2012年の活動記録

兵庫県立大学環境人間学部・宇高研究室 研究室学生の地域での活動

GiN  Gin-no-Bashamichi institute for Heritage Network

銀の馬車道ヘリテージネットワーク研究機構

まちづくり部門 2012年度 活動記録

GiN-FPU: Field Project Unit 2012

以下はこの年度に実施した主な活動の記録です。このサイトでは、GiNの活動の一部を紹介しております。

サイトの移転の都合でリンクが切れている場合もあります。ご了承ください。

日本ユネスコ協会 未来遺産登録!

登録支援をおこなった銀の馬車道が登録されました!

ラジオ関西『時間です!林編集長』出演

ラジオ関西から出演の依頼を受けて、2012年7月13日に銀の馬車道研究会の活動を紹介するためラジオに出演しました。金曜日『時間です!林編集長』の番組に出演し、出演時間は17時15分からの約5分間でした。

内容は今年7月1日から8月31日までJR西日本の姫路駅から播但線生野駅までの各14駅に貼り出している、宇高研究室の4回生5人で作製した銀の馬車道RPポスターについてでした。

以下に番組での質問とその返答を簡単にまとめています。

質問1:銀の馬車道研究会ではどのような研究を行っているのか。

返答:まち歩きをその地域に住む住民と研究室の学生とで行い、ワークショップをした後、まち歩きマップをつくった。卒業論文にとりあげ地域活性化についてなど様々な研究を多くの方から支援・指導をいただきながら進めている。

質問2:今回つくられたポスターはどのようなものか。

返答:研究室4回生5名で銀の馬車道の認知度向上をねらって作製したオリジナルPRポスター。JR姫路駅から生野駅までの各駅に掲示しており、生野から飾磨までの見所スポットをつなぐリレーポスター。キャラクターもポイント。

質問3:おすすめスポットはどこか。

返答:馬車道のスタート地点と終着点である生野と飾磨も見所が多くおすすめであるが、福崎の三木家や寺前の銀の馬車道交流館もおすすめ。

質問4:認知度のパーセントは。

返答:はっきりした数字は今わからないが、まだまだ認知度は低いのでポスターを見て多くの人に知ってもらいたい。

質問5:キャラクターの名前の募集について。

返答:PRキャラクターの名前募集をしており、現在100名ほどから応募がきている。発表は8月上旬銀の馬車道研究会のHPにて発表予定。

質問6:今後どのようにPRしていくか。

返答:毎年研究室に新しいメンバーを迎え、フレッシュなアイディアを出し合い活動しているので、今後のメンバーに期待している。

ラジオでも研究室の活動を伝えることができてよかったです。ポスターでのPRに加え、更に多くの人に銀の馬車道を知ってもらい、実際に足を運んでもらえるようになれば嬉しいです。

粟賀の町 その1:フィールドワーク記録

5月18日、ゼミの活動として粟賀の町へ行った。山並みが立ち並んでおり、広々とした穏やかな町という印象が持てた。自動車が行きかったり、ビルが立ち並んだり…といった場所に住んでいる私にとっては、普段では見られない景色ばかりでとても驚いた。今回、街づくりについての話し合いは神河町役場・神崎市庁舎にて行われた。

はじめに、今の粟賀の町そして近隣の地域の景観などを簡単に説明してもらい、ここから街づくりをしていくにはどうしたらよいのかというのが話し合われた。

街づくりをするにあたって、まずは“住民の意識が大事”ということが挙げられた。一部の人たちで作り上げるのではなく、できるだけ多くの住民に協力をしてもらうことで、盛り上がり(町の活性化)につながる。また、学生とも触れ合う機会をつくり、話しながら歩く。街並みマップ作りにあたって、街歩きをして実際に町を見て、そこの住民の人たちと触れ合い、一人ひとりが実感することが大事という意見が交わされた。空き家などの場所をチェックし、特産物などを販売するのはどうだろうか、という意見も…しかし、急に街歩きというのは抵抗があり、なかなか人も集まらないのではないか…という意見もあり、ではまず初めに顔合わせということでお茶会のような気楽に集まれる場を設け、住民たちと触れ合ってみようという話があがった。そこで、次に集まれるのはいつかということも話にでており、具体的に街づくりが始まることが実感できた。

