人工内耳リハビリ日記:根拠に基づく医療の論文を読んで

  • 春から入学した大学院の課題で、根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine、EBM)に関する論文(中山, 2018)を読んで意見をまとめる課題がった。以下、提出した文章。

エビデンスに基づく医療(EBM)とは、「臨床研究によるエビデンス、医療者の熟練・専門性,患者の価値観・希望,そして患者の臨床的状況・環境を統合し、よりよい患者ケアのための意思決定を行うもの」であり、エビデンスはよりよい意思決定を支える要素の一つであると論文では述べられている。また、患者と医療者の合意形成の手法として共有意思決定(SDM)が注目されていること、SDMの過程は医療者と患者の相互作業の中でつくられ、時間の経過とともにかわっていくものであることが指摘されていた。

Whitney らによる臨床場面の4分類で、SDMが必要とされる場面として、直近の生命のリスクは高くないが不確実性が高い場面があげられていた。私が経験した人工内耳の埋め込み手術もこの種のSDMが必要とされる場面に相当するのではないかと考える。

人工内耳の埋め込みは、聴覚障害があるものの補聴器の効果が不十分である人に対しておこなう唯一の聴覚獲得法であるとされている(日本耳鼻咽喉科学会ウェブサイト「人工内耳について」より)。人工内耳は装用の効果に個人差があるとされており、健康な人と同じとまではいかないものの日常生活で困らないほどに聴力が回復したケースもいれば、装用効果が得られずに人工内耳の装用を断念し手話を第一言語としたろう者として生きる道を選ぶケースもある。聴力獲得の手術であるため、それ自体は生命が脅かされるリスクには直接関わらない(手術自体にリスクはもちろんあるが)。実際、私も昨年手術を受ける予定でいたが、コロナ禍により当初より数ヶ月先延ばしとなった。

人工内耳埋め込みを行うかどうかの意思決定も、SDMが重要ではないかと考えられる。個人的な体験をあげれば、私はオーディトリー・ニューロパシーという蝸牛神経の珍しい病気だと最終診断を4年前に受けた。言葉の聞き取りが困難であることが主な症状だが、補聴器を装用したものの効果は得られず、言葉の聞き取りに役立たない補聴器をとりあえず使いながら通院する日々であった。

実際論文を探してみてもこの病気での補聴器装用効果を支持する研究は少なく、効果は限定的とする知見が多かった。一方、ネットを通じて知り合った数少ない同じ病気の方々は複数人が人工内耳の装用に至ったことを知り、実際人工内耳の装用効果を示す論文や学会発表も知る機会があった。

その後聴力がさらに低下し、言葉の聞き取りがほとんどできなくなり、仕事にも差しつかえるようになった。病気の診断をつけてくれた主治医の先生に相談して人工内耳の埋め込み手術へと踏み切ることとなった。ちょうど言葉の聞き取りがほとんどできなくなった頃には、主治医の先生からも人工内耳をおすすめしたい気持ちがあるとの発言があった。

これまでの経過をふりかえったが、人工内耳の埋め込み手術という意思決定に向けては、いわゆるランダム化比較試験やシステマティックレビューといったエビデンスは使われていないことがうかがえよう。有病率すらはっきりした数値がないこの病気において、こうした厳密なレベルでのエビデンスがないからである。そのかわり、補聴器や人工内耳の装用効果の知見や同じ病気を持つ人々の状況、私自身の病状の変化や検査の結果、日常生活での状況、主治医の意見といったさまざまな情報が判断材料となって人工内耳を装用するという意思決定をおこなうこととなった。

手術後、聴力は軽度難聴レベルまで回復し、言葉の聞き取りについては依然として健聴には程遠いため現在もリハビリ中である。それでも静寂下での一対一では手術前には不可能だった会話ができるようになり、手術前と比較すると夢のようだとまで主治医の先生は言ってくれた。「人工内耳を装用する」という意思決定について自分自身納得しているところである。

文献

中山健夫. (2018). エビデンスに基づくリスク・ベネフィットのコミュニケーション: SDM〈 共有意思決定に向けて〉. YAKUGAKU ZASSHI, 138(3), 331-334.

人工内耳について 日本耳鼻咽喉科学会ウェブサイト http://www.jibika.or.jp/citizens/hochouki/naiji.html