読書は喜び

『おやすみなさいのほん』という絵本があります。三日月にもたれて眠りこける赤ちゃんの絵が表紙です。ページをめくると、心の奥から洪水のようにあふれ出てくるものを感じます。部屋の薄明かり。母親の匂い。暖かい毛布の感触。

幼い頃、母は毎晩のように枕元で絵本を読んでくれました。そのうちに文字を覚え、自分でも読めるようになりました。それでも母に読んでもらう絵本は、自分で読む絵本とはまったく違う色彩を帯びていました。たとえそれが全く同じ絵本であっても。

回数こそ減ったものの、小学生になっても読み聞かせは続きました。幸いにしてわたしの母は「あなたはもう自分で読めるのだから、自分で読みなさい」とは言いませんでした。母は喜びを分かち合うことで、私に読書への扉を開いてくれたのです。

おかげで私は、読書を義務だと感じたことは一度もありません。


「自分で読めるようになったら、もう読んであげる必要はない」 そんな主張をある雑誌で目にして驚きました。いつまでも読み聞かせをしていては、子供の自立を妨げるというのです。

そんなことはありません。読書を技能という側面でしか捉えないのは、悲しい考え方です。「自分で読める」という目先の成果にとらわれて、大切なことを忘れないで欲しいと思います。読書は文章を読解して知識を得るためだけにあるのではありません。

読書とは、まずもって人生の喜びであるはずです。絵本の読み聞かせは、親子でその喜びを分かち合う行為にほかなりません。


私が幼少期を過ごした昭和40年代は、日本の絵本文化が一気に花開いた時代でした。今でも読み継がれている『ぐりとぐら』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』が生まれたのもこの時代です。当時は貴重だった絵本をはさみ、どれだけの親子が豊かな時間を育んできたことでしょう。

いつのころからか、絵本を読んであげることが「読み聞かせ」という名前で呼ばれるようになりました。この名前が広く使われるようになって30年くらい経つでしょうか。

流行りの子育て理論の多くは、伝統の否定で耳目を集めようとします。「いつまでも読み聞かせない」という考えも、「読み聞かせ」に対するアンチテーゼとして生まれたのかもしれません。

しかし流行りはいつしか消えるものです。決して消え去ることがないのは、絵本とともに親子で過ごした時間の記憶です。


今宵はぐっと冷え込むそうです。暦では霜降(そうこう)に入ったと天気予報がいっていました。夕飯を早目にすませたら、むかし読んだ絵本を引っ張りだし、お子さんと一緒に布団にくるまってみてはいかがですか。