karupapa21sei氏へのメール2
門前で吠える虎の威を借る狐に告ぐ
karupapa21sei様
いきなりケンカ腰のようではありますが、karupapa21seiさんを評するに一番適切な表現が「門前で吠える虎の威を借る狐」だと思いました。長いお返事でしたが、ようやく終結したようなので、私からの応答をさせて頂きます。
ただし、重ねて確認しておきますが、これは、井上希道を代弁するものではありませんし、井上希道の了解も確認も取っておりませんし、少林窟門下という立場でもなく、単なる一修行者として申し上げるのみです。
まず、老師との関係など、お互いの状況が違いますので、私のこともご説明しておきます。
私にとっては、雪渓老師も希道老師も、他の老師方も、参禅指導者であって、箇事究明に関することだけの審判者です。
karupapa21seiさんのように、
> 原田老師とは親子のような感じで接しています。
> 「年に数回は遊びに来てください」と言われています。
というようなスタンスで接することはありませんし、できません。
つまり、箇の事以外のことを尋ねるということは、有り得ない話です。
また、
> 浅田様からも少林窟井上希道老師から指導を受けた僧侶、お弟子さん、参禅者
> に当Blogを紹介頂き、
> コメントを書くようお願いして頂きたいのです。
とのことですが、貴サイトが修行の助けになるのであれば、紹介することもあるかも知れませんが、
Blogなど読んでも修行の資助とはなりませんので、人に紹介することはありません。
ましてや、コメントを書くなど愚の骨頂です。
(1)印可のこと
> 「他人の印可の事」が気なるのであれば、浅田様は発心寺で修行されたのです
> から、これも直接 原田老師にお尋ねになればよろしいことです。
> 気になるのであれば、実名もお尋ね下さい。
とのことですが、印可のことは、老師の名前を出して権威付けをして、悟ったようなことを言う人には、一番、手っ取り早い質問なので、言ってみたまでです。
はぐらかされるところをみると、印可のようなものは無いということですよね。
雪渓老師は、
> 修行者には、徹底した「己事究明」を求め、一切妥協はしません。
> 修行者が手を抜きますと「貴方がそれでよければ、それでどうぞ、、」と突き放します。
とのことですが、karupapa21seiさんも「貴方がそれでよければ、それでどうぞ、、」の類ではないのか、と私は疑っているわけです。
「貴方がそれでよければ、それでどうぞ、、」ではない、という証拠があるなら、それを見せてほしいわけです。
それができないなら、「虎の威を借る狐」と言わざるを得ません。
雪渓老師の名前を出さずに、karupapa21sei自身の言葉として言うだけなら、何を言われようが、お好きなようにすれば良いことです。
しかし、「虎の威を借る」ことが問題なのです。
また、
> 従って、原田老師から「よろしい」と言われる方は、曹洞宗の指導者にも少ないようです。
とありますが、私は、雪渓老師が「よろしい」と言った人がいるとは聞いたことがありません。
karupapa21seiさんが推奨している指導者たちも、雪渓老師から「よろしい」と言われたとは、思えません。
それから、karupapa21seiさんの実名なんて、私は興味ありません。karupapa21seiは、karupapa21seiです。
(2)大智老尼のこと
> 10年ほど前に、インターネットで仏法の話をする許可を頂いた当時、
> 「 おかしな仏法を説く曹洞宗僧侶を批判しています 」
> と原田老師には申し上げてあります。
> その当時から「少林窟井上希道老師」の事は、話に出ていました。
> それから「少林窟 大智老尼」の事も、原田老師との話しに出ていました。
> 原田老師のお話しは簡単でした。
とありますが、いかにも雪渓老師が井上希道や大智老尼に対して否定的なことを言われたかの如く思わせるような表現になっていると思います。
誤解を招きますから、どうせここまで書いたのなら、雪渓老師がどう言っていたのか、ということまで具体的に書かれてはどうでしょうか。
雪渓老師が相手なら、井上希道も乗り出してくるかも・・。
