板橋禅師には瑞世の時に初めて相見しました。
「坐禅で世に処して行けよ」と力強く背中を押された感じがしました。
「悟りをあまり気にしないことだ。
悟った人は悟ったことを気にし過ぎる。
悟っていない人は悟っていないことを気にし過ぎる。
悟っても悟らなくても、只やることだ。」
禅師から頂いた慈戒であります。
以下、おじさんの余計な言い分です。
人は常に選択をして生きている。
生きているということは、選択をし続けることだと言ってもいい。
「選択をしない」としても「選択をしない」という選択をしているわけだ。
人生万事塞翁が馬、と言うけれど、これは一面の真理だ。
失敗だったと思うことが、後に良いと思われる結果に結びついたり、
成功したと思うことが、後には不幸を招いたりする。
人生はそんなものだ、というのがこの故事の意味かな。
今、卒業入学シーズンで、どこの大学に受かったとか落ちたとか、
当事者の人たちにとっては重大問題だ。
僕もそうだった。
そして、人生の大きな岐路において、
それほど真剣であることは大切なことだとも思う。
しかし、この年になってみると、
そういう、良い学校、良い会社、良い人生・・・なんていう考え方が、
如何につまらないか、ということが実感される。
そして、もう一歩踏み込んで考えて見ると、
無常である。
次の瞬間、どうなっているか、なんて全く定かではないのだ。
因果というものがあるから、ある程度の方向性はあるのだが、
それは何ものも保障するものではない。
僕たちは死ぬべき存在だ。
否、死につつある存在だ。
ロウソクが、燃えつつ、消えつつ、世界を照らすように、
僕たちは滅びつつ世界を荘厳している。
人は幸せを求める。
そのために努力する。
僕たちの努力は、全て自分の幸せのためだ。
人の幸せのため、と言う人がいたとしても、
それは、他人の幸せが、自分の幸せだからだ。
その幸せを外に求めたら、永久に得られない。
求不得苦というやつかな。
外部世界は、自分の思うようにはならない。
自分の体でさえ・・・。
そして、幸せを未来に求めても、永久に得られない。
未来に何かの事象が成立することを幸せだと思ったら、
とんだ勘違いになる。
往々にして、望んだような事象は成立せず、
望んだ通りになったとしても、それだけのことで、
すぐに流れ去ってしまう。
幸せは、今、ここ、にしか、あり得ない。
死につつある、この今にしか、幸せは無い。
>> 10年選手の弟子があれほどいて誰一人幸せそうな顔をしていない。増してや悟った者なんか独りもいない。なぜか。誰も究極の本気じゃないからだろう。
他人が本気でないことは、あなたが本気でないこととは何の関係もない。
当たり前のことだ。
しかし、少林窟門下の面々の根本的問題を的確に摘出しているじゃないか。
もっとも、それは少林窟門下に限った話じゃない。
どんな分野の、どんな世界だって同じことだ。
トウ隠老師がそれについて言っておられる文章を載せてあるんだ。
>> しかし悟った者がいないのは私の関心ではい。注目すべきは本真剣になれる人がいないということだ。ここをよくよく考えてほしい。
さて、どう考える?
あなたはどう考える?
何故だ?
悟る人がいないのは、本真剣になる人がいないからだ。
別の言い方をすれば、悟る必要があるほどの人がいない、ということだ。
悟らなくても、当面の問題が解決すれば、それで良いわけだ。
その問題というのが、悟りを必要としていないわけだ。
大抵の人が、ね。
ま、私は、悟りが何か知らないがね。
本真剣でなければ、どんな道であろうが成就するわけがない。
この道は、それこそたった一人の弟子によって繋いで来た道だ。
道元禅師は如浄禅師の遷化の直前に出会うことができた。
一箇半箇というが、本当にキワドイ出会いの連続だ。
本真剣になるほどの人が極めて稀であることは歴史的事実だ。
いつでも、どこでも、そんなものなのだろう。
少林窟でそれほどの人が出て来ない理由は、
そういう統計的な人間の性質からも説明できるかも知れないが、
少林窟独特の問題もあるかもしれない。
しかし、たった一人の、「その人」が出て来たら、
それで、万事OKというわけだ。
>> 結局幸せが究極のゴールということに変わりはないように思える。
さて、「幸せ」とは何だろう?
