神の霊夢によって創建された。創建当初は南都六宗に属していた可能性があるが、その後、江戸時代まで古義真言宗であり、本尊を虚空蔵菩薩として有鹿明神の本地仏とした。明治の神仏分離までは有鹿神社の別当寺であった。

宝樹寺(ほうじゅじ):大章山観音院と号する、総持院末寺で千手観音を本尊とした。海老名氏の菩提寺とされ、有鹿神社の社殿を修復、宮鐘を奉献した宝樹沙弥(海老名持季)が開基ともいう。明治期に廃寺となり、現在は海老名氏代々の墓があったという場所に海老名氏霊堂が建っている。

安養院(あんよういん):稲荷山と号する、曹洞宗の寺院。阿弥陀如来を本尊とした。境内に有鹿明神の使姫が祀られていると伝わる三眼六足稲荷神社と、有鹿丘と呼ばれる経塚が残されている。

大光寺(だいこうじ):月迎山と号する、天台宗羽黒行人派修験の道場。本尊は大日如来。大光寺の修験が水引祭で神輿の先達をしたという。現在は廃寺となっていて、大日堂が跡地とされる。

総持院

宝樹寺跡、海老名氏霊堂

安養院

大光寺跡、大日堂

周辺の遺跡・史跡

『勝坂有鹿谷祭祀遺跡』:相模原市南区磯部勝坂、相模川の河岸段丘上に縄文時代中期の大集落跡、勝坂遺跡があり、その西側に隣接して鳩川が段丘を侵食して出来た谷間「有鹿谷」があります。谷には有鹿神社奥宮が祀られ、そこから南へ100メートルほどの農地で昭和30年頃に子持ち勾玉青銅鏡石製祭具などが発見されたのが勝坂有鹿谷祭祀遺跡である。「勝坂有鹿谷祭祀遺跡資料報告書」によると、遺物が多く出土したのが頭大の川原石をならべて直径5メートルの円形が作られた場所であったとしていて「神道考古学講座第2巻」では有鹿神社奥宮の湧水が近く、水霊を祀った祭祀遺跡の可能性を述べている。出土遺物の年代調査から4世紀末から7世紀後半まで祭祀が行われていたと考えられる。(※埋め戻されている。碑、案内板無し。立ち入り不可)

『有鹿遺跡』:有鹿神社本宮から南東100メートル、有鹿小学校校庭で中世の井戸遺構と溝状遺構、古代(9世紀中期~10世紀前期)の窪地状遺構から土師器、須恵器の坏類の出土、窪地状遺構の下層から弥生時代から古墳時代の土器片が発見されたのが有鹿遺跡である。「No88(有鹿)遺跡発掘調査報告書」によると、井戸遺構と溝状遺構の年代は近隣の上郷遺跡と同時期と見られ、隣接する海老名氏館とされる御屋敷遺跡との関係性も注目されるという。その下層から見つかった窪地状遺構は沼地と想定され、発見された「天」の意味を持つ則天文字が墨書された土師器坏などから水辺の祭祀の可能性を読み取ることが可能としている。窪地状遺構の底層から見つかったのは古墳時代の赤彩された比企型坏や高坏の欠片等、弥生時代の土器は壷口縁部の小片という。(※埋め戻されている。碑、案内板無し。立ち入り不可)

『上郷遺跡』:有鹿神社本宮から南東に280メートル辺りで見つかった中世墓地遺構である。水田、畑として利用していた土地の下、40~65センチメートルに大量の拳大河原石が広がっていて、その上に五輪塔宝篋印塔板碑といった石塔が散乱、それに混じって灰、木炭片、火葬された骨片、骨壷として使われた陶器片が発見されている。板碑は非常に多く、その刻銘から鎌倉時代後期から室町時代中期にかけての火葬場、墓域であったとしている。(※埋め戻されている。碑、案内板有り。五輪塔のレプリカ有り)