ただし、禅者の言うことは、右で言うのと左で言うのとでは、全く違うかも知れないので、うっかり言葉に乗ると怪我をするかも知れませんが。
雪渓老師と大智老尼の関係も色々あったようですから、お互いにどう評価していたのか、興味深いところです。
大智老尼は、敬宗老師をも蹴散らしていたような話を聞いていたので、私は、敬宗老師に特に関心を持つことがなく、相見する機会を持つことがありませんでした。それはちょっと残念なことだったと思っています。
(3)質問について
> 「少林窟禅道場」掲示板に書き込みをした当時も井上希道老師はホームページ
> を開設し、インターネット上に「法話」を流していましたので、ならばインターネット上での質問
> にもお答えになる立場にあるのでは、、と考えていました。
とのことですが、少林窟道場のホームページを開設しているのは、実際上は井上希道ではありません。
弟子たちが、井上希道の許可の下で運営しているだけです。
まして、井上希道がネット上の掲示板なんかを見るはずがありません。
しかし、質問が寄せられれば、きちんと答えておられます。
http://www.geocities.jp/shorinkutu/sodo/situmon.html
最近は、そういう質問が少なくなっているので、もっと質問する人がいれば良いのに、と私は思います。
特に「風」さんの質問は面白かったです。
http://www.geocities.jp/shorinkutu/sodo/rei.htm
「風」さんは、手当たり次第に仏教関係のサイトに同じ質問をぶつけたようです。
その回答集だけでも面白いサイトが作れるだろうと思いました。
(4)「信」について
> 【自らを正師とし、正師と信じ、理屈を挟まず、正師の言うと通りにやれ、出
> 来ないのは信じる力が足りない、只信じて行ずることが修行】
> と「信」を参禅者・弟子に強調・強要しています。
これは、どこから出て来た話なのか、存じませんが、おそらくは、誤解・曲解、あるいは、誤伝だろうと思います。
私は、井上希道がそのように「信」を強調・強要したのを聞いたことがありません。
まして、井上希道が自分のことを「自らを正師とし、正師と信じ」なんて言うのは、それこそ信じられません。
私の理解では、「正師」というものは、そういう肩書きの人がいるのではありません。
学人が師を「正師」とするのです。
師は多くいます。自分以外は皆、師であると言っても良いです。
私が、その特定の師を「正師」として帰依するのです。
その人が正師であるかどうかは、自分自身の菩提心が明らかにしてくれます。
誰かほかの人が決めてくれるのではありません。
自分自身が本気でぶつかって行って、本当に救いの道を示してくれた人なら、それが正師でしょう。
もっとも、猫でも、イワシの頭でも、石ころでも正師になり得るとも思います。
したがって、「この人たちは、正師です」なんていう紹介をしているのは、笑止千万です。
更には、
> 同じように、当Blogで指摘した事柄に対しても、井上希道老師には変化があるようです。
> 「信」の強調・強要は無くなりました。
なんて、勝手なことを言われていますが、元々、そんなことはないのだから、
「自分が言ったから井上希道が言うことを変えた」なんて、勝手な自己宣伝をするのはやめましょう。
もっともこんなことを言われるのですから、逐一、チェックを入れておられるのでしょうか?
ちょっと滑稽です。
「信」の問題は、簡単です。
疑念があると迷い続けるからです。
その時やるべきことに全身全挙するには、確信した方が簡単で、早いのです。
自分自身の心をブレさせないために、信が必要になるのです。
そのような心理的お膳立てのために、「信」を強調されるだけです。
だから、そういう話をされるのは、初心の人の最初の数日だけの話だと思います。
そのことで、カルト宗教のように言いたてるのは、「不合理」です。
修行の上で大切な3つのものとして、
「大信根」「大疑団」「大憤志」というものがある、という話を聞いたことがあります。
今、調べてみたら、白隠禅師の教えのようですね。
もっとも、karupapa21seiさんは、公案禅も「不合理」だ、という主張でしたかね?
