改宗記 by東京都 ワルダ
アッサラームアライクム ワラフマトゥッラーヒ ワバラカートゥフ
私は北海道に生まれ、新潟県出身の高野山真言宗の敬虔な仏教徒である祖母に3歳まで育てられました。なので、4歳にして般若心経を暗唱していたのだそうです。
祖母は真言宗の開祖空海の事を崇拝していて、毎日空海の話を聞かされていたのですが、空海はとても立派なお坊さんだったんだろうなとは思うけど、真言宗を信じている人はたくさんいるのに、昔のお坊さんがどうやって死後自分を崇拝する人全員を助けるんだろう?と、なんか納得が行かず、モヤモヤしていました。
今は亡き私の母はアルコール依存性でした。
お酒を飲んでは私に暴力を振るい、「死ね!」と叫んで出刃庖丁を振り回して追いかけられる。
私は母の暴力を逃れて押入れや外の物置に隠れて眠りました。
ひどい時は、近所の公園で野宿しました。
「お前なんか要らなかったのに、なんで生まれてきたんだ!」と、毎日言われました。
「私は親に望まれない命なのに、なぜこの世に産まれてしまったのか」といつも思っていました。
中絶されるにしろ、生まれてから殺されるにしろ、どちらにしろ私は母に殺される運命だったんだと、子供の頃から人生を諦めていました。
ある日いつものように押入れに逃げ込んでいると、頭の上からバイブルが落ちてきました。
父が高校で世界史を教えていたのでその関係の書籍の一冊でしょう。
懐中電灯の光で照らしながら、創世記を読んで感動しました。
神が世界と全ての命をおつくりになったんだ、だから私は神様に作られたんだから、私はこの世に生きていていいんだ!と。
それは家庭の中で暴力の恐怖に怯えて暮らしていた私に与えられた、一筋の光のように思いました。
そして、私は家族に隠れてプロテスタントの教会に通い、洗礼を受けました。
ただ一つ心から納得出来なかったのが三位一体説。
しかし、私はとにかく自分が生きている理由が欲しかったから、藁にもすがる気持ちで教会に22年間通いました。
神様が私を作った!と信じなければ、母の私に対する心身への暴力を耐えられそうに無かったので。
その22年間の間に結婚し、母とも家を出てから20年かかって、やっと母に私が辛かった気持ちを伝えて和解し、その後も暴言があったりしたものの、心穏やかに母と話せるようになった頃、
遅くなりましたが結婚13年目にやっと一人娘が産まれて、私にとっては、実家の家庭内の内戦が終結し「藁にもすがる思いで信じていた」キリスト教の教えについて考える心の余裕が出て来ました。
ある日曜日の礼拝で教会に、アメリカのグリーンカードを持っていて、アメリカの大学でキリスト教神学を教えている日本人の先生がやって来て、スピーチをしました。
その先生はイスラームの事を「インチキ新興宗教」みたいな言い方をしました。また、クルアーンの事を「インチキ経典」みたいな言い方をしました。
イスラームに対するあまりのひどい言い方に、私はクリスチャンだったのにとても憤慨しました。
私の父は歴史の教師でしたから、家には歴史に関する書物がたくさんあり、それらを読んで育った私は、イスラーム帝国の中でどんなに医学や数学や天文学が発展したか、美しい文学もあったし、化学の基礎も作られたし、どんなにムスリムの学者達の研究が優秀だったかを知っています。
また、十字軍がエルサレムを占領した時にムスリムを皆殺しにしたけど、サラーフッディーンがエルサレムを占領した時はクリスチャンを殺さなかった事を知っています。
13世紀の神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世は、十字軍を率いて戦うようローマ教皇から命じられましたが、アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと勝手に平和条約を締結して、ハインリヒ2世は教皇から破門されてしまいました。
彼のイスラームに対する深い理解は「改宗してないサラセン人(ムスリムの事)」と揶揄されたぐらいだったそうです。
私はハインリヒ2世が大好きなので、彼のようでありたいと思っていました。
そして、教会にクリスチャンのイラン人女性がやって来ました。彼女ととても意気投合したので、私はイランという国の事を知りたいと思い、国教であるイスラームについて調べはじめました。
そして、日亜対訳クルアーンの「言え『彼はアッラー、唯一なるお方であられる。アッラーは自存されお産みなさらないし、御生れになられたのではない。彼に比べ得る、何ものもない』」というイフラース章にとても心を打たれました。
クリスチャンはイエス様を通してじゃないと神様につながれないと言う。
私はイラン人の友人と出会う前に、お腹の中の子供が亡くなってしまったという悲しい出来事があり、一生懸命祈ってたのですが、残念ながらあまり癒しを感じる事が出来ませんでした。
だけど、イスラームでは慈悲深いアッラーが直接私たちの事を赦し、癒してくださる。神様をすごく近くに感じた瞬間でした。
また、預言者様がお子様を次々に亡くされてとても悲しまれた事を知りました。
私はお腹の中で何人も子供に死なれで深い悲しみを感じているので、1400年の時を超えて、預言者様に親しみを感じました。
敵に迫害されても、お子様を次々に亡くされても、それでもアッラーの使徒としての使命を果たそうとされた。
もっと預言者様の事が知りたいと思いました。
それで、少しハディースを読みましたが、預言者様のお姿も知らないしお声も知らないけど、生き生きととても人間味にあふれたイメージが伝わって来ました。
ただ、私の中にはまだ「イスラームは男尊女卑だ」という偏見が根強くあって、改宗までは考えていませんでした。
そんなある時、ドバイに旅行する機会が与えられました。
