立花 隆 著「自分史の書き方」(講談社2013年12月 刊)
この本は著者が「立教大学セカンドステージ大学(RSSC)」で開講した「現代史の中の自分史」という授業の実践記録である。
最初に著者は授業のタイトルになぜ「現代史の中の」という枕詞が付いたかについて一言述べている。それは、『「自分という人間」と、「自分が生きた時代」というものが不即不離の関係にあることをなにかにつけて意識してもらいたいことだ。』という事らしい。『といって、それはあくまで「そういう意識をもて」ということであって、自分史の中に時代論的な要素をなにか具体的に入れるよう指導したことではない。』という。これは肯ける話しである。
著者は言う。『自分史を書くのは、第一義的には自分のため、自分の存在確認のためだが、その次には、家族あるいは子孫のためである。家族(子孫)に真の自分がどんな人物であったかを知ってもらうためである。』
「自分史を書くのは、第一義的には自分のため、自分の存在確認のため」というのは肯けないが、それ以外は納得できる。
また、『人格形成期(幼年時代、子供時代、青年前期)の自分に関しては、誰でも自分の人生の記憶としてもっとも大切な部分がそこにあるという思いがするだろうが、彼ら(子供と配偶者)はそれについてはほとんどなにも知らないはずである。それは彼らにとって、自分たちが存在する以前の神話時代に属する物語なのだ。だから自分の書いた自分史を読んだときに、彼ら家族も、「初めて私なる人間の一端を知る」ことになるだろう』という。これも肯ける話しである。
そして、『個人に属する記憶は、せいぜい三代ぐらい続けば、あとは消えるにまかせておいていいだろう。』という。それならば、そのようなレベルで書けば良いという事だろう。しかし、三代ぐらい続けば良いというレベルは分からないので、自分で判断するしかないだろう。
著者、あるいはRSSCの講座は自分史という物語を書くことを要求している。その場合、『恥になる部分』には、ふたをしたまま、一切ふれない書き方もあるが、正面から向き合って書いた作品の方が相当読みごたえのあるものに仕上がる、という。
私は、自分史を物語にすると、こういう風に恣意的になるので記録を中心としたものにしたいと思う。
内容についてだが、『自分史とはなにかといえば、一言でいえば、いろんなエピソードの連鎖として、自分の人生を語っていくことである。』という。これも肯ける事である。
年表については次の様に言っている。
『自分史年表の骨格は、いわば、「履歴書(学歴・職歴)プラス個人生活史プラス家族史」みたいなものであるから、まずは、そのアウトラインを自分の思い出すままにメモ的に書いてみるところからはじめるのがよい。』この言葉は大変示唆に富む。
最後に講談社及び著者である立花隆氏は『立花隆の自分史俱楽部』というウェブページを作っている。参考にしたい。