人工内耳リハビリ日記:ナラティブの力

  • これも春から入学した大学院の課題で書いたもの。ナラティブがどのような力や意味を持つかについてまとめよ。以下、提出した文章を一部修正して載せる

私は障害のある研究者としインタビューを受けたことがある。インタビューデータを修士論文に使いたいと申し出たところ、データは語った人との共同著作物だからと快諾いただいた。修論では「人工内耳装用者の当事者研究」をテーマに自分の語りをデータの一つとして分析し、これまでの体験の経過を考察する予定である。

今年2月に行われたインタビューでは、インタビュアーと対話しながら自分の病気、蝸牛神経の神経障害であるオーディトリーニューロパシーとこれまでの経過を2時間ほど語った。

自分の病気がわかってから、これまでもSNSでのニュースフィード、書籍(難聴者の心理学的問題を考える会, 2020)、講演などで自分の体験を言葉にする機会はあった。こうした場での言葉とインタビューでの語りはどう違うのか。自分がインタビューを受けた体験にも言及しながら述べる。

佐藤(佐久間)(2021)も指摘しているように、インタビューでの語りはインタビュアーとインタビュイーとの対話の中でおこなわれる。インタビューを受けるにあたって、私もどのような内容を話すかあらかじめ考えていたのだが、実際にインタビューの場においてさまざまな問いかけがある中で記憶からさまざまな体験が呼び起こされた。資料も用意していたものの、結局その場で呼び起こされた記憶をもとに構成された内容を語っていった。

私の語りのデータを見ると「障害があるにも関わらず困難を乗り越えて成功した」といったような、よくあるステレオタイプな障害者像とは全く異なる語りになっていた。経験豊富なインタビュアーの技量も影響したと思われるが、対話の中で構成されていく語りは、典型的、もっといえば「ありがちな陳腐な」内容とは異なる、その人にしか語れないものとなっていた。語ることによって、典型的な姿とは異なるとらえ方を促されたように思われた。

次に、インタビューの語りを聴く人々も、その中でさまざまな感情が喚起され、自分の体験が記憶から引き出されるのではないか。DIPEx-Japanの「健康と病いの語り」サイトには障害学生の語りがある。さまざまな障害を持つ学生の語りを見ると、私は学生時代に自分について語る言葉を持っていなかったことを思い知らされる。学生時代、言葉の聞き取り困難の原因がわからなかったため、私はいかに他者にばれないようにふるまうかしか考えていなかった。学生時代におそらくインタビューの話があったとしても、自分には関わりのないことだと見向きもしなかったと思うし、受けたとしても何も語れなかったのではないか。

インタビューでの語りは、インタビューを視聴する人自身の感情や記憶を喚起させる力がある。そして、インタビューを視聴した人々にもしかるべき時期に自分について語るための土台を与えてくれると考える。

私のインタビューでの語りもいずれ公開される。もしインタビューを視聴した方から何らかの反応をいただくことがあれば、その内容も含めて修論では考察していきたい。

文献・ウェブサイト

佐藤(佐久間)りか (2021)患者の語りから医療者は何を学ぶのか 「健康と病いの語りデータベース」を,対話を通じた意思決定支援に生かす 週刊医学界新聞(レジデント号):第3407号 https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2021/3407_04

難聴者の心理学的問題を考える会(編)(2020) 難聴者と中途失聴者の心理学―聞こえにくさをかかえて生きる かもがわ出版