実際に修行して、苦心している人は、「大信根」「大疑団」「大憤志」というものが大切だ、と実感していると思います。
それに対して、「不合理」だとか批判する人は、頭の中だけの空想に遊んでいる人のように思えます。
karupapa21seiさんは、白隠禅師も「不合理」だと言われるのかも知れませんが、
このように↓、井上希道だけを攻撃するのは、「不合理」であり、適当ではないと思います。
> 従って、禅に「信」を持ち込むことは「少林窟 井上希道老師」の説く禅が「不
> 合理な、似て非なる禅」である証明にもなります。
> 禅の指導者が禅修行で「信」を強調・強要するようなことは「絶対」にあって
> はならないことです。
> 禅の指導者が「信」を強調・強要することは「不合理」なのです。
> そして、禅修行ではこの「信・不信」の問題は、初歩の課題なのです。
> 結果「井上希道老師は禅修行の初歩すら解っていない」と言われてしまうこと
> になるのです。
(5)「二元相対世界」について
> 少林窟井上希道老師自身が「二元相対世界」のことが「解らない」ことに気が付きました。
> 最近の皆様の書き込みをみますに、同じく「二元相対世界」が解らないようです。
とのことですが、実を申しますと、私も何のことか分かりません。
自他を立てる、とか、ということであれば、分かるのですが、
「二元相対『世界』」とは何のことなのでしょう?
そのような『世界』があるのでしょうか。
(6)諸法無我について
> ご承知の通り、禅修行は「諸法無我」を実証することでもあります。
> ( 少林窟関係者は「禅修行は諸法無我を実証する」こと、そのものが解らないかも、、。 )
とのことですが、実を申しますと、私も「禅修行は諸法無我を実証する」こと、そのものが解らない類のようです。
私は、「諸法無我を実証する」ために修行したことなどありません。
そういう修行をしたいとも思いません。
そもそも何かを「実証」するなどということは、修行だとは思えません。
そんな人ごとのような、悠長なことを言っている人は修行者だとは思えません。
(そういえば、karupapa21seiさんは、もう「修行」はしていないんでしたっけ?)
そして、(5)と関連した話ですが、karupapa21seiさんの考えが良く分かりません。
「諸法無我」で「一切に実体はない」
一切は「身心一如」
なのであれば、
> 【煩悩・雑念を携えて生きている衆生には、真実の法が解らないから、他を見
> て、自と他と建て、比較争う「心の癖」】の他に、探し求めるべき【純粋なる「身心一如」の様子】
> があるのではありません。
> 従って、【煩悩・雑念を携えて生きている衆生には、真実の法が解らないから、
> 他を見て、自と他と建て、比較争う「心の癖」がある】時、それ以外の他を探し求めることは、二
> 元相対世界にいることになります。
という「二元相対世界」というものも諸法無我そのものであり、身心一如そのものなのではないでしょうか?
> 「諸法無我」とは対極です。
と言われていますが、そのような対立は存在し得ないように思えます。
ちょっと道元禅師の疑団に似ていますね。
「仏道をならふといふは自己をならふなり」と言われますが、私は、私たちが無条件に思い込んでいる「私」というもの、それを徹底的に明らかにすることが仏道なのだと思います。その「私」というものが、実は、無い、という驚くべき発見が、諸法無我という旗印なのでしょう。
例えば、「日の丸」は、「赤い」としか表現しようがありませんし、「赤い」と表現して何ら間違いではありませんし、「赤い」と表現しなければ人とコミュニケーションが取れません。しかし、実に「日の丸」は「赤い」のではなかった、と気づくのが修行の始まりなのです。そこから始まるのです。その気づきがなければ、修行そのものが成り立たないからです。
しかし、その気づきは、「日の丸」を「赤い」と表現することを妨げません。自在です。嫌う底の法はありません。場合によっては、「雪ほど黒いものはない」と表現することにもなります。
「私」も同じです。
karupapa21seiさんは、「私」という主語を使おうとされないようですね。「経験でもそうでした。」などという主語抜き・主体抜きの文章を書かれるので、最初、karupapa21seiさんの文法を理解するのに時間を要しました。
そういう文法に固執するのは、
諸法無我だから、「私」というものは実体の無いものである。
実体の無い「私」などというものは、存在しない。
存在しない「私」などという言葉を使うのは、「不合理」である。
というような「論理」で、「私」という言葉を「使うことができない」のではないか、と推察致します。
つまり、諸法無我という「理屈」に縛られて、御不自由なのではないか、と思うわけです。
ということになると、
karupapa21seiさんは、諸法無我を実証したのではなくて、諸法無我という理屈を頭の中で抱え込んだだけなのではないか、と疑われるわけです。
