T先生
広島県宗務所現職研修会では、『学道用心集』について、貴重なご講義を頂き、誠に有り難
うございました。
「学道」に対して誠実に、直向きに取り組まれる先生の御姿に感銘を受けました。
私自身の考えをまとめる意味で、感想を書き連ねさせて頂きます。
「苦」こそ全ての出発点です。
ご講義では、苦は「願望」と「現実」の「ギャップ」と説明されていました。
この説明は、わかり易いので万人受けしそうですが、本質ではないと思います。
良寛さんの歌に
いかなるが苦しきものと問うならば、人を隔つる心と答えよ
というものがあるそうです。ネットの情報なので、出典も真偽も分かりません。
その一方で、飯田トウ隠老師の著作に、次のようにあります。
如何なるか苦しきものと問ふあらば物をへだつる心とこたへよ(『参禅秘話』)
人か物かの違いがありますが、ポイントは、「隔て」です。
この「隔て」とは何なのか、ということが極度に重要なところです。
良寛さんの歌を取り上げている人は、「差別」「人権」というような視点から「苦」を捉えて
いるようでした。もっともらしいのですが、それは究極的な本質ではありません。
トウ隠老師がこの歌を殊更に「物をへだつる」と作り替えられているところに急所がありま
す。
「物」を「隔てて」いるものとは何なのでしょうか。
それは苦の発生の起源であり、人間の「業」と言って良いものだと思います。
それが、「言語」です。
砂糖を「甘い」と認識し、日の丸を「赤い」と認識する時、砂糖の「味」そのもの、日の丸
の「色」そのものから隔たってしまっているのです。
「物そのもの」と、言語表現された概念は、根本的に違うものであるにもかかわらず、それ
を混同してしまい、そして、「物そのもの」を抜きにして、言葉・概念を「実体」と勘違い
してしまっているのです。
そのようにして、人生全般の一切が、言語によって、「物そのもの」と隔たったものになっ
ていて、隔たっていることにも気づいていない状態なのです。
そして、頭の中で言語によって構築された世界(仮想空間)の中で混乱し、苦しんでいるの
が人間です。
「願望」と「現実」のギャップという時の「願望」も「現実」も共に言語によって頭の中に
構築されたものであって、共に混乱に混乱を重ねているに過ぎないのです。
これが「苦」なのです。
人間は、言語によって、複雑な思考を可能とし、時間空間を超えて、それを他者に伝達する
ことを可能にしました。そして、急激に文明を発達させることに成功したわけです。しかし、
同時に、言語によって頭の中に構築された仮想世界の中で混乱し、苦しむという「業」を生
み出したわけです。
「始めに言葉ありき」は、人間誕生の瞬間であり、それは同時に人間の原罪でもあるわけで
す。
従って、苦からの脱却は、言語からの脱却ということになります。
脱却すると言っても、言語を捨て去るということではありません。
言語によって、物そのものから隔たっていることに気づくことです。
一度、言語という隔て・フィルターを外して、物そのものに触れる(築着磕着)ことです。
その上で、言語を自在に使うことが、趙州禅師の言われる「十二時を使い得たり」だと思い
ます。
そのための方法論が坐禅です。
「念」は言語によって生成されています。
「念起即覚、覚之即失」とは、言語を離れて、物そのものに返ることです。
そのような努力が「久久亡縁、自成一片」の「久久」であり、そこで初めて「亡縁」という
事があり得るわけです。
人間は、進化の過程で言語を獲得したことによって文明を発展させることが出来たのです
が、それは、同時に頭の中に仮想空間を構築することであり、その仮想空間の中で空回りし、
混乱して、苦しむという業・原罪を背負い込むことになったのです。
坐禅して、言語によって構築された仮想空間を超克する努力は、脳に新たな進化を促すもの
だと思います。
これは、人類の根源的な救済であり、大いなる光明です。
合掌
令和元年11月23日
広島県竹原市忠海中町3-8-10
海蔵寺 副住職
浅田幽雪 九拝
yusetsu@gmail.com