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さあらの入信記
私が「神さま」という存在を意識し生きるようになったのは、小学校高学年の頃だったと思う。小学生の頃から原因不明の腹痛発作を繰り返し、1か月に1度は入退院を繰り返していた。私の入る病室は面会制限のあるいわゆる免疫が低下している小児科の病室であり、自己免疫疾患や白血病などの子供たちが一緒の部屋になることが多かった。
ある日、同じ部屋に入院していた私よりも幼い子が私に聞いてきた。
「ねぇ、どうして私たちはこんなに辛い病気になったのか知っる?」
「わからない。どうして??」
そう答えると彼女は驚くべきことを言った。
「かみさまがね、私たちはこの病気が耐えられると知ってるから
この病気をくれたんだよ。私たちは神さまに選ばれた子なんだよ!」
その夜私は「かみさま」についてたくさん考えた。どこにいるのか、どんな方なのか。結局私には何の知識もなかったので、とにかく「かみさま」がいて、そして「私なら耐えられる病気なんだな」と思うことにした。
そして「選ばれた」という言葉がなんとも特別な感じがして、かみさまが自分をいつも見てくれているように思え、ちょっぴり嬉しかった。そのことをもう一度話そうと思っていたのだが、その子は別の部屋に移ってしまったようで会えなかった。
しばらくたって亡くなったのだということを知った。
私はこのことを誰にも話さなかった。誰にも話さず、どんなに辛く苦しい状態にあっても、いつもこの言葉を思い出し、ただただ耐えて過ごした。「かみさま」に選ばれたのだという思いが母や他の人を責めずにすんだ。しかしなんのために、そしてどうなるのかということを知らぬままだった。
病名がはっきりし私の免疫に関連した遺伝子が正常の3分の1に満たないことがわかると、主治医はこのままだと15歳までは生きられないだろうという見通しを両親に伝えていた。私にはそれは知らされず、ただ新しい薬を飲み始めるという話だけだった。が、原因と病名がわかったこともあり、半ばほっとしたと同時に「死」というものはいつも頭の中にあった。
「人はいつか死ぬ」という考えではなく「いつ死ぬかわからない」という数時間、または数分単位での恐怖が私の中にはいつもあった。
事実、さっきまで元気だったと思ったら発作が起き、瀕死の状態で運ばれることが当たり前のように毎月起き続けていたからだ。
「死んだらどうなるんだろう?」
私は毎晩恐怖と「かみさま」を思い耐える日が続いていた。朝目覚めないかもしれない。それならそれでもいいが、発作を起こしませんように・・。
仏教やキリスト教の本なども読んでみた。でもどの宗教も実に人間的な派閥が起きていて、子供ながらに大人のやっていることが滑稽でばかばかしく思えて、「宗教」というものを信じる気持には到底なれなかった。
そして大人になり、ある時私は別な時期にふたつの大切な命を亡くした。ひとつは将来結婚したいと思っていた人。もうひとつは妊娠4カ月の自分の子供だった。これは入信記なので、この詳細は特に書かない。でも私にとってこのふたつの死は私の人生にとても大きな意味をなした。
私自身は病気があり、いつ死んでも仕方ないと思って生きていた。医者は15歳と言ったが私は恐らく25歳くらいではないか・・・と思っていた。だからもういつ死んでもおかしくないし、それなりにやり終えたと思っていた。
しかし、彼は病気ひとつなく元気で何の罪もない人だった・・・・そう思っていたのに、なぜ今死ななくてはならないのか、なぜ私ではなく彼なのか。わからなかった。
また、自分の子供に関しては本当に順調に育っていた。医者は、
「赤ちゃんはもうすでに人となっており、おしっこもしていますよ」
と私に伝えた。が、同時にそれとは逆に私の体は生気を完全に子供に吸い取られるかのように、日々「死」に向かっていた。私は自分の中に「生」と「死」を同時に感じながら過ごしていた。しかし、それも3カ月が過ぎ、
「このままでは母体がもたず、妊娠の継続は難しいでしょう。」
そういう医者の言葉にずっと抵抗していたが、もうこれ以上は危ないと感じ手術を決心した時に、私にはもう自力で歩くことも座っていることもできなくなっていた。