つまり、karupapa21seiさんは、実地の修行など何もしていないのではないか、とも思われるわけです。
即ち、未だ「門前の人」ということです。
それならば、雪渓老師が何もつつかないのも無理はありません。匙を投げているのです。
(7)「分かれ道」について
さて、そろそろ本論です。
しかし、karupapa21seiさんの言っていることが要領を得なくて、ピントのあった文章が見つかりません。
> 「諸法無我」「一切に実体のないこと」を実証するのに、如何なる理由をあげて
> も本来認めることの出来ない「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の入る余地のない即今
> 底、純粋、雑念、今」等の「甘え」を「作り出す」ことは、逆に「諸法無我」「一切に実体のないこと」
> を実証することから、離れてしまうことになるからです。
> それは、井上希道老師の頭の中で作り出された「楽になる、居心地がよい、着
> 眼、理屈の入る余地のない即今底、純粋、雑念、今」等が、【なるほど、と解ったような気】の「記
> 憶=思い込み=体験」として、修行者に残ってしまうことです。
> すると「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の入る余地のない即今底、純粋、
> 雑念、今」等の「記憶=思い込み=体験」が縁になり「楽にならない、居心地が悪い、着眼が
> はっきりしない、理屈の入る余地のない即今底に落ち着けない、純粋になれない、雑念が切れな
> い、今に徹せない」等とかの「記憶=思い込み=体験」が、さらに修行者に残ることになります。
> 結果、井上希道老師から植え付けられた「記憶=思い込み=体験」の輪廻から
> 修行者は永遠に逃れることが出来なくなるのです。
この辺りが問題なのだと思いますが、
要するに、「記憶=思い込み=体験」というものが残るということを問題にしているのでしょうか?
これも簡単です。
捨てれば良いのです。
それが修行です。
おしまい。
これは、ほとんど禅修行の初歩的な話だと思うのですが、
にもかかわらず、karupapa21seiさんが、何故こうも執拗に「不合理だ」とか何だとかと言い続けるのか、不可解です。
つまり、ここでも、karupapa21seiさんは、実地の禅修行をしたことがないのではないか、と疑われるわけです。
空想を巡らせているだけのように思えます。
門前で吠えているだけです。
> 「諸法無我」の実証には「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の
> 入る余地のない即今底、純粋、雑念、今」等、の【自分が作り出している】も
> のが有ってはならないのです。
だから捨てるのです。
それが修行です。
話は簡単です。
その簡単な話がこんなにコングラガッているのは、ひとえにkarupapa21seiさんが、「捨てる」ということをしたことがないからではないでしょうか。
空想の世界に遊んでいるから、【自分が作り出している】ものがずっと存在し続けてしまうのでしょう。
(8)工夫について
それで、工夫の話に戻るわけですが、
先のお便りで、私は、次のように申しました。
*************************
工夫に関して言うと、
禅修行では【様子】例えば、「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の入る余地のない即今底、純粋」とかを目標にした修行はダメです。
とありますが、確かにそれらを「目標」にしたのでは、レジャー禅になってしまうでしょうが、それらは、取っ掛かり・手段になるわけです。
*************************
それに対して、karupapa21seiさんは、その「取っ掛かり・手段」は、「正当化」「理由付け」だ、と否定されているわけです。
「取っ掛かり・手段」という表現が適切だったかどうか、ちょっと怪しく感じますが、
実際の修行の様子として、
「楽になる」
(「居心地がよい」というのは、ちょっとなじめない表現なので、省略します。)
「着眼がはっきりする」
「即今底を練る」
(「純粋」というのも、あまり私にはなじみがありませんから、省略。)
というようなことがある。それは、砂糖を舐めれば味覚が生じるのと同じで、心を明らかにしていく修行の過程で生じる自然現象です。
決して、殊更に「正当化」しているわけでも、「理由付け」しているわけでもありません。
そして、それは、過ぎ去るものです。
だから、それに拘泥している必要はないし、拘泥していてはいけないわけです。
つまり、捨てる。
本当は、捨てるも何も、全て過ぎ去って残りものなど有り得ない話ですが、記憶として残った物に取りつこうとする心の働きがあるから、殊更に、捨てるということも必要となるわけです。
