拝復
先般は、沢山の資料をお送り頂き、誠にありがとうございました。
平素、不勉強なので、驚くようなことが多くありました。
自分の考えをまとめるために、感想文としてお便りさせて頂くことにしました。
私は、大学時代、理学部で物理学を学んでいたのですが、ある時、ある本屋のある棚が非常に気になって行ってみました。そこには、高橋佳子の『新創世紀』シリーズがありました。これだ、とすぐに分かりました。何かで書評でも見ていたのかも知れません。そこには、それまで聞いたこともないような話が書いてありました。死後の世界・霊魂の世界です。確かに、そのような世界があるなら、「死」は、通過点に過ぎず、過剰に恐怖するようなものではなくなります。安心して人生を全うできる、というものです。著者は、明らかにそのような世界がある、と報告していて、それが全部、ウソ・妄想、とは思えませんでした。
しかし、私には、それを「確かめる」方法がありませんでした。信ずるか、信じないか、しかないのです。
私は、ニーチェの助言に従うことにしました。「世界の背後を説く者を、信ずるな」。
近年、浄土真宗の葬儀に出会うと非常に強い違和感を感じることがあり、それは、曹洞宗の葬儀でも感じることがあります。
その違和感というのは、「故人は、天国で笑っていることでしょう」というようなことを遺族挨拶でしばしば言われることです。
死んだら、極楽なり天国なりに往生する、ということを、非常に原初的なレベルで、しかも当然のこと、当り障りのないこと、として、語られるのです。
浄土真宗は、仙尼外道そのものの邪宗になっているなあ、と感じています。
しかし、このような見は、浄土真宗に限った話ではなく、現代において、非常に一般化しているのかも知れません。
昔、松任谷由実が「リインカネーション」という作品を作った時、驚きました。
こんな人まで輪廻ということを信じているんだ、と思ったのです。
ダライ・ラマの転生の子ども探しなど、信じられないような話に思えますが、チベットでは本気でやっているのでしょうし、日本でもそれなりに受け入れられているのかも知れません。
私は、仏教というものをきちんと学んだことがなく、入門書を読んでも、何だかさっぱり、分からないのです。
しかも、坐禅修行などを始めた途端に、書物を読むことを良くないことのように思い込んでしまったので、益々、勉強することがなくなってしまいました。
本覚思想批判の頃は、何だか興味深く思えて、少し本も読んでみましたが、どうしても何を問題にしているのか、分かりませんでした。
お送り頂いた論文を拝読して、非常に驚きました。
色々、議論は尽きないのだなあ、ということです。
特に、輪廻について、どう考えたら良いのか、切実に困っているのですが、宗門としても、何だか明確な最終結論が出ているようではないので、驚きました。
トウ隠老師も「大乗禅」誌で、中有について詳細に論じておられていて、どういうことなんだろうなあ、と思ったことがあります。
どうでもいいじゃないか、というのが本音なのですが、人に説く時にどうすれば良いのか、困るのです。
先日、葬儀があり、導師を勤めました。その通夜の法話で、「不思議」の話をしました。
「千と千尋の神隠し」というアニメの主題歌に「いつでも何度でも」という歌があるのですが、その歌詞に
「生きている不思議、死んでいく不思議」という一節があります。
不思議というのは、思議しない、思議できない、ということ。頭の働きではないもの。
生きていること、死んでいくこと、これが不思議だ、というのです。
この「不思議だ」と思うことが、極度に大切なところだと思っています。
具体的には、例えば、今こうして呼吸している、この呼吸。これはナンなんだ?
これはそのまま禅に直結していて、禅そのままの話です。
一切の生きていること、そして、死んでいくこと、それがそのまま禅修行そのものなのです。
というような話をしたわけです。
輪廻転生、というものも、「不思議」ではないか、と思います。
人間の知覚・知見の範囲で、小賢しく説明しようとすると、とても滑稽なことになるのだと思います。
人間は極度に限定された存在です。
見る、と言っても、400nmから800nmの電磁波を「色」として識別しているだけです。
聞く、と言っても、20Hz から 20kHzの空気の振動を「音」として識別しているだけです。
色も音も、人間には識別できないものが、世界には満ち満ちています。
一水四見の話もあります。
同じものでも、主体が変われば、全く違ったものになってしまうわけです。
色も音も、主体によって全く違っているはずです。
日常生活のレベルから8桁くらい小さな原子の世界になると、日常の感覚は全く通用しなくなります。
「粒子」であることと「波動」であることが、両立してしまう世界なのです。
人間には、全く「イメージ」することは出来ません。
この物理的世界ですら、ちょっと大きさが小さくなっただけで、人間には全く想像することが出来なくなるのです。
イメージすることは出来ませんが、その極微の世界は、量子力学によって正確に記述され、推論され、仮説を検証されるのです。
(そして、原子力という「力」を引き出し、原爆を作りました。)
更に物理学では、この世界を多次元の存在として、記述し、理解しようとしています。
全く凡人には理解の及ばない話ですが、数学的に記述されるだけで、人間的尺度の話ではないのです。
とすると、霊魂だとか輪廻だとかと言っても、通常の人間の常識的な認識の範囲で説明しようとするのは、到底、無理であろうことは想像に難くありませんし、敢えて説明すれば、トンチンカンになる危険性が高いです。
釈尊は、世界を「説明」することが目的だったわけではないはずです。
自己の苦しみ、迷い、葛藤、疑団、そういうものを「解決」したかったのでしょう。
そして、人々の迷い、苦しみを「解決」するために、教えを説いたのでしょう。
それは、世界を説明するためのものではなかったはずです。
そのような教説から、世界観や輪廻観というものを抜き出して、釈尊が説明した世界や輪廻とはこういうものだ、という話には、非常に違和感があるわけです。
だから、そんなことどうでもいいじゃないか、と感じてしまうわけです。
世界を「説明」してしまうと、もっと重大な問題を発生してしまいます。
日の丸を「赤い」と見てしまうと、真実を逃してしまいます。
死んだら天国に行く、と考えてしまうと、自己と本気で向き合うチャンスを逃してしまいます。
「赤い」と見た瞬間に、「そのもの」が覆い隠されてしまい、「赤い」に乗っ取られ、摩り替わってしまうのです。
「赤い」は、頭の中で構築された仮想物に過ぎません。
それを真実と思い込んでしまうのです。
そして、そのような仮想物で構築された仮想物の世界を人生と思い込んでしまうのです。
そうなると、迷いも苦しみも仮想物です。
そのような仮想物の世界を突破する道が禅であり、その道は一点突破で十分なのです。
仮想の世界を一点突破したら、一気に仮想物の一切が瓦解してしまうことになります。
「死んだらどうなるのか」
この問いに、輪廻転生のお話で応えたのでは、禅になりません。
「死んだらどうなるのか」と本当に対峙して、本当に自己の死に参じた時、今ここに在ることが明らかになるのです。
死んだら天国へ行く、という旅程表を見ていると、今ここに在ることに目が行かなくなります。
事実がどうか、という問題ではないと思うのです。
原子の世界すらイメージ出来ない人間に、どうして死後の世界がイメージ出来るでしょうか。
殊更にイメージさせれば、おそらく、大間違いを犯すことになるでしょう。
「不思議」に留まるべきだと思います。
「死んだらどうなるか」は、死んでみれば分かることです。
だから「死んだらどうなるか」に本気で体当たりする必要があるのです。
その時、「死んだらどうなるか」という問いの元が解決することによって、
「死んだらどうなるか」も解決することになるわけです。
それが禅の方法論でしょう?
それが仏教というものではないでしょうか。
2012年8月19日
幽雪 九拝