外国人には義務付けられていないけど、アバーヤとヒジャブを日本で買って、現地で身につけていました。
アバーヤとヒジャブを身につけると、なんだか自分がとっても守られているように感じ、とても心地良く感じました。私はアバーヤとヒジャブが大好きになりました。
そして、驚いたのが夫と娘と一緒に地下鉄に乗ると、私が前に立つと、座っていた男性がさりげなく別の席に移ってくれたりして、私と娘が座れるようにしてくださるのです。
また、ショッピングモールでは、二カーブ姿の現地の女性が前をスタスタ歩いていて、ご主人が幼い子供達の面倒を見ながら、なんか疲れたような表情で奥さんの後ろをトボトボとついて行っているのです。
私は、アラブの男性はきっと威張っているに違いないと偏見を持っていたので、かなりのカルチャーショックでした。
イスラームは男尊女卑の宗教だという、私の中に根強かった偏見が一気に吹き飛んだ瞬間でした。
夕暮れの旧市街バスタキヤ地区を家族で歩いている時の事でした。
「あなたは日本のムスリムですか?」とガードマンのおじさんに聞かれました。
「まだ違います」と答えると、おじさんは
「私には分かるよ。あなたと私は同じ心を持っている。あなたはもうムスリムだよ!」
とにこやかに言いました。
その時、私の心にあたたかな灯りがともりました。「よし!シャハーダして改宗しよう!」
帰国してから、真剣に改宗について考えて調べました。
夫にもその考えを話しました。
しかし、夫はムスリムにはならないと言います。
私が改宗するためには離婚するしかないのか?でも、私にとって家族はとても大事だし、離婚はしたくない。
とても悩んで、イスラミックセンター・ジャパンに相談しました。
そうしたら、「離婚はしなくて良いです。それよりも、旦那さんを大事にして下さい。旦那さんは必ず変わります」と。
私は改宗出来るんだ!「ラーイラーハイッラッラー」って言って、これからの人生をアッラーに従って生きていけるんだ! アルハムドリッラー!とっても嬉しかったです。
そして、大好きだったお酒を飲まなくなりました。
アッラーが私を深い慈愛で包んでくださるから、お酒が無くても生きて行けるからです。
これには夫も驚きました。
母に似て私は大酒飲みだったからです。お酒飲むのは毎日ではなかったし、ベロンベロンになって奇行に走るような事はありませんでしたが、大きなストレスを感じるたびにお酒を飲んで心を麻痺させて耐えていたので、いつか私もアル中になってしまうのではないかと心配していました。
でも、もうその心配は無くなりました。
夫は「本当に変わったよね。ビックリした。改宗してもいいよ。でも俺は改宗しないけど。」と言いました。
インシャーアッラー、どうかアッラーが彼をイスラームに導いてくださいますように。
大事にすべき人は?と聞かれて預言者様が「あなたの母親である」と3回答えられた。
私の母は、お酒を飲んでは私に暴力を振るいましたし、私が流産して悲しんでいても、悲しみのどん底の私に暴言を吐いてまもなく病気で亡くなりましたが、私は母の弱さを赦そうと思いますし、「どうか母のした悪い事を数えず、良い事を数えて下さい」とドゥアーしています。
なぜなら、母もきっと好きでアル中になったのではないし、自分の子供を虐待してやろうと思って虐待していたわけではないと思うからです。
本当は、母も平和な家庭を作りたかったと思います。
それがとうとう叶わないまま亡くなって、とてもかわいそうだと思います。
そして、幼い頃の経験を通して、夜安心して寝床で眠れるって、毎日暴力に怯えずに済むって、それだけとても幸せな事だと知ったから、私の目は世界で戦争という究極の暴力に怯えている人々を見つめ、その苦しさに思いを馳せます。
なので、わずかなお金ですが家を追われた人々のためにUNHCRを支援しています。
2015年2月21日、私はシャハーダしてムスリマになりました。
生きてて良かった!と心から思いました。人生で最も幸せな瞬間の一つでした。
アルハムドリッラー!
改宗の2年前にお腹の子供が死んでしまって、その時は半年間毎日泣いて暮らしました。今でも妊婦さんや小さな赤ちゃんを見ると辛い気持ちになります。
でも、亡き子が来ていなかったら、私は改宗しなかっただろうなと思います。
どうしてかというと、悲しみのどん底にあって、心の底から「何かが違う。私は本当の救いを求めたい!」という気持ちが起こらないと、イスラームについて真剣に調べなかっただろうと思うからです。
辛かったけど、これもきっと私をイスラームに招いてくださった、アッラーのご計画なんだと思います。
今の私の夢は、インシャーアッラー、いつかハッジに行くことです。
そして、インシャーアッラー、今4歳の娘も良きムスリマとなり、夫も改宗して、結婚25周年には夫とニカーの結婚式が出来るようになる事です。
ムスリマになれて、私はとても幸せです。礼拝の時間を意識して生活していると、宇宙の中で地球が自転してる事を感じます。
礼拝でサジダしていると、宇宙の全てと一緒にアッラーにサジダしているように感じ、
アッラーが私の身近におられて、いつも慈愛に満ちて力強く守ってくださる事を感じます。
誰かを仲介に置かなくても、アッラーが私をいつも直接ご覧になっておられるし、深いご慈悲で守ってくださる。
どんなに辛い時も私はひとりぼっちじゃない。
今、私は人生で初めての深い平安な気持ちの中にあります。
アルハムドリッラー!
この喜びをお伝えしたく、改宗までの道のりをお話しさせていただきました。
兄弟姉妹の皆様にアッラーのご加護がありますように!
そして、アッラーからイスラームへ招かれている方々が、インシャーアッラー、ふさわしい時にこの素晴らしい平安へと導かれますように。
2015.3月