そのような修行の様子を説明されたのが、大智老尼で、前回、私はこう申したのです。
*************************
大智老尼が、只管工夫について、3段階に分けて説明されていますので、参考にしてみてください。
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/irohahogo.html
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/sikankufu.htm
*************************
これに対するkarupapa21seiさんの反応は、
> それから「少林窟 大智老尼」の事も、原田老師との話しに出ていました。
> 原田老師のお話しは簡単でした。
> 浅田様も「大智老尼の只管工夫の3段階」のことを、直接、原田老師にお尋ね
> になってください。
というものでした。
如何にも雪渓老師が大智老尼を否定されたかの如く思わされる文章です。
上でも申しましたように、
誤解を招きますから、雪渓老師が言われたことを具体的に書かれるべきだと思います。
そして、前回、申しましたように、
*************************
この老尼の言説も仏法ではない、と言われるなら、おそらく永遠にあなたとご縁はないでしょう。
*************************
ということですので、
老尼の話を否定されるなら、これにて終了です。
(9)「そのまま」について
話は終わってしまいましたが、もう一つ付け足しておきましょう。
前回、私は、次のようにも申しました。
*************************
あなたの言われる「真っ暗闇をまっしぐら」も「そのまま」も、「自分が作り出す」危険が非常に高いでしょう。
*************************
これに対するkarupapa21seiさんの反応は、ちょっとひねって、
> この「甘え」を少林窟井上希道老師は自身の頭の中で「自分が作り出している」のです。
というように、修行者の修行の様子が、何と「少林窟井上希道老師が自身の頭の中で作り出している」ものだ、という話になっています。
洗脳のような話ですね。
ほとんどバカバカしい言いがかりだと思います。
本当は、もっと重大なことは、指導者が作り出したものよりも、自分が作り出したものなのです。
自分が作り出してしまったものを、それをそれと気がついて、捨てる、というのが難しいわけです。
つまり、
karupapa21seiさんの言われる「真っ暗闇をまっしぐら」も「そのまま」も、それを聞いた修行者が、「自分が作り出す」危険が高いと危惧するわけですが、
それどころか、むしろ、
karupapa21seiさんご自身が、「真っ暗闇をまっしぐら」も「そのまま」も、自分で作っている疑いが強いです。
> 「真っ暗闇」ですから、では「どうするか?」です。
karupapa21seiさんが自問されたこれに対する答えが書かれていないようです。
「真っ暗闇をまっしぐら」「そのまま」
というのが答えになるのでしょうが、
さて、それが本物かどうか?
「サッパリ解らない」と言っているうちは、まだ良いのです。
修行者が、「真っ暗闇をまっしぐら」「そのまま」を自分で作り出してしまったら、karupapa21seiさんは、どうするつもりなのでしょう。
「真っ暗闇をまっしぐら」「そのまま」というような非常に観念的なものよりも、危険の低いものが呼吸なのです。
義光老師がまとめられた呼吸法の要諦がこれです。
「息念の法」
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/sokunennoho.htm
雪渓老師の『The禅』でも呼吸の工夫について詳しく説かれていたと思います。
少林窟的な説明で、とても理解しやすかったように覚えています。(今、手元に本がないので、確認できません。)
最後に、トウ隠老師の『禅交響楽』の一節を引用しておきましょう。「第七 山上有山」の章です。
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/symphony.htm
「誰か又山上山有るを思わざるものあらんや。之を微細の流注霊亀曳尾というべけれ。故に容易に透さぬのが師家の偉いのじゃ。容易に透してもらわぬのが学人の偉いのじゃ。」
「千人の佛に供養するよりか一人の無心の道人に供養せん、とあるは、佛見、法見を勦絶せんが為なり。何と出て来ても、之が皆有心じゃと奪うて、ここに山上有山を見出さしむるのじゃ。実は無心と言う真実に到らんは容易でない。多くは皆有心造作に渉るもの許りじゃ。恐るべき事にぞある。」
平成21年8月27日
幽雪 拝