雨どいで遊ぶ

3本で1200円。ホームセンターの資材売場で雨どいを買いました。園庭にそのまま放置しておきます。大人の私がするのはここまで。ここから先は子どもに任せます。

水遊びをするために外に出てきた子ども達が雨どいを見つけました。初めはどうしたらいいか分からず、持って振り回しているだけでした。

そのうち誰かが、「これに水を流すと面白そうだ」と気付きます。縁側に雨どいの端を掛けて、バケツの水を流してみます。ついでに葉っぱや蝉の抜け殻も流してみます。下にたらいを置いて水がたまるようにしました。

誰かが雨どいをつなぎ合わせて長くしてみます。「おもしろい!」それを見ていた別の子が、あり合わせのおもちゃで水の通り道をさらに長くします。場所が狭くなりました。広い場所を求めてローラー滑り台に引っ越し、水の道はさらに長くなります。

何の変哲もない塩化ビニール製の雨どいです。子どもが遊ぶために作られたものではありません。「そんな物で遊ぶなんて」と眉をひそめる方がいるかしれません。でも実はそうした物の方がおもちゃとしては優れていると思うのです。

初めから「これはこうして遊ぶ」と決められたおもちゃは、残念ながら三流です。応用が効かないので飽きるのが早い。おまけに想定外の使い方をするとすぐに事故につながります。

ところが世の中には「これはこうして遊ぶ」と、予め「楽しさ」がパッケージ化された遊びが溢れています。テレビゲームを初めとして、おもちゃ屋に並ぶおもちゃはほとんどがそうです。アトラクションがたくさんある遊園地だってその類です。

こうした遊びにどっぷり浸かっていた子は、雨どいを見つけても遊ぶことは出来ないでしょう。だって雨どいは遊ぶものではないのですから。雨どいで遊ぶためには、日頃から楽しさを自分で見つけにいくような体験の厚みが必要です。

大人の方にも責任があります。良かれと思い(あるいはただ商売のために)子ども達にせっせとパッケージ化された遊びを提供し、その一方で「これはおもちゃじゃありません」「そんな使い方してはいけません」と言って創造の芽を摘み取っているのですから。

「子どもは遊びながら学ぶ」とよく言います。パッケージ化された遊びばかりしている子どもはそのうち学習するでしょう。「楽しみは与えてもらうものだ」と。でも本当にそれでいいのでしょうか。遊びのお膳立てはして貰えても、人生のお膳立ては誰もしてくれないのに。

雨どいで遊んでいるたからっ子達を見て私は心強い思いがしました。彼らはきっと学んでいるはずです。「人生は自分で切り開いていくものだ」と。