2013年11月03日
2013年10月27日
2013年10月26日
「コモンズ」という術語を使用しながらも現在ではほとんど顧みられることのなくなった日本語文献を、以下に概ね時系列にしたがって並べておく。
G・ハーディン(1972):
これはおそらく、ハーディン本人によって「コモンズの悲劇」論が日本に紹介された初めての機会である。ちなみに、当稿所収書籍は、「昭和四六年一一月二日から一二月二八日までの九回にわたって放送されたNHK市民大学講座「環境と人間」の内容を敷衍したり、新たな内容を盛り込んで起稿したものである」(宝月 1972: 396)。
このなかでハーディンは以下のように、コモンズの悲劇の同時代的実例として、捕鯨(漁獲)、産業廃棄物、そして福祉国家が伴う人口増加を挙げる。
いま、世界の大国で捕鯨を続けているのは、日本とソビエトの二国しかない。両国ともコモンズの中で捕鯨しているわけで、どちらの国も自国の利益は求めるから、当然、相手国がとる以前にクジラを捕獲しようとする。どちらの国も、クジラの情況にたいして固有の責任をもたされることにはならないわけなので、クジラは絶滅するまで捕獲されていく。
(ハーディン1972: 291)
たとえば私企業の国といわれるアメリカ合衆国で、大工場を擁する会社は廃液を、近くの河にたれ流したり、工場の近くを吹き過ぎる風の中にまき散らす。言いかえると、彼らは、水と空気を、自分の廃棄物を棄てるためのコモンズとして扱っている。だから汚染の問題点は私企業ということではなく、廃棄物投棄にコモンズ制度を利用しているという点にあることになる。
(ハーディン1972: 293)
福祉国家の考えをもちこむことは、とりもなおさず子どもの養育において私企業制度からコモンズの制度に切りかえることを意味するわけである。子どもたちは食物を、コモンズから得ることができる。ひとたびこのようなことを行なうと、責任は家族の肩からはずされて、国家にかぶせられることになる。これは力と責任が分離することを意味する。子どもを生む力をもつのは親であるが、子どもを生かしていく責任は国家が負っている。力と責任がこのように分離するのは、いつも感心できない。力と責任が分離していると、制御されたシステムというものは得られないのであり、力と責任は合致していなくてはならない。だから、二〇〇年前どころか一〇〇年前に比べても人口の増えかたがはるかに速くなっているのは、無理からぬことであって、それは、力と責任が分離してしまったからなのである。(ハーディン1972: 299)
しかしながら、ハーディンの最大の関心事であったはずの人口問題について、以下で取り上げる中村尚司と永安幸正は、ハーディンの主張にかいまみえる「偏狭な人種主義的傾向」(中村 1974: 52)あるいは「明らかにひどい人種的偏見」(永安 1976: 64)を指摘するのみで、自身らの議論の中心にはおいていない。
中村尚司(1974):
これは次の引用で言われるように、ハーディン(1972)への批判あるいは、その「コモンズ」という術語の用語法の否定を通じて「非市場的協約」概念を洗練するものであって、コモンズへの言及はハーディン(1972)の議論の紹介の範囲にほとんど留まっている。
ハーディン氏のいう「私企業」は、工場のまわりに大きな膜を張りめぐらして、外界の循環から遮断された閉鎖システムをなしている。(中略)しかし、現実の私企業は、産業廃棄物を原材料として再利用するような循環する回路をもたず、その大半が外部経済としての環境に大きな負担をかけることによって、発展してきたものである。したがって、内容的には「コモンズの悲劇」と呼ばれる制度にほぼ等しいのである。(中村 1974: 54)
ハーディン氏の「コモンズの悲劇」論に触発されて、非市場的協約という新しい概念にいくらかでも現実性を与えたい、というのがこの小論の目的であった。(中村 1974: 63)
なお、中村(1974)については次のような記述もなされている:
もっともエントロピー学派の中村(1974)は、ハーディン論文をふまえた論文で既に「コモンズ」の表記を用いていた。(三俣、嶋田、大野 2006: 25 fn8)
ここから下に出てくる永安幸正による論考は、ハーディン(1972)への批判を出発点としながら、そこからコモンズ概念を継承し、独自の概念を形成していくものである。
永安幸正(1976):
ハーディン(1972)の批判的検討を通じたコモンズ概念の独自整理.