私の信じているところでは、
幸せは、如何なる外部環境にも依存せず、
未来にも過去にも依存しないものです。
今、ここで、このままで、何の条件もなく、
幸せでなければならない。
それ以外の幸せは幻です。
人の行動は、すべて幸せを求めて、
その方向に向って行動しているのだと言えると思います。
ただ、しばしば錯乱しているというのが現実でしょう。
>> 詰まるところ、俺は生かされているのではなく生きているのだということだ。
良いだろう。
そのまま突っ走ってみればいい。
あなたは必ず失敗する。
何故なら、あなたは、死ぬからだ。
一遍上人だったかが、こんなことを言っていたと思う。
「一人生れて、一人死す。されば、共に住するも一人なり。」
もっとも、雪渓老師が、口宣でこんなことを言われたことがある。
「『物がある』『人は死ぬ』というのは、大変な間違いです。
『物があるのではない』『人は死ぬのではない』というのが、仏教の根本の根本です。
それを実証するのが修行です。」
一方で、道元禅師の言い分は、こうだ。
「生を明らめ、死を明らむるは、佛家一大事の因縁なり。」
生きているということ。死ぬということ。
これが、大切な問題だ。
この問題が、大切なのだ。
何故なら、この生死が、人を本当の解放に導くからだ。
本当の幸せが、そこにあるからだ。
幽雪 九拝
桜が満開だ。
つらつら書いていたら、長くなり過ぎてしまった。
しかし、言うべき人に、言うべき時に、言うべきことを言ってしまっておきたかったので、お許したまえ。
幽雪 九拝
一つの物語をしよう。
ちょっと長いけど、「自己の手習」の中の「独接心メモ」の冒頭を引用させてもらう。
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僕の人生とは、どんなだったのだろう。
小学校の終わり頃まで逆上る。
兄貴の影響で自然科学に興味が絞られつつあった。
どういう縁であったか定かではないが、ニュートンに引かれ、彼の伝記を何種類も読んだ。
学問に一途な彼の姿に憧れた。
そういう伝記の一つに、このような言葉があった。
「天才とは努力することのできる才能である」。
この言葉は僕の中に深く刻まれた。
その前後に、母が買って来てくれた一休さんの伝記を読んだ。
若き日の彼の命懸けの修行の姿に打たれた。
そして、小舟の上での「悟り」という不思議な事件が印象に刻み込まれた。
この人生をどう生きて行ったらよいものかと思い、そのサンプルを見るために多くの人の伝記を読み漁った。主に科学者たちの伝記だった。
中学に上がる前後には天文学者になるつもりであった。
アインシュタインという人のことも知った。ニュートンよりもすごい人がいることを知ったのだ。
やがて実際に星を見ることよりも、そこで何が起きているのかということを理論的に知ることの方に興味が移った。
そして、それは結局のところ物理学に帰結すると思い、中学の終わり頃には物理学者になることに決めた。
その頃から、
「人生をどう生きたらよいのか」ということと
「この世界の最高、最深の真理は何か」ということが表裏一体をなしていた。
最高の真理を求めることが最高の生き方に外ならなかった。
最高の真理を求めてこそ、最高の生き方が可能だった。
だから、「何が」最高のものであるか、ということだけが問題だった。
それを見つけることだけが問題だった。
「何故」「何のため」ということは問題にならなかった。
中学の時、その最高のものが物理学であると判断したから、後はそれを追求するだけだった。
小学校の終わり頃から学校の成績が良くなって来た。
小学校5年の時の担任教師が勉強のおもしろさを教えてくれたからである。
やればやっただけ成績は上がった。
友人たちと競争するおもしろさも知った。教師たちはそういう競争を徹底的に煽った。
しかし何故そのように勉強するのかということは何も分かっていなかった。
小学校の頃は大学というものの存在すら知らなかった。
また決してガリ勉ではなかった。高校に入るまでは家で勉強することなどほとんどなかった。田舎の学校だから、のんびりしたものである。
高校は自宅からバスで1時間近くかかる所にあった。
中学までどうしても成績で勝てなかった友人が別の高校に行ってしまったので、高校に入るといきなりトップに立ってしまった。
