2006年の活動記録

兵庫県立大学環境人間学部・宇高研究室 研究室学生の地域での活動

GiN  Gin-no-Bashamichi institute for Heritage Network

銀の馬車道ヘリテージネットワーク研究機構

まちづくり部門 2006年度 活動記録

GiN-FPU: Field Project Unit 2006

以下はこの年度に実施した主な活動の記録です。このサイトでは、GiNの活動の一部を紹介しております。

サイトの移転の都合でリンクが切れている場合もあります。ご了承ください。

その1 銀の馬車道「お散歩道」案内

生野から飾磨までつづく、銀の馬車道を楽しんでウォーキングしていただくための、おすすめコースをご用意いたしました。

生野 ~ 銀の馬車道「お散歩道」案内 ~

銀の馬車道の出発点としての生野が出来るのは明治時代のことですが、銀山としての歴史は古く室町時代までさかのぼります。各時代を見てみるとそのときを動かしていた人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは皆、生野銀山を直轄地として支配しています。銀山が民営化されるのは明治末のことです。

これを考えると、日本の歴史は生野という町を中心として動いてきたといっても過言では無いと思います。

まちを歩いていると、古い民家が多く残っており昔ながらの懐かしい感じにひたることが出来ると思います。一里塚跡や両国橋番所跡、トロッコ軌道跡など歴史を感じさせるものも現存しています。また、生野書院やまちづくり工房井筒屋など、立ち寄れる場所もたくさんあるので、楽しく歩けること間違いないと思います。

銀山に行く際は車かバスを利用するといいですよ。

寺前 ~ 銀の馬車道「お散歩道」案内 ~

神河町寺前には、お寺など古くからのものがあり歴史を感じることが出来ます。 駅から少し歩いて坂道を登っていくと、丘の上にお寺が見えてきます。「最明寺」というお寺で、そこの庭からは寺前集落の歴史的景観を眺めることができます。 景色が良く空気もきれいなのでなんだかスッとした気分になれます。

駅前の道を進んでいくと、「荒木商店」があります。荒木商店は、明治から続く老舗で、今も荒木商店オリジナルのお菓子が売ってあります。季節によってお菓子も変わるそうので、行く度にどんなお菓子が売ってあるのか楽しみになりますね。

屋形 ~ 銀の馬車道「お散歩道」案内 ~

市川町屋形地区は昔、市川を渡る渡し船が設けられていたことから、宿場町として発達していました。

屋形には、上組地蔵、中組地蔵、下組地蔵という3つの地蔵があり、それにまつわる少し不思議な話があります。屋形地区では今まで子どもの交通事故が無いそうです。それは、地蔵にお参りしているので地蔵に守られているのではないかと言われているそうです。

また、中組み地蔵の場所に行くと、ある”普通と違う点”に気づくことができます。それは、行った人にしか分かりません。行ってみて見つけてみてください!

福崎 ~ 銀の馬車道「お散歩道」案内 ~

今では交通の便もよく、播但地域の中心地として発達している福崎町。 しかし、目を凝らして見てみるとあちらこちらで馬車道当時の面影が見えてきます。

残念ながら旧福崎警察署は無くなってしまいましたが、大庄屋として栄えた三木家や小国家の屋敷、民俗学者柳田國男の生家や彼の遊び場となっていた鈴の森神社などが残っています。建物ばかりではなく、河童が出たという伝説や、ため池に残る謎の灯籠など見所満載です。

歴史好きな方には福崎は歩いていて楽しいところではないでしょうか。

また、この地域の特産品である「もちむぎ」を使った料理を食べれる「もちむぎの館」はまちあるきの休憩所として利用することも可能ですよ。

飾磨 ~ 銀の馬車道「お散歩道」案内 ~

飾磨駅を出るとそこは昔ながらの商店街。昔から続くお店もあるようで、その看板からは歴史を感じ取ることができます。

飾磨のまちにはどこか懐かしい空気が流れています。子どものころの原風景をもう一度見たいという方はぜひ飾磨を歩いてみてください。お散歩コースを脱線したとしてもきっと魅力的な景色を発見できると思いますよ。