まず第一に、ハーディンが「私企業」制度とよんでいる制度は、一部分今日の私企業の現実を示してはいるが、環境の利用について考える場合は、非現実的な設例であるというべきである。なぜなら、環境はこの場合、牧草地ということになっていて、それを各個別主体が区画し私的に利用するとしても、実際は他の主体の区画と完全に分離された区画を設定することは不可能である。物質エネルギーの流れという素材ないし実物の側面で環境をとらえれば、物質代謝系におけるあらゆる活動は、必ず何らかの「実物的な外部効果」を発生させるとみるべきである。その意味では「コモンズ」制度プラス「私企業」制度が現実の私企業制度の理論的描写である。
(永安 1976: 64)
永安幸正(1977a; 1977b):
世界秩序における「コモンズの原理」.
永安幸正(1979a: 8-9):
しかしながら、今日の世界秩序は、他方ではこうした全人類的原理とは異なる矛盾した原理を拡張しつつある。つまり、国家主権の拡大強化である。これは一九六〇年代から始まった「天然資源永久主権」の原理や、海域に関する国家主権の拡張に現れている。この動向はいわば国家的私的所有権の拡大、国家私権の拡張である。(中略)
以上が世界秩序に顕在化している矛盾した動向であるが、後者の国家的私権の拡張については、国家主権の制約という形で若干は前者の全人類的な人権原理に歩み寄る傾向が出ている。つまり、南極条約、深海底原則、海洋汚染防止条約などに加えて、新国際経済秩序樹立宣言などにおける公平の思想がそれである。これは「コモンズ」(共有資産)の原理であるが、いまだそれは国家私権のまえには微力なものでしかない。
永安幸正(1978a):
社会システム論からのコモンズ概念の整理.
永安幸正(1978b: 309 n1):
社会経済の構造転換にともなう私的領域と公共的領域との相互関連の変容という問題については、経済学はもちろん、一般に社会諸科学で共通の関心方向が展開してきている。経済学における公共経済論、贈与経済論、社会化論、法学における公法と私法の相互浸透、政治学における公論、行政、民主制論の変化、等々である。筆者はこれを「コモンズの原理」の顕在化というふうにみている。これは社会空間がユークリッド空間ではなく、非ユークリッド空間であるという認識である。
永安幸正(1978c: 74-3):
政治経済システムの認識は、歴史的現実の展開を反映して、それ自体で自足的とみなされた市場システムを中軸とする段階から、いわゆる「市場の失敗」(market failure)が重大なインパクトを体制認識に与え、非市場システムとしての政治経済システムへの模索が試みられている今日の段階へと、大きく変転してきている。ここには、市場システムの基体としての「交換システム」を成立させるための必要条件がみたされなくなり、いわゆる「コモンズの原理」が顕在化してくるという歴史的状況の転回が決定的に作用している。これに対応して、公共的領域が拡大し、そこにおける非交換経済としての grant economy をどのように制御していくかという新しい課題がますます重大となってきているのである。これは、第二次大戦以前、社会政策の登場などにおける「国家の経済への介入」を指していわれた「経済の政治化」に対し、より一層新しい段階の「経済の政治化」であり、あるいはむしろ「経済の社会化」とさえいってよいような内容をもってきているとみられる。
永安幸正(1979b: 25):
いわゆる「市場の欠落(失敗)」(market failure)、つまり一種の外部不経済としての公害などのように自然的な市場が存在しないもの。これは外部不経済だけでなく一般に「公共財」(public goods)と規定できる環境、物財、サービスの供給、制御に拡大される。それらを合体して「コモンズ」(commons 共有財)と呼ぶこともできる。
永安幸正(1980):
「社会非ユークリッド位相空間」としてのコモンズ概念の構築.
