浅井長政と戦うことになった織田信長軍は、6月19日に北近江に侵攻し、小谷城を見上げる虎御前山城に本陣を据え、小谷城下を放火して回りました。しかし、堅固な山城を一時に攻め落とすのは無理と判断し、24日には後方の横山城を包囲、信長本人は龍ヶ鼻に本陣を据えています。
28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、それを象徴するのが遠藤直経の討死です。
直経は信長本陣深くまで攻め入り、味方の首級を一つ提げ、織田勢に偽装して信長の首をねらいましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討死したと伝えられています。現在、直経の戦死した場所には、その墓が残りますが、信長本陣の「陣杭の柳」の後方300メートルに当たり、織田軍が一時は後退し劣勢を強いられていたことを示すと考えられます。
信長本陣と家康本陣(東上坂町)の
案内看板
看板設置時の
幟旗等
(北郷里街づくりセンター前)
看板設置時の
幟旗等
(北郷里街づくりセンター前)
北郷里まちづくりセンター