karupapa21sei氏へのメール
karupapa21sei様
こんにちは。幽雪と申します。井上希道の弟子で、少林窟道場や発心寺で修行した者です。
たまたま貴サイトを拝見致しましたところ、私の師匠がやり玉に挙がっておりましたので、何かご挨拶しようと思いました。
しかし、これは、井上希道を代弁するものではありませんし、井上希道の了解も確認も取っておりませんし、少林窟門下という立場でもなく、単なる一修行者として申し上げるのみです。
以前から、井上希道をご批判とのことですが、私は全く存じ上げておりませんでした。井上希道もあまり知らないのではないかと思いますが、もしかしたら、誰かが伝えていたかも知れません。しかし、井上希道が、あなたに何か反論したり、釈明したりすることは、一切あり得ないでしょう。あなたのように批判して来る人が時々いるわけですが、そういう人たちのことは、「勝他の念にかられている人」「他が気になって仕方のない人」という評価が下され、まともに相手にする必要も、価値もない人とみなされるわけです。
教えを請う人を相手にするだけで手一杯で、そんな面倒な輩を相手にしている暇はない、ということかも知れません。
私個人としては、昔の禅将たちのように法戦一場すれば良いのに、とも思うのですが、そんな「勝他の念」の輩などにそんな価値はない、ということなのでしょう。
それは、雪渓老師も同じはずだと思います。
以前、EOが雪渓老師に連続して大量の文書を送りつけたことがあります。その時、老師は、その郵便物の束を抱えて私の部屋へやって来られ、「こんなことをやっとっちゃいかんと言っておいてくれ!」と言われて、その郵便物を全部置いて行かれました。老師は、EOを少林窟関係者だと勘違いされていたようでした。EOの文書は、激しい批判の炎でした。EOに雪渓老師の言葉を伝えると、もうEOから雪渓老師への郵送は無くなったようでした。
雪渓老師は、あなたが井上希道や他の人たちを名指しで批判されていることをご存じですか?
拝読しておりませんが、御著の中でも酒井老師を批判されているようですね。先般、御著の営業メールを頂き、質問をしましたところ、この原稿は雪渓老師から数年前に出版許可が下りているとのお返事でした。本当に酒井老師を批判することを雪渓老師は許可されたのでしょうか?
井上希道に対する批判も仏法興隆のためになさっているおつもりなのでしょうが、一度、雪渓老師にお伺いを立てて見られるべきではないでしょうか。おそらく雪渓老師は喜ばれないと思います。
雪渓老師の弟子であることを表明し、更には、悟っているようなことを言われているのですから、師の徳を損ずることのないように活動されるべきだと思います。
さて、
井上希道の言説には「仏法から見て不合理がある」とのことですが、どのような不合理があるのか、説明されていないように見受けました。
指摘されているのは、工夫に関することだけのように思えるのですが、私が見ていない部分で、何か「仏法から見て不合理な言説」というものを指摘されているのでしょうか。
工夫に関して言うと、
禅修行では【様子】例えば、「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の入る余地のない即今底、純粋」とかを目標にした修行はダメです。
とありますが、確かにそれらを「目標」にしたのでは、レジャー禅になってしまうでしょうが、それらは、取っ掛かり・手段になるわけです。
大智老尼が、只管工夫について、3段階に分けて説明されていますので、参考にしてみてください。
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/irohahogo.html
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/sikankufu.htm
この老尼の言説も仏法ではない、と言われるなら、おそらく永遠にあなたとご縁はないでしょう。
(これで要件は終わってしまいました。あまり話すこともなかったですね・・)
また、
そのような【様子】を「自分が作り出している」
と言うことで言えば、
あなたの言われる「真っ暗闇をまっしぐら」も「そのまま」も、「自分が作り出す」危険が非常に高いでしょう。
だから多くの学人が迷うのです。
雪渓老師なら、「真っ暗闇をまっしぐらもそのままも、あなたの考えです」とか何とか言われませんか?
あなたの言われる「真っ暗闇をまっしぐら」「そのまま」は、曹洞宗が従来、主張している「只坐れば良い」というものと同じことでしょう。もっともらしい主張、あるいは、ある意味、正しい主張なのですが、それによっては、誰も解決に導かれないのです。
これまた蛇足ですが、
あなたは雪渓老師の印可を得ているのでしょうか?
雪渓老師の弟子であることを表明し、悟っているかのように言われているのですから、雪渓老師の印可証明をもらってから、看板を上げて、論陣を張られた方が良いのではないか、と思います。
そうでないと師の徳を損ずるだけです。
それは、あなたが推奨している指導者たちも同じです。
飯高さんは、雪渓老師の印可を得ているとご自分の年譜で公言されていますが、嘘だと思います。つまり、ご自分では印可だと思い込んでおられるのかも知れませんが、雪渓老師にそういう意図は無いのではないか、と推察します。正に虎の威を借る狐と言わざるを得ません。その証拠に、証拠となるべき印可証明書を雪渓老師は書いておられないでしょう?
(注記:もしかしたら、これは私の誤解かも知れません。
事実関係を確認しようとしましたが、今のところ確認できていません。
もし、本当に雪渓老師が印可状を書いておられるなら、祖師を誹謗中傷したことを深謝申し上げます。
2009.7.26 幽雪 記)
あなたに対しても雪渓老師は、印可証明書を書いていないでしょう?
道林さんも同じ。
松門寺さんに至っては論外でしょう。
義衍老師が印可証明を書いたのは、敬宗老師と雪渓老師の二人だけ、と聞いています。
つまり、雪担さんも証明されていません。
別に、誰に印可されなくても、自分の伝えたいことを勝手にしゃべっていれば良いのですが、「雪渓老師の弟子だ」「悟っている」と表明してしまって、勝手なことを言うと、師の徳を損じ、仏法を誹謗することになり、世を混乱に陥れることになるのです。
2009年7月22日・日食の日
幽雪 拝