琴音ちゃんはカメムシを飼ってる。
晴れ渡る秋の空なんかには目もくれず、先生の暑苦しい声が耳に届いているのかいないのか、涼しげな顔で教科書に目を落とす琴音ちゃん。後ろからまわって来た手紙を無表情で前に渡す琴音ちゃん。普通の顔で教室の一部におさまっている琴音ちゃん。
琴音ちゃんは、カメムシを飼ってる。
* * * * *
あの日はピアノのレッスンだった。毎週水曜の学校帰り、お隣さんの椎太と二人、先生の家までバスで三十分。
小さい頃は何もかも椎太と一緒だった気がするけど、いつのまにか、共通点と言えばこのピアノのレッスンくらい。それだって昔は帰りも一緒に帰ってたけど、今じゃ、私は自分の番が終われば一人で勝手に帰っちゃう。
その日は椎太に頼まれた。
「今日さ、レッスンの順番かわってくんない?フットサルの試合あんだよね」
快くゆずってやった。クラブに塾に習い事、何かと忙しいのはお互い様だ。
椎太のピアノをちゃんと聴くのはずいぶん久しぶりだ。私が半年くらい前にやったところをつっかえながら弾いている。そういえば、隣の家からピアノの音が聞こえることなど、ここ最近ない。
椎太、やめるかもなあ、と、ぼんやり考えたことは実はどうでもよくて、問題は、椎太が逃げるように帰って、私のレッスンが終わったそのあと。
基本的にいつも先に帰ってるので知らなかったけど、私たちの次は、中学生の男の子みたいだった。これが、背がすらっとしてて、ちょっとかっこよくて、彼のレッスンが始まっても、私は帰るのが惜しくって、ついだらだらしちゃって、やっと部屋を出る頃にはもう、二曲目に移るところだった。
扉を後ろ手に閉めたところで、その曲は始まった。知らない曲だった。何か、ちょろちょろ流れる水が、いつの間にか竜の昇りそうな滝になっていくような感じの曲だった。
迫力だった。それでいて、深緑色の沼を思わせる静けさが漂う。
先生の家の壁にもたれて、息を吸うことも忘れたように、固まって音を聞いた。
彼が中3だとしても、私とはたったの四つ違い。私や椎太がいくら一生懸命練習しても、三、四年後にあんな風に弾けるようになるなんて、想像もつかない。私や椎太がさっきまでチントン鳴らしてた、同じピアノから出てる音だなんて、到底思えない。私は最後まで、しっかり聞いてしまった。
しかもその帰り、その中学生が同じバスになっちゃったうえに、降りたバス停まで一緒だったものだから、もう、私、すっかり興奮しちゃったんだった。
夕暮までにはまだ時間があったし、その日は宿題もなかった。それで、ちょっとだけ、跡をつけてみたりなんかしちゃったんだ。
中学生の男の子は、何棟も連なった集合住宅の門をくぐっていった。私はただ、その後ろ姿をぼーっと見ていた。
「真鈴ちゃん」
振り返ると、琴音ちゃんが立っていた。