高校時代は物理学者になるため、大学の理学部に入るための受験勉強にすべてを費やした。夜中の1時頃まで勉強して朝7時頃起きてバタバタと支度をして7時半のバスに飛び乗る毎日だった。
そんな朝のことだが、ある日、どういう訳か、2、3分だけ余裕ができてしまった。
新聞を読むほどの時間でもないので、ただコタツにあたってじっとしていた。
全く何でもないことだった。何の特別な体験でもなかった。
何でもなかったのに、とてつもないことだった。
このことで、一つの確信をつかんでしまった。
「人の幸福は、一切の外部環境に依存しない」。
この頃としては、この確信をつかんだということだけが重要だった。
この時のことはさして気にもとめなかった。
何も知らなかったから、何か重要なことが起きたと考える余地はなかった。
ずっと後になって、この時、心意識の働きが落ち、思考が落ちて、
ただ在るということの一瞥が起きたのだろうと思うようになった。
大学に入って興味の世界が急激に拡大した。
その中で科学論に出会った。柴谷篤弘の『反科学論』を読んだ。信じられないことだった。
この本ほど怒りを込めて読んだ本はない。至るところに怒りの書き込みを殴り書きした。
彼の言うことには全く同意できなかったが、その真偽ではなく、そのようなことを言う人がいるということが、決定的にショックだった。
最愛の恋人に対する苛酷な中傷のようなものだった訳だ。
そして、科学とは何なのだろうか、という探究が始まった。
最初の前期試験の後、何か小説でも読んでみようかと思った。
どうせ読むなら最高のものを読もうと思った。
岩波文庫の前で物色していると、「世界文学の最高峰」と帯に書かれているものがあった。
これが最高峰か、という訳で、それを手にした。
『カラマーゾフの兄弟』であった。
僕の中で決定的に引っ繰り返ってしまうものがあった。
それが何なのかは、はっきりとは分からなかったが、人間とか心というものに、科学や物理学よりも深い問題があるということを感じ取った。
そしてドストエーフスキイの作品のすべてとロシア文学を中心に多くの小説を読んだ。
科学論、科学哲学の分野は、村上陽一郎やファイヤーアーベントを中心にいろいろ読んでみたが、どうもしっくりしなかった。
結局、哲学の方に入り込むことになり、プラトン、ニーチェ、ヴィットゲンシュタイン等々を読んでみたが、どうも何がなんだか分からなくなっただけのことだった。
ニューサイエンスの分野もカプラなどを読んだ。
結局、大学時代は関心が支離滅裂に分裂して収拾がつかないまま終わってしまった。
関心が物理学からそれてしまったので、研究者の道は断念せざるをえなかったし、それどころではなかった。
4回生の時、レーザー分光の研究の真似事をして、レーザーとはおもしろいものだと思い、働くならレーザーに関わる仕事をしてみたいと思った。
大企業は嫌だったから、レーザー専門の中小企業を探したら、幸い、そういうベンチャー企業があった。
そこでエキシマレーザーやら金属蒸気レーザーの研究開発に携わった。
とりあえずおもしろければ良かった。
そして実際おもしろかった。
しかし、科学技術の社会的責任というようなものとは別に、おもしろければ何でもどんどん巨大な「力」を生み出してしまうことに耐えられなくなった。
一方、精神的なものの探究も細々と続いていた。
ある時、クリシュナムルティに出会った。この人は本当のことを言っていると思った。
しかし僕の中には何も変化はなかった。
そしてケン・ウィルバーに出会った。
科学、思想、哲学、宗教等をすべて一直線上に並べて陳列して見せてくれたことに驚嘆した。
これが僕の中にあった宗教に対する偏見、嫌悪感、距離感、近づき難さを解除した。
そして彼が禅を最高のものとして位置付けていることが僕を禅に引き込んだ。
最初に沢木興道に接した。彼の生き方に非常に引かれた。
そして横尾忠則の参禅記を読んで総持寺に行けば坐禅ができることを知った。
最初から臨済宗には近づきたくなかった。直感的に公案禅というものに抵抗があった。
総持寺の日曜参禅会を中心にしていくつかの禅会を訪ねて回った。
伴鉄牛、酒井得元、余語翠巌などの禅会にしばしば足を運んだ。
そしてこの道に全力を挙げてみたいという思いが日増しに強くなって行った。
会社の同僚で絵心のある男がいた。彼は画家としてやって行けたらな、と時々言っていた。
彼が学んでいた画家がポルトガルかどこかに行っていて、その人から彼に、君も来ないかと言って来たらしい。