『御屋敷遺跡』:有鹿遺跡から南へ約100メートル、海老名氏館跡と伝えられる字名「御屋敷」にある遺跡である。宅地開発のため試掘調査の結果、水田遺構、杭列、井戸遺構、東西に走る溝状遺構等が検出されている。「No88(有鹿)遺跡発掘調査報告書」によると遺構年代は中世から近世が主体だが、溝状遺構は古代末期に測る可能性があるという。あくまで試掘調査のため「No43(御屋敷)遺跡」としての一般向け調査報告書は作成されていない。(※埋め戻され、宅地開発されている。碑、案内板無し。立ち入り不可)

『河原口坊中遺跡』:有鹿神社本宮の南西側、自然堤防上に沿って広がる河原口坊中遺跡は近代から縄文時代までの複合遺跡である。第6次調査までの段階で、明治期のレンガ造りの酒造所。近世の井戸跡を伴う耕作地。中世、古代、古墳時代、弥生時代の断続的な集落跡。古墳時代、弥生時代の方形周溝墓。縄文時代の土器などが発掘されている。特に際立った発見として弥生時代では旧河道から見つかった保存状態の良い木製農具、県内三例目の小銅鐸板状鉄斧卜骨、他地域の特徴が見られる土器(久ヶ原式、三河の欠山式、西遠江の伊場式など)が出土。古墳時代では古墳周溝近くで複数の小石室から副葬品とみられる碧玉製の管玉水晶製の切子玉、ガラス小玉が、竪穴式住居跡からは祭祀に使われたと思われる大量の臼玉石製模造品が出土。中世では神奈川県初の事例で掘立柱建物址の柱穴に密教法具の金剛盤が埋納されていた。(※令和2年10月時点、第8次調査中、立ち入り不可)

『安養院有鹿丘経塚』:稲荷山安養院の本堂裏にある塚で、三眼六足稲荷社の元地と伝わる。「日本考古学年報第12号」によると東西6~6.5メートル、南北7~8メートル、高さ1メートルの塚で、昭和34年(1959年)8月27日から9月4日までの調査で大量の川原石の中に一字一石の文字が墨書してある経石を発見し、その文字によって「観音普門品第二十五」の2000余字の文字を書いて埋納した経塚であり、大化田制による墾田以来の海老名耕地における蝗の災害を除け、また治水の祈祷のためにこの河畔におこなわれた行事であるとしている。「海老名歴史さんぽ」では中世期の遺跡としている。(※埋め戻されている。碑有り、案内板無し。立ち入りは安養院の許可が必要)

『四大縄遺跡』:本宮から南方600メートルで宅地開発に伴い、古い条里制と考えられる海老名耕地を発掘調査した遺跡。中世から近世の水田遺構が確認されている。(※埋め戻されている。碑、案内板無し。集合住宅敷地内のため公園以外の立ち入り不可)

地名・伝承地・言伝

有鹿郷」は「和名類聚抄」に見える大宝元年(701年)に制定された大宝律令により施行された国郡里制霊亀元年(715年)に里を郷に置き換え、郷の下に里を置くとする国郡郷里制になり、和名類聚抄が編纂された承平年間(931年〜938年)頃には律令制の地方行政の地域として有鹿郷が存在していたことを示している。その名称から現在の有鹿神社周辺(現在の海老名市、綾瀬市)に比定されている。

海老名郷が地名として初めて史料に現れるのは文永元年(1264年)「海老名仏然所職等譲状案」の相模国下海老名郷だが、保元の乱(1156年)を描いた「保元物語」に海老名源八季貞の名前が見え、「吾妻鏡」では治承4年(1180年)8月23日の石橋山の戦いで海老名源三季貞が大庭側として名前が挙げられている。「武蔵七党系図によれば海老名季貞は横山党小野氏に連なり、「新編相模国風土記稿」では海老名に在住して海老名氏を称したとしていることから、これを踏まえると平安後期には海老名という郷名が使われていて、その後、下海老名郷と分割されたと考えられる。上海老名郷については「鷹倉社寺考」に天文18年(1549年)の事として上海老名郷有鹿社という記述をされている。江戸時代後期には河原口村、上郷村、中野村、中新田村、社家村は海老名郷に属し、有鹿神社が五村の総鎮守であるとされ、海老名下郷に属するのは門沢橋村と「新編相模国風土記稿」に記されている。

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