わたしたち学生にとって実際に街づくりに関わっていくというのは、初めての経験で分からないことが多く、住民の皆さんとうまくやっていけるのか、急に来た学生たちを受け入れてもらえるのかと、不安要素も多くある。わたしたちはまだ粟賀の町を少し寄った程度で、まだ何も知らない状態である。しかしこれから実際に住民の皆さんと触れ合い、楽しみながら、街づくり計画をよいものにしていきたいと思う。

生野:フィールドワーク記録

今回の調査では、生野銀山から生野駅までの道のりを歩きながら生野のまちを散策しました。生野に残されている歴史的な町並みや美しい自然から、町を活性化しよいものは残していこうとする地域住民の取り組みを感じ取ることができました。

口銀谷銀山町ミュージアムセンターでは、銀の馬車道の歴史や概要、生野銀山に関する説明などが展示されていました。建物は旧浅田邸が使われているそうで、当時の空気を感じながら銀の馬車道について学ぶことができる空間となっていました。その他に、季節の行事を大切に守っていこうということで、5月人形も展示されていました。ちなみに生野では旧暦で考えるため、5月の節句は6月5日だそうです。

生野まちづくり工房井筒屋も古い屋敷が使われており、地域住民によるあんこうの手作りグッズやクッキーなどが販売されていました。この地域ではオオサンショウウオのことあんこうと呼ぶと、井筒屋の方が教えてくれました。

町には至る所にこいのぼりが飾ってあり、これも伝統行事を守ろうとしているのだと思いました。また、看板も多く設置されており、観光者向けに歩きやすい街並み造りが進んでいると感じました。

生野駅に向かう途中にはトロッコ道というものがありました。当時使われていた鉱山専用輸送路跡のようです。通りすがりの地元の方が解説をしてくれました。生野町の方々は人の良い方ばかりで、駅でバスのことについて教えてくれたり、集合写真を撮っていただいたりと、今回の調査の手助けをしてもらえました。

今回の調査では、まちを自分たちの足で実際に歩くことで生野のまちの伝統文化や歴史、空気を感じることができました。この調査で経験したことを、次からの活動に繋げていきたいと思います。

生野銀山:フィールドワーク記録

生野の駅からバスで山の麓に行き、徒歩で整備された道路を上って行くと菊の御紋が入った生野銀山の石門があった。近くに設置されているスピーカーからはバラードが流れていた。

大同2年(807年)に発見されたと伝えられている生野銀山は開坑1200年が経ち、織田~徳川の時代では財産源となる「宝の山」とされていた。資料館には膨大な年表の中に山の断面模型があり、アリの巣のような山の頂上から巡らされた穴の中に多くの人形が様々な仕事をしていた。鉱石を外に運搬する人や坑内に空気を送る人(風廻し)、湧き出る水を汲み上げる人(水替え) など、江戸時代末期には地底200mの深さにまで達していた暗い中、サザエの殻に菜種油を入れた照明を片手に暗い穴の中を手で掘っていた。

銀山内を見学すると、掘られた穴の中に多くの等身大の人形が置かれていて当時の様子を再現していた。掘り進む穴である狸掘は四つん這いにならないと進めないのだが、頭上のあらゆる所に巡らされていた。穴を支える柱はヒノキで出来ていて、水の吸収を防ぐ為に細い方(根っこに近くない方)を下にして置くという工夫がなされていた。中は肌寒く水などが漏れている場所があり、人形の薄い着物からして当時とても寒い中、いつ掘った場所から水が噴き出してくるかわからない状況で働く恐怖を感じた。

銀山を案内してくれた施設の人の話だと、鉱石によって人々の生活が豊かになったと同時に、銀山内の人はケイハイという肺の病気に、近くに住んでいる家族は公害に悩まされていたそうだ。鉱石発掘の人体に対するリスクは明治以降の機械などを使う時代になっても変わらず、マスクをして働いていた。