そして、彼がぽつりと、行ってみようかな、と僕に言った。
それが、僕にとっての最後の一押しになった。
「自分の本当にやりたいことをやるのが一番なんだ」と。
そして会社を辞めた。
出家するあてがあった訳ではない。
出家することは容易なことではないはずだと思っていた。
とりあえず禅会に出ながら、アパートに閉じこもって独坐していた。
一度、道元禅師の「修せざるには現われず、証せざるには得ることなし」の言葉を巡って思考が暴走し始めてしまい、全く制御が効かなくなってしまったことがある。
総持寺の参禅会からの帰り道だった。
文字通りオーバーヒートして来るし、吐き気もするしで恐慌に陥ってしまった。
気が狂うと思った。
こうなったらメインスイッチを切るしかないと思って、寝た。それは一時的なもので終わった。
しかし以後、本を読むことは止めて、とにかく坐るしかないと決定した。
本は読まないつもりだったが、ひょんなことから新宿の紀伊国屋に寄り、そこで少林窟道場の参禅記を見た。
これだ、と思った。
坐禅を始めたことによって、僕には「悟り」という自他共に納得させるのに十分な、立派な目標が与えられた。
それが「最高、最深の真理」となった。
おまけに「工夫」という「道」まで与えられたから、僕はただその道を歩いて行くだけで良かった。
そうすると自動的に「悟り」という「最高、最深の真理」に到達できることになっていた。
僕の中では何も変わっていなかった。
ただ目標が「物理学」から「悟り」に置き換わっただけのことだった。
死に物狂いにならなければ悟れはしないということは古人の様子から明らかだった。
そして死に物狂いになりさえすれば、僕も悟れるだろうことは実感されていた。
しかし、それがそうできなかった。
雪渓老師の口癖を借りれば「自分の問題になっていない」ということなのだろう。
工夫も悟りも、僕にとってはオモチャに過ぎず、ゲームに過ぎなかったのだ。
そんなものに死に物狂いになれるはずがない。
目標を探して、それを定めたらそれに向かって走る、という行動パターンから抜け出せない。
悟りとはそんなものではない、と言われても、どうしてもそこに距離を作って、それに向かおうとしてしまう。
今だ、ここだ、と言われても、それを目標にしてしまう。
何がなんだかよくわからないから、とりあえずとにかく工夫をするしかない、となってしまう。
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まあ、引用はこれくらいにしておこう。
10年前に書いたものだが、自分の半生の結構いい総括になっていると思う。
私の人生はこんな調子だったわけだ。
この中で、十分書いていない部分として、
①「科学技術に行き詰った経緯」と
②「自分の全力を尽くせる道との出会い」ということ
についてもう少し書いておきたい。
①力への欲望
私が働いていた会社が金属蒸気レーザーの開発に着手することを決めて、私をそのスタッフに加えた時、私は激しく抵抗した。
当時、金属蒸気レーザー、特に銅蒸気レーザー(CVL)が注目されていた。
それは、アメリカがウラン濃縮の方法をレーザー法一本に絞って、他の技術開発を放棄する決定をしたことによる。
ウラン濃縮にはガス拡散法、遠心分離法、レーザー法等があった。
日本は確か遠心分離法に力を入れていたのではなかったかと思う。
レーザー法は、CVLで励起した色素レーザーのある波長を使ってウランを分離濃縮するテクニックだった。
アメリカがウラン濃縮をレーザー法一本に絞ったことは、日本にとっては青天の霹靂だった。
そして、国はレーザー法の技術開発を急いで一気に資金を投入しようとしていた。
金属蒸気レーザーにはもう一つ、金蒸気レーザー(GVL)があった。これは、赤色の波長をもつパルスレーザーだ。このレーザーはガン治療に応用されようとしていた。
ヘマトポルフェリン誘導体(HpD)と呼ばれる物質があり、これを人体に投与するとガン細胞に選択的に集積する特徴があった。そして、この物質に630nm(くらいだったと思うが)の赤色の光を与えて励起すると活性酸素を放出して細胞を殺すのである。したがって、HpDを投与してから患部の辺りに赤色の光を照射するとガン細胞が選択的に殺されると言うわけである。