かくして私は手術を受けたが、子供が私の体からその死をもって消えた直後から、私の生はまた始まり、それまでの体の負担は全くなくなった。とても不思議な感覚だった。
しかし見知らぬ「あの世」とやらに大切な人、子供を送らなければいけない哀しみは言葉では到底表現できない。そしてその子を火葬にしなくてはならない時、私は恐らく人生で初めて大声で泣き叫んだと思う。
なぜ焼かなくてはならないのか、あんな小さな子供にどうしてそのような辛い思いをさせなくてはならないのか。可愛くたくさんの花で飾られた小さな棺を抱えながら、私は周囲のことなど全く目に入らずに泣き叫び、相手の男性に引き離され、抱えられながら待合室に連れられて行った。本当に胸が引き裂かれるような・・というのはこういうことなのか・・・という思いだった。それ以来、
「私は土葬がいい。」
そう思った。死ぬことでさえ辛いのに、死んでなおなぜ焼かれるという責め苦を味わなくてはいけないのか!私は焼かれたくない!!そう強く思い、また彼らがいる「天国」に早く逝きたい。行ってまた会いたい。そう強く思うようになると同時に、天国へはどうやったらいけるのか、また、なぜ私がまだ生きていなくてはならないのか・・・
という疑問が心の底から強く、強くわき出るようになっていた。
それからしばらくして、私は実家を出て同棲していた。
それなりに幸せだと思っていたがそれでも時々私など生きている必要もないし、もう何もかもやり終えたのだから亡くなった彼らに会いに逝ってもいいだろう・・・・。
そう思い幾度となく自殺未遂を繰り返した。そのたびに人が通りかかったり、同棲相手が発見してしまったりで失敗に終わった。私の意思とは無関係に生き続ける自分の身体が不可思議で仕方なかった。しかし、最終的に私がもう自分で死ぬことができないのだな・・とあきらめたのは、本当に多くの良き友人や恩師などに恵まれていたからだ。彼らに一言も挨拶や感謝もせず、このまま死ぬことなど許されないな。
どうやって感謝しようか・・・そう考えたとき、
「それにはまず『生きる』しかないな。」
そう思えた時からもう自殺ということは考えなくなった。その代わり、生きている間、いったい何が私の使命なのか。そんなことを考えながら日々生活していた。
それから数年は勤務先が病院ということもあり、治療しながらしばらくは入院もせずに仕事をしていたが、それでも徐々に体調を崩すようになり点滴につながれながら、寝たり起きたりの生活をするようになっていた。外出といえば通院する程度だった。
そんなある日、親友が海外に永住することが決まった。英語ができない私は非常に困ってしまった。何かあるごとに相談していた彼女だが、電話に出るのがどこぞの外国人・・ということも多く、そのたびに私は何も言わずに電話を切っていた。それが永住となったのであれば電話のひとつもかけられるようにならなくてはな・・・。
そう思い、どうせ寝てばかりで時間はたっぷりあるのだから・・と、英語の勉強をすることにした。
「もしもし」をなんていうのかさえ知らないほどの英語力だったが、彼女と話したいという気持ちで数行の英語を書けるようになり、彼女の勧めもあってメールフレンドを作ることにした。
日本語を教える代わりに英語を教えてもらう・・というサイトで募集したのだが、最初に連絡がきたのがエジプト人だった。全く英語圏ではない国の人と、なぜ交流しようとしたのかわからない。ただの興味本位だったと思う。ラクダとピラミッドの国の人がメールできるのか・・という完全に無知丸出しの私は数行の英語でのメールのやりとりを始めた。
そんなある日、このエジプト人の学生を自宅に呼ぼうという話になった。その後英語力が増すにつれて数カ国の人とやりとりしていたが、とはいえ寝たきりに近い私に、もはや世界旅行には行けないけれど、いろいろな国の人と交流するのはまるで旅行に行ったようでいいだろう・・そんな彼の優しさでもあったようだ。
早速日時を送り家に招待した。まぁでもアラブの人は時間とかルーズらしいから、その日に着くかどうか・・。などと思っていたのだが、驚くべきことにその学生さんは約束の時間通りにやってきたのだ。そして年上である私たちへの誠実で紳士的な挨拶も非常に好感が持て、お茶の合間に聞く話もとても多くの知識があり興味深かった。
