尹千合老師
氏名は尹千合(Yǐn Qiānhé)、字は百洽(Bǎiqià)。1903年12月20日、現在の中華人民共和国山東省新泰市に生まれた。幼少の頃から病気がちだったことから少林拳を学び始めたが、これをたいへん気に入って毎日練習に励み、徐々に体も丈夫になっていった。
山東省郷村建設研究院在学中には、少林拳の腕を更に磨くとともに太極拳と鍼療法を修得。太極拳は当時北京の北平強健体育社で教えていた太極拳で名高い安定邦に師事し、108式伝統太極拳を修得した。残されている尹老師直筆の書類によると、安定邦は呉鑑泉が北京で教えていた当時の弟子であり、尹老師が習った太極拳は伝統楊式大架太極拳で、楊少侯から呉鑑泉へ、呉鑑泉から安定邦へ、安定邦から尹老師へと伝わったものである。尹老師は更に、気功のエキスパートである道士楊チャオチャン(字は周清)から中国古来の心身鍛練法の1つである気功を習った。
尹老師の気功の師、周清
日中戦争及び国共内戦では蒋介石率いる国民革命軍に入隊し、得意とする少林拳を教えた部隊を率いて戦った。しかし、1949年に毛沢東率いる中国共産党が、蒋介石率いる中国国民政府を破って中国大陸に中華人民共和国を樹立したため、蒋介石に追随して台湾へ渡った。
中国共産党の追跡を逃れるため、台湾では字の百洽ではなく本名の千合を名乗ることにし、退役して彰化県埔塩郷の小学校で教え始めた。小学校で教える傍ら、少しでも中国武術の普及に役立ちたいという思いと、自分が中国武術から受けた恩恵(体が丈夫になったこと)を人々に分かちたいという思いから、中国武術に関する本を書き始めた。そして、完成した数編の書物の中から、1958年に『太極劍』と『牀上健身術與科學八段錦』を、1960年に『驚虹劍術』を、そして1961年に『延年益壽』を台湾の台中市で出版した。
太極劍
牀上健身術與科學八段錦
驚虹劍術
延年益壽
『太極劍』の出版を機に彰化市に移り、政府が組織する民衆服務社に創設された国術研究班の主任となって、国術を指導することになった。1969年には彰化市にある自宅の庭を道場にして国術学校を開き、中興国術館と名付けて少林拳と太極拳を教えた。
1974年、尹老師の一番弟子である盧澄滄が映画出演の依頼を受けたことから、盧澄滄とともにアメリカ合衆国ユタ州ソルトレークシティーヘ渡った。残念ながら映画出演の話はまとまらなかったため、尹老師は盧澄滄と一緒にソルトレークシティーで中国武術を教え始めた。1975年に台湾へ一旦帰国したが、1976年12月に今度は永住のため再びソルトレークシティーへ渡った。アメリカ名はChian Ho Yin。ソルトレークシティーでは盧澄滄と一緒に学校や教会の地下室などで少林拳と太極拳を教えた。
1977年、当時ウイスコンシン州ミルウォーキーに住んでいた台湾の弟子の1人であるフアン・シエミンに請われたため、ミルウォーキーでフアン・シエミンの生徒に中国武術を教え始めた。1979年、ミルウォーキーのダウンタウンに正式に学校をオープン。名前を Chinese Kung Fu Center (中國功夫中心)とし、少林拳と太極拳を教えた。開校当初は数人しかいなかった生徒が、尹老師が亡くなるときには100人を超えていた。残念ながら尹老師の Chinese Kung Fu Center(中國功夫中心)は2004年に閉校した。
1988年6月30日、ウイスコンシン州ワワトサの自宅で心臓発作のため死去。享年84歳。現在、尹老師は台湾の彰化市と台中市の間に位置する大肚山という丘にある模範花園霊園に眠っている。
尹老師は心の教育をとても大切にした。尹老師にとって中国武術はただ単に技術を教えるためのものではなく、心を教えるための手段だった。そのため、尹老師は生徒に技術の訓練だけではなく精神や道徳の修養も求めた。(「中国武術を習うにあたり修養すること及び持つべき態度」を参照のこと)
尹老師は中国武術をこよなく愛した。そして、中国に二千年以上に渡って受け継がれてきた文化として誇りに思っていた。その中国武術を後世に受け継ぐべく、尹老師は自分の持つ技術や知識の全てを余すところなく弟子たちに伝授した。尹老師は亡くなる直前まで中国武術を教え続け、数多くの生徒の人生に影響を与えた。その優れた技術に加えて彼の人間性と生きざまから、尹老師は亡くなった今でも生徒たちに敬愛されている。
「生徒たちよ、強くて心の豊かな紳士淑女となれ!」
尹千合