生野銀山は昭和48年(1973年)に閉山され、今は観光施設となっている。肌寒い銀山内は日本酒やワインが熟成するのに適するらしく、銀山内でねかされていたお酒はお店で売られていた。日本ではかつて鉱石で栄えた様々な場所が生野銀山と同じ歴史を辿っている。

見学より私たちの生活は、かつて人々が命がけで仕事をしていたことから成り立っていたと感じた。今後私たちはさらなる資源を発見する必要もあるが、生野銀山のように一度栄えた町が他の方法でまた活気立つ方法を探すことも大切なことではないだろうか

粟賀の町 その2:フィールドワーク記録

先日行った粟賀・中村地区で今回は住民の方々と「まちあるき」を行った。台風は去り、町歩き日和となった。

まず、顔合わせと意見交換が粟賀の公民館行われた。たくさんの住民の方にきていただけたことに、とても驚いた。意見交換会では、私たちの研究室でどのようなことをしているのか、粟賀をどのようにしていきたいのかなどを話した。また、午前中は私たち学生のみで粟賀のまちを歩いたのでそのとき思ったことや、疑問に思ったことなども聞くことができた。この意見交換会を設けたことで、住民の方の生の意見や考えに触れることができたとおもう。この話し合いで話された内容などは、今後の粟賀マップの作成にも役立てていきたい。

そのあとにまちあるきが行われた。まちあるきではむかし宿場が連なっていた銀の馬車道を歩いた。この道一帯の店には屋号が付いて、酒屋さんや薬屋さんだったそうだ。生野屋や中村屋など全部で16個あった。この道には屋号当時の建物も多く残っていた。ここ粟賀の馬車道のシンボル的な町屋はとても立派なものだった。建物的にも大きく、堂々とした佇まいであった。今でも炊事場は活用されているそうだが、他は使っていないらしい。ほかにも時が経つにつれて使われなくなったり、必要がなくなったりして壊して更地になっているところもあった。古く、趣のある建物は味わい深い雰囲気を醸し出していて、とても魅力的であったのに潰してしまっているものがあるのは残念だと感じた。

また、潰してはいなくても全く使われていない空き家の状態になっているものも多く、何か活用していけたらと考えた。また、未だに活用されている建物には改築されているものもあり、その改築の仕方にも景観保全のために工夫が必要だと思った。

飾磨まちあるき+ワークショップの実施運営

平成24年12月4日、飾磨公民館及び飾磨校区地域遺産場所において“飾磨津町並み発見「飾磨グルメ町あるき」”が飾磨校区地域夢プラン事業・飾磨校区県民広場事業・飾磨公民館外講座の主催で開催され、飾磨の住民の方々や建築士会まちづくり委員、兵庫県立大学・明石高専の学生など約120名が参加し、賑わいと活気ある町歩きとなりました。

銀の馬車道研究会による飾磨校区内での町あるきは過去にも実施しており、それらは「見ること」「歩くこと」に終始していました。そのため、今年度は過去の町あるきで作製した「おさんぽマップ」をもとに町を歩き、多くの人にとって思い出深くこだわりの強い「食」をテーマとして住民の方々の話をうかがい、飾磨の魅力を「次世代へ伝えること」のきっかけづくりをねらいとしました。

校区内に定めた3つのコースを6班にわけて歩き、住民の方々や、町並みに関する専門知識のある建築士会の方からお話をうかがい、町歩き後のワークショップでお話をまとめました。

飾磨の「おいしいもの」「思い出の食べ物」「食べ物の思いで」をめぐり、地域に住む人にしかわからないお話がたくさん聞けました。以下に町歩きで聞いたお話の例を紹介します。

約50年前は年末になると愛媛や広島から来るみかん舟が楽しみだった。今でもたまに来る。

水路に浮かぶカキ舟は風情がありよかった。今はないがまたあの姿がみたい。

幼い頃祭りの時に買っていた駄菓子は綿菓子とハッカ。ハッカは筒入っている粉を吸うもの。

海が近いから、寿司や穴子など魚がおいしい。

商店街にはキャンディー(アイスクリーム)屋さんが数多くあった。