銀の馬車道の終着点ともいえる飾磨は水路の非常に多い地域です。家々の間を細い水路が走る様子は水路が人々の生活の一部であったことをうかがわせます。その水路に発着する何隻もの船を見ながら、当時の人は何を思ったのでしょうか。そのようなことを想像しながら飾磨のまちを歩いてみるのもおもしろいかもしれません。

その2 「銀の馬車道博士」の講義室

「銀の馬車道博士」の講義室では、かつて銀の馬車道が走っていた地域にお住まいで、歴史や文化に詳しい博士の方々からお伺いしたお話をもとに、対話形式で各地の情報をまとめました。これから銀の馬車道を訪れる方はルート設定のご参考に、すでに歩かれたことのある方は銀の馬車道をより深く知るためにご活用ください。

福本周辺について ・・・ 宮永博士のお話

ここ西播磨には、生野から姫路に続く「銀の道」として昔から栄えてきた道路が存在した。

9月4日の「銀の馬車道探検隊」では、このプロジェクトの先駆けとして郷土史の宮永肇博士のお話を聞き「銀の道」のことについての勉強会が行われた。

宮永博士は、「『銀の馬車道』の基本的な知識を共有して、後々の手がかりとなるような文献の紹介をしたい」と約2時間、「銀の馬車道」を探索する上で手がかりとなる話が行われた。 この集まりには、銀の馬車道沿線に在る町のビジョン委員や青年会議所メンバー、兵庫県立大学の学生などさまざまな立場の人が参加した。 その人たち誰もが、「大変興味深い話でした」「普段知ることのない話を聞けてすごく勉強になりました」など宮永博士に対し、前向きな感想を語っていた。 それでは、宮永博士に銀の馬車道について聞いてみることにしましょう。

---こんにちは宮永さん。今回は銀の馬車道博士のインタビューということで我々も少し緊張しておりますが、今から銀の馬車道についていくつか質問をしてみたいと思います。銀の馬車道とは一体なんのことでしょうか?

宮永: 銀の馬車道とは、明治時代に作られた生野銀山と飾磨港をつなぐ馬車専用の道のことです。生野銀山で採掘された銀を運ぶために日本初の高速道路としてつくられたんですよ。

---では誰が作ったのですか?

宮永: 当時の日本は諸外国に比べ産業の発展が遅れていたので、外国人の技師を国内に呼んで手助けしてもらっていました。銀の馬車道もその中の一人、フランス人のレオン・シスロイ技師を中心として作ったんですよ。

---なるほど、そのころの日本は今みたいに豊かな国ではなかったんですね。

---次の質問です。なぜ道路という陸上輸送形式になったのですか?

宮永: 輸送するのに考えられた方法は全部で3つあります。1つは鉄道。それは莫大な費用がかかる。その割に輸送量が少ないため却下されました。 2つめは舟運。市川を利用した輸送案でしたが、工事に膨大なお金がかかり、水量の少ない市川では渇水の恐れがありました。そして最後に、馬車道として広くて大きな道路を作る。今までは細く曲がりくねった道しかありませんでしたから。 馬車道は昔からあった街道をつなげていってできた道であるため、一からつくる他の2つと違って費用がかからなかったわけです。今でもその道路は県道や国道として利用されている部分もありますから、歴史を感じさせますね。

---市川では江戸時代に「高瀬舟」と呼ばれる船で運送を行っていたと聞いたんですが、銀は運べなかったのですか?