「いったいどんな社会が彼のような立派な若者を育てるのだろう?」
そう思い、その子と会ったあと、早速エジプトについて調べてみた。そもそもその学生さんは自分の宗教について話すことはなかった。しかし、私がエジプトはイスラム教という宗教の国なのか?と尋ねると、
「そうだよ。そしてイスラームを信仰している人のことをムスリムと言うんだよ。」
とだけ教えてくれた。
さらに興味がわいた私は通院で外出した際に無理をして図書館に行き、イスラーム」と書いてある本を探して手に取った。それを開いた時に目に飛び込んできたのが、アラビア語の文字だった。
「 まるで楽譜みたい! 」
私は音大を受験した経験があったが実は楽譜はなんとなくしか読めない。なんとなくしか読めないのだが、楽譜から感じるものを頼りにずっと弾いてきていた。だからその見たこともないような「楽譜」の音を聞きたい!!そう思ったのだ。
帰宅後すぐに音を探した。どうやって探していいのかもわからず、ただひたすらアラビア語とかイスラームというようなキーワードで探していたように思う。Youtobuでやっと音が聞けた。
そう。
その時生まれたて初めて聞いたアラビア語の音が「 アルファーティハ 」だったのである。
その瞬間私の「魂」はここにあるのか!!!!と思ったほど、まさに「魂が震える」感動を覚え、なぜか意味もわからないその音を聞きながら号泣してしまった。これは人が作れるような音ではない・・・。
そしてその瞬間的に「私はムスリムになる!」そう思ったのである。
その時の私はイスラームとは何か、クルアーンのことはもちろん、「アッラー」という言葉すら知らなかったのである。
こうしてムスリムになる!と決めた私はどうしたらムスリムになれるのか・・・ということも含めてイスラームについて書かれた本、クルアーンの日本語訳などを寝る間も惜しんで読みあさった。
もうすでにあの音が「神業だ!」と思っていた私にとって、その神業の言葉を送ったのが「アッラー」であり、アッラー、その御方が預言者としてムハンマド様(彼にアッラーの祝福と平安がございますように)を使徒として送ったのだと読んでもそれはもう何の抵抗もなかった。むしろ、私がずっと疑問に思っていた「かみさま」の存在と、なぜこの世に生きていなくてはならないのか、死んだらどうなるのか・・などなどすべての答えがクルアーンの中にあった。
【 ・・・ムスリムにならずに死んではならない 】(第3章102節)
クルアーンの中のその言葉が胸に響き、約半年後、東京のレストランでシャハーダした。経典も何の教えもない時代に神について知ったイブラーヒームを尊敬していたので、その奥様の名前である「サーラ」をムスリマ名にと自分で選んだ。しかし、この時の私はシャハダをしたということに何も感じなかった。
「おめでとうございます!」
と言われたが、実のところ喜びも何も感じず、もっと感激で飛び跳ねてしまうのかと想像していたそのイメージとは全く違っていた。
とにかく具合が悪かった。だから、ただただ人前で倒れまいという気持ちだけで必死にその場に出向き、無事に家に帰れるかどうかということばかりを考えていた。当時証人の一人となってくださった方にその後にお会いする機会があったが、本当に青白い顔で横になっていないと倒れてしまうのではないかと思ったほど、具合が悪そうで顔はうつむいたまま、覇気が全くなかったとおっしゃっていた。
自宅に戻った後初めてした祈りは、私を清め、今までの罪のお赦しを請うと共に、死ぬまでにどうか親孝行をさせてくださいというものだった。本当に私はいつも両親に、家族に心配ばかりかけ無茶苦茶な人生を歩んできたからだ。
すでに婚前交渉や未婚の男女が共にいることがハラームであることを知っていた私は、同棲中の彼にその日のうちにムスリムになったことを伝え、
「ムスリムとなり、私と結婚することはできますか?」
と聞いた。彼の答えはきっぱりと「NO」だった。そして、たとえムスリムとならずとも結婚はしないという返事だった。