永安幸正(1981):
以上の自身の諸論考への加筆等:
「経」と「済」とは、人間社会の調和的な発展を実現し、人間一人ひとりの「善き生活」(有徳の生活)を完成し、社会の永続的な進化を可能にする営みにほかならないとされてきた。現代の歴史的状況においてこのような政治経済の本来的な課題を考察することは、経済における社会的組織化の在り方を問い直すことに他ならない。なぜなら、社会的存在としての人間における経世済民は、孤立的生活においてではなく、人間と人間との社会的連関においてのみ、現実的に問題となるからである。本書ではそれは、市場経済システムの分析、社会空間の本来的特質としての「コモンズの原理」の解明、非市場システムとしての贈与システム(grant system)の論理の検討、さらに新しい社会的組織化の原理となるべき公正(fairness)と正義(justice)の原理への問い、社会的自己組織化の中心的機能をになう社会的意思決定システムの様式の検討、に及んでいる。
(永安1981: ii; 1990: vi)
永安幸正(1986: 16-17):
永安(1981)について、次のように回顧している:
その頃、私はどういう事を考えていたかといえば、共同体史観の可能性であった。歴史の流れは市場的領域と非市場的領域の二つに分かれる。近代社会の動きは、市場的領域が拡大し、それに応じて非市場的領域が狭まっていく、あるいは崩壊するという歴史である。共同体論を最も見事に定式化して見せたのが、大塚久雄教授の『共同体の基礎理論』(岩波書店)であった。例えば政治思想史の丸山真男先生、あるいは民法の川島武宜先生とか、戦後日本の近代化思想をリードしてきた人々の考え方には、国家か、経済か、法かの違いはあっても、共通にこういう考え方があった。つまり、共同体的領域が崩壊して、経済学的に言えば市場の領域、社会学的には市民社会の領域が拡大することが、すなわち「近代化」である。だから農村共同体とか、あるいは都市における隣組、企業における主従関係だとか、そういった様々なものは「封建制の遺物」であって崩壊すべきもの、壊すべきものであり、否定しさるべきものである。こういう考え方が支配し、そして人々に正しいものとして受け入れられた。
従ってヨーロッパを見る時でも、市場か非市場か、市場か共同体か、市民社会か中世的封建的共同体か、といった図式が支配的であった。こういうヨーロッパ像が戦後ずっと支配してきた。私は多少疑問に感じ、世の中はそう単純には流れていないのではないか、「果してそうかな」と思いながら、そういう図式を勉強したものである。私の『政治経済学』に収めた「コモンズの原理」という章は、実はそういう見方に対するひそかな批判が込められているものなのである。これを理論化するためには十年かかった。何故十年かかったかと言うと、「非ユークリッド世界」というものを理解するということに十年かかったからである。(永安 1986: 16-17)
以上の文献ののち、玉野井芳郎によるIvan Illich著作の翻訳(1982; 1984)、また玉野井自身のコモンズ論(1985)、そして多辺田政弘のコモンズ論(1989; 1990)が展開され、これらが現在のコモンズ論に様々な影響を与えている。なお多辺田(1990)と同年に永安(1981)の改訂増補版(永安1990)も出版されている。
本書は、もともと方法論として、「システム論」を基礎とする「政治経済論」の領域での私の研究の一端である。世界システムにおける「コモンズの原理」(the principle of commons、共有地の原理)の台頭、正義と公正の理論、体制論としてのマルクス主義と自由主義の再検討、グルーバル化時代の国民経済の運営原理としての「歩留まり原理」(棲み分け原理)の提案など、個性的な主張を含めた。なかでもコモンズの原理は、地球が運命共同体となったいま、一層切実感を増してきていると確信している。(永安 1990: iii-iv)
最近は「国際公共財」(international public goods, global commons)の形成とか負担ということがいわれるが、これは安全保障、ルール、国際機関、科学技術の移転、国際社会保障、教育交流などを含む。こうした領域への貢献は「つながる力」向上への貢献であろう。
(永安 1990: 408)
玉野井芳郎や多辺田政弘らがローカルで具体的な事例に注目したのに対して、永安幸正はグローバルあるいは一般的な原理を探求しようとしたと言えるだろう。
Relevant short note:
参考文献
- G・ハーディン 著/長野敬 訳(1972)「人口爆発と環境問題」宝月欣二、吉良竜夫、岩城英夫 編『環境の科学(NHK市民大学叢書25)』、日本放送出版協会、283-304.