ただの光では弱いからレーザーが使われるし、数ワット程度の連続発振の色素レーザーでは弱い。GVLは10Wくらいの出力が得られるし、10kHz、10ns程度のパルスなので、深部まで到達させることができる。
CVL励起の色素レーザーでも同程度の出力は可能だが、装置が大きくなる。
だから、先ず医療用としてGVLを開発することを会社は決めたのである。
しかし、GVLとCVLは、全く構造的に同じ物であり、GVLが作れれば、すぐにCVLを作ることができる。
会社としては、国のプロジェクトであるウラン濃縮のためのCVL開発に入り込みたいという思惑があるのは見え見えだった。
だから、もし原発の片棒を担ぐなら、原発の安全性というものについてよくよくリサーチするべきではないか、そして、そのような技術に加担すべきではないのではないか、と意見書を出した。
もっとも、今から思えば、原発の安全性というようなものを問題にするように会社に要求するのは無理があったかも知れない。
ともかく、私は、会社の命令でGVL、CVL、CVL励起色素レーザーの開発に携わった。
GVLは少し神経質なレーザーだった。まあ、そこそこの物ができた。
CVLはそれより一回り大きく、出力は1桁大きく100W近く出た。緑色と黄色の二本の波長が混ざっている。直径7センチくらいのかなり太いビームで出力する。
可視光の100Wのレーザーというのは、すごいものがある。レンズでちょっと絞っただけで、すぐに物が燃える。もちろん裸眼では危険だから、レーザー用のゴーグルが必要だ。
おもしろかった。
初めてギラッとレーザー発振を始めた時の喜び。
100Wくらいまでどんどん出力をあげることができた時の興奮。
まばゆく、美しいレーザーの光。
CVLは波動砲のようだった。
しかし、そこで、私は、自分がとんでもない所に落ち込んでいることにハタと気がついた。
当初、私は原発の片棒を担ぐような技術開発に疑問を呈し、反対していた。
しかし、やらざるを得ない立場に追い込まれたら、やるより他無かったわけだが、やってみると、自分の倫理的な立場や考えなど、棚上げにして、単純に面白かった。
エキサイティングな仕事だった。
そして、はっきり知ったのだ。
第二次世界大戦の時、マンハッタン計画で原爆を開発したロス・アラモスの研究者たちの興奮を。
核分裂の理論が展開されたのが1939年。その6年後には、広島で実際に原爆が炸裂したのだ。量子力学が提唱されてから20年しか経っていない時に、これだけの巨大な力を引き出したのだ。極微の世界の純粋理論が、現実の巨大な力を引き出すことに成功したわけだ。
マンハッタン計画に加わった研究者たちは、きっとものすごい興奮の中で夢中で研究したに違いない、と想像できた。
私の仕事など、それから比べれば桁違いに小さなものでしかなかったが、その構造は同じだと思えた。
そして、その倫理的苦悩も。
マンハッタン計画を指導したオッペンハイマーはこんなことを言ったそうだ。
「どんな野卑な言葉でも、どんなユーモアでも、どんな大袈裟な言葉でも打ち消すことのできない、言葉そのものの意味で、物理学者は罪を知った。このことを彼らは決して忘れることはできない。」
オッペンハイマーのこの言葉が、自分のものとしてはっきり受け取れた時、もはや、仕事を続けることはできなくなった。
オッペンハイマーの言う「罪」というもの。
それは倫理的なもの・人間の良心というもの・社会的責任というもの、
そういうものを、あっさり踏み越えてしまう知的好奇心であり、
それを突き動かしているのは、力への欲望だと思えた。
私の中に、確かに存在する、そういうドロドロしたもの、おぞましいものを確認して、
そういうものからの脱却を求めざるを得なくなった。
それは自分の心の探求に他ならなかった。
そこにこそ、自分の全力をかけるに値する問題が存在し、
事実、そのことに自分の全分をかけざるを得ない状況に追い込まれたわけだ。
そこで
②何故、禅か、ということだ。
恐らく、哲学でも良かったのだろう。
念仏でも良かったかも知れない。
あるいは、山登りでも良かったのかも知れない。
ただ、私における因縁は、確実に、明確に、
私を禅へ導いた。
だから、人それぞれなのだと思う。
だからこそ、様々な分野で、それぞれ多くの人が頑張っているのだ。
手と眼の間に優劣があるはずもなく、みんな尊いのだ。
しかし、本当に自分自身と正面から向かい合おうと思えば、
坐るしかないのだと思う。