子供らしさを愛する

「給食をきちんと食べないから。制止してもおしゃべりをやめないから。」1歳児の口を粘着テープでふさいだ保育士の言い訳です。三月三日付けの新聞で報道されたのでご存知の方も多いでしょう。

1歳の子どもです。好き嫌いや食べこぼしもあります。ようやく言葉が出始め、おしゃべりをするのが楽しい時期です。きちんと食べられないのも、おしゃべりを止められないのも当然です。むしろその子は、子どもらしい子どもだと言えるでしょう。

日本はかつて子どもに寛容な人で溢れていました。日本を訪れた西洋人が驚くほどだったといいます。子どもとはそもそも、騒がしく、絶えず動き回り、わがままで、分別が無く、器用に手足を動かせないものです。子どもが本来具えているそういった「子どもらしさ」を無条件で愛せる人が、この国にはたくさんいました。

今ではどうでしょうか。電車の中でちょっとでも騒げば注意され、おしゃれなレストランでは門前払いです。子ども連れの親は、どこへ行くにも周囲の視線を気にしながら肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。

「大人の領域に子どもが入るな、入るなら大人の秩序を守れ。」いつしかそんな主張が正論と言われるようになってしまいました。

子どもへの愛情が無くなってきた訳ではないようです。子どもへ注ぐ眼差しの比重が、「教育」という切り口へと移ってきたのです。「教育」という観点から見れば、「子どもらしさ」は矯正されるべき不完全さでしかありません。「教育」とは、一面で「子どもらしさ」を削り取っていく作業でもあります。

私たちは、子どもの成長を強く願う一方で「子どもらしさ」を慈しむ心を失いつつあるのではないでしょうか。

もはや「教育」を抜きに保育を語ることはできません。しかしそれだけで子どもと関わることが、子ども時代というかけがえの無い人生の一時期を生きるこの「小さな人」にとっての幸せであるかどうかは疑問です。もっと恐ろしいのは、「教育」を言い訳にした「管理」や「支配」が行われる時でしょう。

「時には薄目で子どもを見てあげることも大事よ。」

保育歴47年の富子先生からしばしば聞く言葉です。

熱烈な視線を注ぐだけでは子どもも自分も疲れてしまいます。たまには「子どもらしさを愛する」ことを優先しましょう。子育てをする私自身にも言い聞かせています。