宮永: 高瀬舟は川の浅瀬でも通れるように、底を平らにした川舟のことです。舟には3トンほどの荷物を積むことができ、実際に銀山で採掘された銀や銅を運んでいたそうです。しかし、先ほど言ったとおり市川は水量が少なく、石が多いため舟の航行が困難です。加えて渇水の恐れが出てくるために安定した輸送ができないんですね。 そのために馬車道になったと思われます。余談ですが、江戸時代では市川の舟運によって日本海と瀬戸内海をつなごうという動きもあったそうです。江戸時代は海運を利用して年貢米を輸送していたこともあって、日本海側の地方では下関を経由して大阪や江戸に米を届けていたんです。 そのため非常に長い距離を航行しなければならず、日本海と瀬戸内海を船で結ぶというのは大変望まれていたことなんです。結局は陸上輸送と舟運との仕事バランスの崩壊が懸念されたため実現はされなかったようですけど。(笑)

---ありがとうございます。 馬車道の話に戻りますが、当時の馬車道はいったいどのようなものだったんですか?今の道路のようにアスファルト舗装などされていたんですか?

宮永: いえいえ、とんでもありません。(笑)当時の馬車道は砂利道だったんです。砂利道といっても普通の砂利道ではなくて、目の粗い石の順に敷きつめた「マクアダム式」と呼ばれる技術でつくられた道路だったんです。車や馬車はそのおかげでなめらかに走ることができたそうですよ。

---生野銀山はいつから採掘を始めたんですか?

宮永: 銀が発見されたのは807年で、1542年に山名祐豊(すけとよ)が銀山として開発し、そこから本格的に採掘が行われるようになったそうです。その後、時代の移り変わりとともに領主が入れ替わり、織田信長や豊臣秀吉などが所有した後、徳川家康によって開かれた江戸幕府では直轄領となり日本の発展に貢献していったんです。

---織田信長や豊臣秀吉の名

前が出ているなんて結構メジャーな人物と関わりが多いですね。歴史的にかなり重要な土地になっているんじゃないですか?

宮永: そうなんですよ。この土地は羽柴秀吉が中国攻めをする際に本拠地であった姫路城から第一に侵攻し、生野銀山を手中に入れます。ここは敵ににらみをきかせ、且つ銀山の資源確保も担う、秀吉にとって中国攻めの戦略上最も重要な地域だったんです。結果、中国攻めは成功し日本は秀吉によって天下統一されるわけですが、生野銀山のお陰と言えない事もないでしょうね。(笑)

---馬車道のできる以前の時代、そうですね江戸時代はどのように銀は運ばれていたんですか? 宮永: それは「生野銀山絵巻」にその様子が書かれています。「銀の道中」と呼ばれる一行が大阪に向けて運搬していたようです。住民はこれに遭遇すると「お金が通る」として道端に土下座してやり過ごしていたようです。しかし、これについては不明な部分が多く定かになっていません。今後の検証に期待しましょう。(笑)

---ありがとうございました。では最後の質問をさせていただきます。銀の馬車道の一部が今の生野高校の生徒たちの通学路として使われていると聞いたのですが、本当なんですか?

宮永: ええ、そうです。ヨーデルの森のそばを通る山沿いの道がかつての銀の馬車道なんです。生野高校に行くには国道312号線を通らなくてはならなかったのですが、交通量が多くあぶなかったんです。 この道を通学専用道として設置することで、危険が減ったことは喜ばしいことです。

---宮永さん、多くの質問に答えてくださって本当にありがとうございました。質問は終わりです。これで銀の馬車道のすべてを知ることができたわけではないでしょうが、かなり勉強できた気がします。

宮永: ええ。私もまだまだ勉強不足ですが、また機会を見つけてもう少し深く勉強したいと思っています。

「銀の馬車道博士」宮永肇さんのインタビューはこれで終わりです。 次回の更新にこうご期待を!! 

