12月27日をもって閉鎖となる千里の万博記念公園にある大阪国際児童文学館。私にはこの施設の存在を気づき、訪問・利用するのが遅すぎたと悔やまれてならない。
子どもの本は、公共図書館や学校図書館においても損耗がひどく、一定期間を超過すると廃棄され、新刊書をおくスペースに交代されてしまい、殆ど保存されることがない。また大学図書館や研究所の集書の対象外とされてしまう。その点で、国立国会図書館にもない多くの子どもの本を収集している大阪国際児童文学館は非常に貴重な文化遺産であった。
しかも当初は、東京在住であった児童文学者の鳥越信先生のコレクションをもとにしたが、児童文学だけではなく、漫画・アニメ・ヤングアダルト向けの恋愛小説本、紙芝居、児童雑誌、子ども向けの科学読み物や雑誌、さらにその付録など、約70万点の資料を集めている。児童文学の図書館であるというよりも、児童文化の総合博物館という機能をもつ施設と評価した方が正しい。出版文化が東京一辺倒となる状況で、関西における貴重な存在であった。ことに、明治の講談本である大阪で出版された「猿飛佐助」などの立川文庫をはじめ、「赤い鳥」・「少年倶楽部」・「のらくろ」・「冒険ダン吉」などをはじめ、ほぼここにしかない子どもの本や資料の存在は貴重である。
実はこの文学館は、子どもよりも大人・中高年にとってより有意義な施設であろう。私自身、両親の介護に疲れ、最先端を競う英語や数学を駆使する研究活動に疲れ、さらに授業で騒々しい学生に疲れ、ぼろぼろになったときに、帰宅中の電車の中、家の風呂の中で、ふと小中高のとき、学校図書館や学級文庫で読んだ本のことを思い出すことがある。表紙の装丁や中の挿絵など、不思議によく思い出す。もう一度読んでみたい。そのように思うときがある。
そのときに応えられるのが大阪国際児童文学館であった。たずねると、司書の方は、その絵本は、フランス語の原本と、日本語訳、出版社を変えた復刻本の全てがあると即座に答えてくださった。しかも、その本は紫外線をさえぎる特殊な透明カバーがなされ、分類ラベル、所蔵印、バーコード・シールなどもそのカバーの上からなされていた。しかもここでは、一般の図書館ならば廃棄されてしまう箱・帯・カバーも、すべて特殊な透明カバーのもとに保存されていた。つまり徹底して子どもの本を出版当時の原型そのままのかたちで保存しようとする姿勢が貫かれている。外箱も表紙の装丁も、ラベルやバーコード・シールなどがはられ封じられ、損なわれることなく、子どものときの記憶の状態のままで、再会できるのは大阪国際児童文学館の蔵書をおいては他ならない。
私は、ここ何回か連続して土日に通って、子どもの頃の記憶にある昭和40年代の本にめぐり合うことができた。それは、童話をはじめ、民話・伝説・考古学・歴史学・地理学に関する児童書である。特に、考古・歴史・地理に関する本については、今日の学問水準から見れば、明らかな誤りがあるが、当時の著者たちは必死な思いで、子どもたちにそれらの学問の成果を伝えようとしたことがひしひしとわかる。その誤りを含む内容も学史という観点からは貴重である。
研究者の利用も多い。職員の方は実質的な閉鎖や解雇が決まっているのに、最後まで、職務に献身的につとめて明るくふるまい、何回も同じことを繰り返してたずねる子どもたちの利用者にも誠実に応えている。カウンターで入館者に応対し、書庫に本を検索に出かけ、コピーサービスにあたるなど、席をあたためる暇もないくらい多忙である。
私はここに、自分の老後の余生の過ごし方を見つけた思いがしたが、本当にすでに遅かった。大学教員を定年退職後は学術書を読んで論戦を交える過酷な学究生活からは全面的に撤退して、むしろ大阪国際児童文学館に出向き、子どもたちのなかで、自分が幼いときに読んだ本に再会できる日々をすごしたかった。時々は出かけて、児童書を読みながら、幼かったときの自分のしあわせな日々の思い出を、元気だった両親や亡き家族との思いにだぶらせながら、美味しい食堂のコーヒーとビーフステーキを味わって、ゆったりとすごしたかった。そして、もし許されるならば、私自身が無給のボランテイアでよいから、ここで子どもの本を分類・整理する仕事に携わりたかった。でもその夢も、もうかなわない。
ここで発想の転換が必要なのではないか。お金やモノのフローのみを重視する資本主義の経済や政治のしくみのなかでは、財政が悪化し、不況となれば、大阪国際児童文学館のようなお金をもうけならない施設や活動は、真っ先に行革の対象として閉鎖だ、廃止だという議論となる。むしろ精神文化の面でのセーフテイネットづくりとも呼ぶべき、ストックを重視する資本主義を指向すべきではないか。
大阪国際児童文学館の70万点におよぶ蔵書や資料は、世界にまたとない貴重なストックである。それらは、散逸させれば、お金にはかえられない、もう二度と再現・購入できない文化的資源のストックである。電子化された社会であるからこそ、電子化できない貴重な情報でもある。
本来、大阪国際児童文学館は、これから、高齢化が進み、中高年が増加するなかで、幼いときの郷愁にひたりたい人々を全国から集客できる観光施設にもなりうる。子どもやその保護者世代はもとより、老若男女が集いうる、世代間交流が実現しうる、社会教育と地域活性化の施設となるであろう。そして児童文化の拠点として、子育て支援の機能を十分に果たすであろう。子どもの本は新しい本だけに次々と取り替えればよいものではない。子どもの本は消耗され、廃棄された、どこにも残っていないものとなってはならない。
来春四月以降、千里の大阪国際児童文学館の蔵書を受け入れる大阪府立中央図書館においては、図書と雑誌の受け入れのみが可能で、雑誌の付録などの資料が大量に廃棄されかねない状況であるという。何とかそれらの保存場所や寄託先が見つかるとよいのであるが、余りにも淋しく、むごすぎる現状である。(大学教員)