それでは・・ということで、事情を家族に話し私は彼と別れ実家へ帰った。私に後悔は全くなかった。ずっと私にとってこれも定めと思っていた生活だったが、クルアーンによって正しい知識を知り過ちを認めた今、もうその生活にこだわる必要はなくなっていた。
本来なら喜びに満ちたシャハーダなのだろう。でも私は違っていた。むしろあらゆるものを失くしたスタートだった。友人や家族にも別れた経緯を話し、私がムスリムになったことも伝えると、宗教を理由にだなんて・・と責められた。もちろん、実際には宗教が問題ではなかった。長年一緒に暮らしたが、彼にはもう長く別居している妻がいた。年も私よりかなり年上だった彼は結婚を望んでおらず、あくまでずっと結婚にこだわっていた私とは根本的なところでうまくいっていなかった。家族は彼との同棲をよく思っていなかったため、帰宅は喜んではくれたが、宗教に入ったという、それもイスラームということで心配し猛反発された。
母に至っては毎晩うなされるほどに苦しませてしまうこととなってしまったのだ。
私は仕事も失くし、周囲の信頼も失い、地位も名誉も失った上に両親を悲しませ、およそアッラーがお望みになっていることとはまったく別の、遠く軌道を離れた誤った道へと入り込んでしまったのではないか。そう思い、クルアーンを読んでいても地獄の業火の部分や罪の部分しか目に入らず、恐怖と悲しみでいっぱいだった。見よう見まねでする礼拝も自室で隠れて泣きながらする日々だった。
イスラームに関して勉強するにも周囲に誰も知り合いのムスリムはいない。もっぱら本やネットで勉強するしか手立てがなく、その頃の私は今振り返ってみても、非常にストイックに「勉強」していたと思う。
それは「信仰」をしているというよりも、まるで学生のように文献を読むという感じだった。サイトで質問できる場所に礼拝の方法から何から細かく聞きすぎるほど質問していた。
日々心が辛くてたまらなかった私だが、ある日ネットで日本語の勉強会を聞く機会があった。なぜだかその勉強内容が非常に心に響き、質問等を送ってもよいとしていたそのシャイフに簡単な自己紹介と共にメールを送った。
そしてこのシャイフから驚くべき言葉をいただいたのだ。
そう。それは苦境にある私を、
「アッラーが愛しておられるからですよ」
ということだった。
「慰めでもなんでもなく実際に預言者さま(SAW)やその他アッラーに愛された方たちほど、みな苦境にあったのです」
と。さしたる内容を送ったわけではないのだがシャイフが送ってくれたこの言葉によって、それまでアッラーのお怒りと地獄への恐怖に縮こまっていた私に、まっすぐアッラーの方へ向かう強い光のようなものを感じた・・・。
そして、
「愛されているのか・・」
そう思うと涙があふれ、感謝するためにいったい何をすればいいのか、もっともっと知りたい、アッラーに近づいていきたい・・そう思うようになった。
悲しみの涙は感謝と謝罪の涙へと変わっていた。こうしてようやく信仰というすなわち「アッラーを想う」気持ちにたどり着いたのである。
「もう一度シャハーダしたい。」
そう思った私はエジプトでシャハーダするべく準備を始めた。なぜエジプトを選らんだか。もちろん始めに出会った動くムスリムはエジプト人だったし、
イスラーム法においてもエジプトのアズハル大学は私でさえ知っているほど有名だ。海外の宗教と思っていた家族や友人もいたため、そこでシャハダしたと言えば誰も文句ないだろう。それにアラビア語の証明証ももらえるのもちょっといいかな、というミーハーな考えもあった。
そうして一人でエジプトへ行き、アズハル大学で2度目のシャハーダをしたのである。行く前にほんの少しの間アラビア語を教えてくれたエジプト在住のエジプト人の先生が、そのすべてを助けてくれた。先生にとっても初めての証人ということで、私よりも緊張していたように思う。
そして、シャハダする前に、なぜイスラームを選んだのか?とイマームに聞かれた。
その時、最初の時と違い、多くの雑念がザザザザーーーと取り除かれていくのを感じた。それまでだったらあれこれ理由を説明しただろう。考えたのは数秒だったか・・。
英語だったが私ははっきりと、
「アッラー以外に私に全てを与えてくれる方はいないと分かったからです」
そう答えた。イマームはとても嬉しそうに