飾磨を中心に … 木谷博士のお話

10月25日、私たちは飾磨を訪れた。駅を出るとそこから商店街が続いていた。 ちょっとレトロな建物や「電気風呂」という看板も見かけたり、飾磨にはどんなおもしろいストーリーがあるのかと期待に胸を膨らませ、木谷様のお宅を目指す。 いくつかの角を曲がり、細い道を抜けると木谷様のお宅があった。歴史を感じさせる町屋。その立派な外観に目を引かれつつ中へ・・・

--- さっそくなんですが、飾磨の水路について教えてください。

木谷: 水路は、主に姫路藩から飾磨の米倉に米を運ぶときに活用されていたみたいですね。

--- 飾磨のまちかどマップを見ると西のほうにお寺がたくさんあるのですが、何か意味があったのですか。

木谷:お寺は、昔、お台場と呼ばれていて、緊急時に寺の鐘で警告していたみたいです。つき方によって寺から寺へ順番に伝達していったみたいですよ。どうして飾磨の西のほうにお寺が多いのかは、私にもちょっとわかりません。ただ広い水路に面していますので、そこを見張るという役割があったのかもしれませんね。 

--- 銀の馬車道とフランス人の関係というのはどのようなものだったのでしょうか。

木谷:銀の馬車道には、シスレイというフランス人が大きな影響を与えています。当時、シスレイの通訳をしていた浅田英吉という人がいるのですが、その人は、年間に70万もの給料をもらっていたんです。このころは1000円で家が建つ時代でしたから、いかに銀の馬車道事業に力が入れられていたのかがわかりますね。

--- 銀の馬車道には大きな期待がよせられていたんですね。

木谷: シスレイは、飾磨にある浅田化学工業とも深い関わりがあります。しかし、浅田化学の外壁はレンガなのですが、実はここのレンガはフランス積みではなくてイギリス積みです。なぜあえてイギリス積みにしたのでしょうね。浅田化学の壁を見るとせりもち構造というアーチ型の構造が見られます。これはフランスの名残です。当時日本にはなかった技術ですから。もともとレンガで作られていたのが、コンクリートでもされるようになったんです。

--- 飾磨で昔から続いているお店があれば教えていただきたいのですが。

木谷: それだったら私の家かな。私のおじいさんが「木谷商店」というお店を営んでいて生野銀山と取引をしていたそうなんです。ちゃんと帳簿も残っていて1ヶ月に2300トンと書いてあります。この「ト」というのは部外者という意味なんですよ。

そう言いながら何枚もの紙が綴じられた帳簿を見せてくださった。そこには確かに「生野銀山」の文字。銀の馬車道が遠い生野から飾磨まで続いていたことを改めて実感した。

木谷: 私の家の裏から家島への船がでていたそうです。また、私の家は馬車をひくための馬を管理する仕事も任されていました。

---それは木谷商店がたくさんの馬を飼っていたということでしょうか。

木谷:いいえ。137頭の馬の管理を任されていたのですが、その馬を家々に分散させて管理させていたんです。事務所では、主にえさの管理をしていたようです。ちなみに私の家の前の道なんですが、幅は今も昔も同じです。3~4メートルくらい。車がなかった当時としては広いほうですよね。

木谷博士のお宅には、古い資料がたくさん残っており、そのなかには地域ごとに昔の豪商をピックアップしてその外観を見開きでまとめた本があり、それをめくっていると「木谷商店」とあった。

--- これ、木谷商店が載ってますね。

木谷: そうなんですよ。ちゃんと昔のお店の様子がわかるでしょう。

その絵の中には、木谷商店の裏手にある水路も描かれていた。この他たくさん残っている資料を見ても木谷商店の歴史が伝わってきた。これらを見ているだけで1日が終わってしまいそうなくらい興味深いものばかりだった。

木谷: 歴史が関係しているのかはわからないですが、駅の前の商店街にはフランス語で名前をつけている店が多いですね。銀の馬車道にはフランス人がおおいに関係していますから。サンジェルマ ン、ラムール、ロワールなど。ラムールは愛という意味なんですよ。 

帰り道に注意して看板をみていると、これら3つのお店を見つけることができた。意識して名前をつけたかはわからないが、飾磨に名前がフランス語のお店が3つもあるということは、単なる偶然ではないような気がした。

 

生野の歴史探訪 ・・・ 藤本博士

11月20日、探検隊は藤本様の案内で生野のまちあるきを実施した。 今回、異例の大人数、総勢20名で探索することとなった。

駅から銀の馬車道ゆかりの地を散策するコースである。生野の伝統的な赤い「生野瓦」、カラミ石・・・それらがおりなす生野独特の世界がある。歴史を感じさせる古い宿場町を通り抜け、いざ銀山の歴史探訪へ!!

