い・れ・て

新しいお友だち、お母さん、お父さん。ようこそ、たからほいくえんへ。先生もクラスのお友だちも、あなたが来るのを楽しみに待っていました。

園庭の椋の木もみなさんを歓迎するように、新しい葉をつけはじめています。しばらくすると、かわいい花を咲かせてくれるでしょう。

あなたの職場にも新人さんは来ましたか? ひょっとすると、あなた自身が新人さんかもしれませんね。入っていくほうも、迎えるほうも、同じように心が浮き立つ季節です。


遊んでいる子供たちを見ていて、おもしろいことに気がつきました。オニごっこにしろ、おままごとにしろ、子供の遊びは、参加している子といない子の境界が明確ではないということです。

はっきりと自覚して参加する子もいれば、なんとなくその場にいるという形で参加している子もいるようです。

途中から「い・れ・て」と入ってくる子もいます。許可を求めているわけではありません。「オレ(アタシ)、入ったからね」という宣言です。だから「や・だ・よ」というのは許されません。たまにそんな意地悪をいったとしても、まわりの子がだまっていません。

かと思うと「ぬーけっぴ」といって勝手に抜けることもあります。5歳児のあいだに1歳児が訳も分からずちょこんと座っていることもあります。出入りはかなり自由。参加の仕方もそれぞれです。


大人社会ではこういうあいまいさは歓迎されません。彼我の線引きが明確でないとさまざまな支障が生じてしまいますから。住民登録をして会社に籍を置き、会員名簿に名を連ねて、LINEのグループを作る。わたしたちの世界は「こちら」と「あちら」をはっきり分けることで成り立っているのかもしれません。

ただしこれが行き過ぎると、「おまえは入れてやらない」とか「うちだけよけりゃいい」となってしまいます。世界中で起こっている問題の多くは、突き詰めればこれが原因ではないでしょうか。

とすれば、子供の集団遊びに見られる線引きのあいまいさは、必ずしも未熟さの表れではないような気もします。

すべての者にあらかじめ居場所が約束されている。誰であれ互いにそこにいることを認め合う。あなたにとっての保育園という場所も、そうでありたいと願っています。

窓の外から声が聞こえました。新人のA先生が誰かを抱っこしています。新入園児のB君です。お部屋に入るのが嫌だったようです。しばらくすると泣き声は聞こえなくなりました。ふたりは何やら小声で話しています。

大丈夫、ゆっくり慣れていこう。ここはたしかに君たちの居場所だ。