- 宝月欣二(1972)「あとがき」宝月欣二、吉良竜夫、岩城英夫 編『環境の科学(NHK市民大学叢書25)』、日本放送出版協会、396-397.
- 三俣学、嶋田大作、大野智彦(2006)「資源管理問題へのコモンズ論・ガバナンス論・社会関係資本論からの接近」『商大論集』第57巻 第3号、19-62.
- 永安幸正(1976)「社会体制と環境・福祉問題」現代体制論研究会 編『経済発展と社会福祉』税務経理協会、57-79.
- 永安幸正(1977a)「現代資本主義と世界領域秩序の転換」川西誠 編『現代法の新展開』新評論、157-174.
- 永安幸正(1977b)「国土と国民経済」中岡哲郎 編『自然と人間のための経済学』朝日新聞社(朝日選書)、180-208.
- 永安幸正(1978a)「社会システムの構造と認識」『社會科學討究(早稻田大學社會科學研究所)』第23巻 第3号、1-30.
- 永安幸正(1978b)「社会システムと公正の原理——ロールズの正義論をめぐって——」『麗沢大学紀要』第26巻、101-131 [312-282].
- 永安幸正(1978c)「社会的意思決定システムのパラダイム——経済・政治・社会領域の交渉——」『早稻田社會科學研究』第18号、73-104.
- 永安幸正(1979a)「現代経済文明と農業——主体性の確立を求めて——」『農業協同組合』1979年11月号、6-16.
- 永安幸正(1979b)「現代経済とインフレーション論——最近の展開から——」『麗沢大学紀要』第28巻、1-31 [47-17].
- 永安幸正(1980)「コモンズの原理と贈与システム—非市場システムへの模索—」『早稻田社會科學研究』第20号、25-52.
- 永安幸正(1981)『政治経済学』成文堂.
- 永安幸正(1986)「広義の経済学と生命系の社会科学——玉野井経済学の軌跡をめぐって——」『早稻田社會科學研究』第32号、1-36(永安幸正 1991『経済学のコスモロジー』新評論, 357-358, ただし文末は「です・ます」調).
- 永安幸正(1990)『政治経済学——グローバル時代のシステム論——〔改訂増補版〕』成文堂.
- 中村尚司(1974)「「コモンズの悲劇」と非市場的協約—新しいパラダイムを求めて—」『アジア経済』第15巻 第7号、51-64.
- 多辺田政弘(1989)「環境と人間の共存システムに関する経済学的考察——〈コモンズ〉の経済学に向けて——」『国民生活研究』第28巻 第4号、15-34.
- 多辺田政弘(1990)『コモンズの経済学』学陽書房.
- 玉野井芳郎(1985)「コモンズとしての海—沖縄における入浜権の根拠」『南島文化研究所所報』第27号(ただしh_kは以下を参照した:鶴見和子・新崎盛暉 編 1990『地域主義からの出発(玉野井芳郎著作集第3巻)』学陽書房、231-238、あるいは、「コモンズとしての海」 中村尚司、鶴見良行 編著 1995『コモンズの海』学陽書房、1-10).