--- 藤本さん、銀の馬車道の出発点はこの生野ということですが、実は、この地についてあまり知りません。銀の 馬車道の原点、お話しいただけることとても楽しみにして来ました。よろしくお願いします。 そもそも、銀の馬車道を作るきっかけとなったのは何だったのでしょうか? もともとある道ではダメだったのですか?

藤本: 銀の馬車道は治維新後、生野銀山から銀を運び出したり、機械や物資を運び入れるための道なんです。 江戸時代までの道は、見通しを悪くするために、直線ではなく、曲がり角がたくさんある細い道が多かったのです。それでは外国から導入された大きな機械を通すことができなかったので、銀の馬車道を作ったんですよ。

--- 商業用の考えから始まったのですね。生野銀山から運び出された銀は、今ある銀の馬車道を通ったわけですよね?どこへ運ばれたのですか。

藤本: もちろんそうです。しかし、銀だけではなく、精錬所を動かすための動力である石炭を運ぶのにも使われたんです。石炭は九州から飾磨へ。同時に産出した金・銀を生野から飾磨へ、そして大阪へ輸送するために生野と飾磨を結ぶことが必要になったんです。

藤本: ここが徳川時代の番所であった両国橋です。当時この川幅は15~20mあったんですよ。

--- 番所?ここでは何をしていたのですか?

藤本:この両国橋は、大阪などの両国橋と同じ意味合いで播磨と但馬の国境となっていました。関所の役割は、北の鉱山へ入る人の制限、米などの食料などの持ちこみ税徴収、代官所に黙って銀の持ち出しをさせないことなどでした。夜の10時には門が閉まってしまい、翌朝6時までは鉱山へ戻れなくなってしまったそうです。

--- そんな厳重に取り締まられてたんですか?!やはり銀ともなると慎重になるんですね。馬車道の付近にはこういう歴史が散らばっているから楽しいんですよね。

藤本: 少し長くなりますよ(笑) 明治維新の4年前(徳川幕府の末期)、王政復古・打倒徳川幕府の軍資金調達のため、当時勤皇運動の盛んだった長州の若者により、幕府の資金源である生野銀山の代官所を占領しようとしました。この地で明治維新の狼煙(のろし)をあげれば、と京都・大阪・鳥取などからの助けを期待したが、駆けつけてはくれませんでした。 逆に姫路・豊岡・出石など当時の藩の兵隊が代官所に攻めあがってくる事となり、時期尚早だということで、再起を計り集まった勤皇の志士約50人・勤皇の志をもつ但馬の農民2000人は3日で解散へと至った。 志士のうちは長州・大阪に帰る途中、約半分の人が捕まり京都で殺されてしまいました。 結果としては悲惨でしたが、明治維新の先駆けとなる歴史的事件となしました。これを記念して昭和15年に建てられたのがこの「生野義挙跡」の碑なんです。

--- やはり生野にはたくさんの歴史が眠っていますね。

・ ・・わぁ!!すごく素敵な眺めですね!! あれは、線路ですか?

藤本: そうですよ。トロッコの通り道です。 あれも銀の馬車道に関連の深いもので、最初は道路の交通量が増え、不便なうえに危ないということでトロッコを馬車で引く馬車鉄道が設けられたんです。 「神子畑」、「明延」で採掘された鉱石を生野で精錬するようになり、量が増えた事にも関係してトロッコ電車が通るようになりました。現在では一部復元しています。

--- この景色とても好きです。 今日はたくさんのお話ありがとうございました。探索しながらのお話、とても楽しくお聞きできました。また生野に遊びに来たくなりました。

藤本: そうですか。それはよかったです。生野銀山もたくさん興味深いことがあるので生野に来た方にはぜひ訪ねてほしいですね。

「銀の馬車道博士」藤本博さんのインタビューはこれで終わりです。 いかがでしたでしょうか?