自由に遊べ!どんどん学べ!第2回

平成29年5月26日号

遊びとは、

劣ったもの

本気でないもの

真面目でないもの

趣味

暇つぶし

おふざけ

ようするに、勉強や仕事の対極にあるもの

わたしたちはふだん、遊びというものをだいたいそんなふうに捉えているのではないでしょうか。

しかし、実はそうではないという見方もあります。 ホイジンガというオランダの歴史家は、「人間とは 遊ぶ存在」(ホイジンガ著,高橋英夫訳『ホモ・ルー デンス』中央公論社,1963)であると喝破し、人間 のあらゆる営みの根源にあるのは遊びなのだと主張 しました。

人間が長い時間をかけて作り上げてきた文化は、複雑で洗練された形をしているけれども、その核にあるのは、人間が太古から行っていた遊びとなんら変わるところがない。

つまり「遊びは文化より古い」のだといいます。

ホイジンガの視点は、わたしたちがぼんやりと抱い ていた常識とは180度違うものですが、遊びというものを考える上で重要な示唆を与えてくれます。

芸術、スポーツ、研究、ビジネス、その他「大人がする仕事」、それが何であれ、遊びとはかけ離れた難しくて高尚なことをしているつもりでも、実は本 質的には遊びと全く変わりありません。

わたしたちは誰しも、遊びから卒業して大人になっ たような気でいますが、そうではなかったのです。

だとすれば、子供の遊びを見る視点もおのずと違っ たものになるでしょう。人間の営みの本質は、実は子供の遊びの中にもっとも純粋なかたちで見いだすことができるのかもしれません。

そこにあるのは「たかが子供の遊び」などではな く、生きることの本質に関わるものだと言ったら言 い過ぎでしょうか。


園庭に一台の三輪車があります。座席の後ろにあい た穴に小さなシャベルが差し込まれ、そこに二輪カ ートが引っ掛けられています。

シャベルが軸の役割をするので、三輪車をどんなに ジグザグに走らせても、二輪カートが外れることはありません。

子供たちは、砂を積んだり、時には友達を乗せたり して園庭を走り回っています。

これは、たからっ子が生んだ素晴らしい発明です。 この絶妙なかたちにたどり着くまでには、おそらく多くの創意工夫と試行錯誤があったことでしょう。 本来の使い方とは違うため、シャベルを壊してしま ったり、怪我をしてしまったりしたこともあったで しょう。

それでもわたしは、その過程に最大級の賛辞をおくりたいと思います。

大人が「よりよく生きる」ために行っている様々な ことも、本質的にはこの三輪車の遊びと同じなのではないでしょうか。

冷蔵庫の中にたまたま残っていた材料だけで、とびきりの晩御飯を作る。

保育園の送迎や行事に対応するために、夫婦で分刻 みの役割分担をして乗り切る。

突発的なトラブルに対処するために、部署を横断して調整を図り、問題を解決する。

技術を生み出したり組み合わせたりして、見たことのない新しい製品を開発する。

知らず知らずのうちにわたしたちは、子供の頃の遊びの続きをしながら、自分の人生を切り開いてきた のでしょう。

「よりよく遊ぶ」とは「よりよく生きる」ことに他ならない。

教育はそれを実現するためにある。

これが、わたしたちが掲げる「遊び中心」の根底に ある考え方です。

最後にもう一度ホイジンガの言葉を引きましょう。

「われわれ人間はつねにより高いものを追い求める 存在で、(中略)そういう努力を実現するために、人間に先天的に与えられている機能、それが遊びな のだ」(前掲書)