「スブハーナアッラー」
と言い、
「あなたはサーラという名前を希望していますね、サーラという意味を知っていますか?」
と聞いた。
「イブラーヒームの奥様の名前です。」
私がそう答えると、イマームは、
「そうです。そしてサーラには「幸せ」という意味があります。あなたの人生がこれからずっと幸せで恵まれたものでありますように」
この言葉を聞いた瞬間私は涙してしまった。なぜなら、私の名前は「幸恵」だったからだ。そう。自分で選んだと思っていた「サーラ」という名前は実はそうではなく、私が生まれた時私の父がつけてくれた名前であり、そしてそれは私が生まれる前からアッラーが私に選んでくださっていた名前だったのだと知った瞬間だった。
涙する私にこのことを聞いた先生もまた一緒に涙した。
「本当にアッラーはなんでもご存じだね。」
そう言いながら・・・
アルハムドリッラー。エジプトでシャハダ後の私は本当にすべてが変わった。やっと心底ムスリマになれた・・という喜びでいっぱいになれたのである。会う人会う人が「マブルーク(おめでとう!)」と喜びの言葉をかけてくれ、
私が買い物をするとお金を受け取ってくれない人もいたほどだった。あの地で感じた感動は今も鮮明に覚えている。
先生のお父様はサウジでイマームをされていた方だった。私の入信を聞き、すでに高齢で体調が思わしくなかったが、起き上がりベットに座ったまま、
「何かクルアーンは読めますか?」
と聞いた。とても恥ずかしかったがたどたどしくファーティハ章を読むと、とても優しく微笑んで、そっと先生に何かを手渡した。持ち運びがし易い小さなクルアーンだった。
先生のお母様はというと、それはもう私の息が止まるのではないかと思うほどに喜びながら抱擁し、その後私のために礼拝をささげてくれた。足が悪く椅子に座ったままの礼拝だったが、その礼拝はまさにアッラーへと向けられており、やり方ばかりにこだわっていた私のそれとはまったく違っていた。
これこそが礼拝なのか・・そう思わせてくれるすばらしい祈りだった。
こうして私は暖かな家族に囲まれて、本当に私は幸せだった。そして2週間という短い滞在中多くのモスクへ出向き礼拝した。
「日本に帰りたい。日本でイスラームを広めていきたい」
なぜかわからないが、礼拝するたびにその思いが強くなっていった。エジプトの料理も国も人々も大好きでたまらなかったが、そこに残るという選択は私の中にはなかった。
エジプトから帰国するまで全くといっていいほどトラブル一つなかった。
何事もスムーズで聞く人皆が驚くほどとても楽しいことばかりな人生初の一人旅だった。
これ以来、エジプトは私の第二の故郷となった。
それまでとちがい、恐怖に満ちていた物事が、しっかりとアッラーを見据え希望をもって感謝できるようになった。心からムスリムになれたという思いが、私の行いにニーヤを持たせてくれ、驚くほどに体調が回復し、仕事にも復帰、それから1年もしないうちに結婚もすることができた。
そして日本でイスラームを・・と望んだ私に、アッラーは日本人の夫を授けてくださった。住む場所は実家からずいぶんと離れてしまったが、結婚後ヒジャーブをし、仕事もイスラームの勉強もしながら夫と共にとても穏やかで楽しい日々を過ごしている。
もちろん病気が無くなったわけではないし今でも体調を崩すことは多々あるが、ムスリマになる以前のような先の見えぬ恐怖で眠れぬ夜を過ごすことは全くなくなった。
身体は苦痛を感じているのだが、むしろ不思議とその心の中は穏やかで、アッラーにズィクルできるという喜びで満たされるようになった。
あんなにイスラームについて猛反発していた両親も私の信仰を受け入れてくれつつある。
そして世界中に本当に多くの家族と思えるムスリム、ムスリマの兄弟姉妹たちと知り合い、日々助けられながら、その一員として共に祈れる喜びと共にウンマの力強さを感じている。
私が生まれてから忘れてしまっていたアッラーについて、こうしてやっと思い出し、感謝できるしもべとなれたことに2年たった今も心の底から喜び、感謝している。
アッラーのもとに帰り逝くその日まで、私がムスリムとして生き続けられますように。
全ての人たちにアッラーのお導きと祝福がありますように。
アーミーン。