send.information

第8集 情報発信の価値 【18~52】

18千々松 健:2009/12/30(水) 16:55:44

以前に「バカの壁」がベストセラーになった理由を述べていた書評を読んだことがあります。詳しくは忘れましたが、

1)タイトルが刺激的かつ挑戦的だから

2)養老さんが言っていることを、ゴーストライターが偏差値50レベルに合わせて大幅に書き直し編集したから

ということのようでした。読者に負担を掛けないように、何が言いたいのか、そして何がポイントなのかを丁寧に説明していたからなのでしょう。

その他の養老さんの対談物は編集者が手を入れているので読みやすくはなっていますが、ご本人が直接書かれたものは、やはりそれらとは違い売り上げもそれなりというのが事実のようです。

要するに、一般大衆に売れるように本を書くということと、あるマーケットを狙って本を書くということの違い、及び、売文家として受動的に書くか、寄稿家として能動的に書くかの違いがあるということになりましょうか。

25朝香隆彦:2010/01/25(月) 09:49:57

先に述べてきた現実を踏まえつつ、藤原博士がジャーナリストの立場から「Japan’s Zombie Politics」を刊行され、将其面博士がアカデミズムの立場から、オタゴ大学で教鞭を取りつつ「Ockham and Political Discourse In the Late Middle Ages」の刊行や数多くの英文での学術論文を発表されていることは、後に続く者たちへのエールとして考える必要があるのではないか。

そういう私も英文で情報発信することの大変さは身を持って感じている日々を送っている一人ではあるが、藤原博士が「地球発想の新時代」(東明社)で述べておられた以下の文章に啓発され、最近は英文をキーワードに概念図を幾つか書くことで、自らの思想の整理を行なっている最中であると申し上げておく。

(以下「地球発想の新時代」より引用)

文章なら表現の仕方でいくらでもごまかせますが、図表や数式は真剣勝負と同じで、思想が赤裸々に出てしまうから、それをいかに寓意図化するかに工夫を凝らし、シンボライズしてしまうところに最後の勝負があります。「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」というとおりで、ものごとの極意は図面化されて伝わるのです。

だから、寓意図や象徴体系は直感的に洞察するものであり、一般的には説明などついていません。この洞察力を磨き直感を鋭くするために、人は優れた師を求めて遍歴し、苦労を重ねて修業を続けるのであり、ことばでなんでも表現し尽くせるなら、芸術や修業は無用のものになるはずです。シンボライズすることによって、直感的な体験を通じて真理に出会い、秘伝を会得するようになっているのですね。

26千々松 健:2010/01/25(月) 13:58:13

<場の言語学について>

私は「日本文化の特徴は余白にあり」と考えています。

日本語には主語と述語の省略が多くみられるということも、日本間における床の間も、和歌や俳句にしても、日本画にしても、余白ないしは空間が多いのです。

清水博先生の「場の理論」を応用した「場の言語学」では、共通な情報や問題意識を持つ「場」に於いては、主語と述語などが省略され、しかも受動態的な表現が好まれるということは自然であるようです。

その意味では日本語は蛸壺的な分類になると思います。比較的異文化交流をしないで済んできた言語は「空気を読むことのできる場においては効率よく機能するのです」しかし、一旦、国際交流をする場面に入り交渉やディベートをするためのツールとしては「英語」が必要になるという訳です。

そして、美しい日本語をマスターすることはもちろんですが、これからは翻訳しやすい文脈表現で日本語を書いたり、語ったりすることが、国語教育には大切になるのではないでしょうか? 英語が国際標準語に成り得たのは「契約」に適した構造を持ち、ロジカルな言語であるからでしょう。

また、ネット社会において自動翻訳が進めば尚更に、そのような訓練がなされて、より良い情報発信が可能になると思うのです。

「閉ざされた社会」においてはたとえ効率的であっても、「オープンな社会」においては誤解や曲解が生じてしまっては損になるのです。それぞれの言語の特徴を認識して、使い分ける必要があるのです。言語はコミュニケーションの一つの道具(ツール)にしか過ぎないのですから。

それに加えて、私はコトバとカタチの両方を使用して物事を伝えることが大切になると考えています。「大局観」はまさにコトバではなくカタチをイメージして観察していくところからスタートすると考えています。

27千々松 健:2010/01/25(月) 14:02:04

>26の補足 <契約について>

“多民族の融合によって成る欧米社会にとって、社会的規範の存在は不可欠であり、その成立過程において西洋近代精神も育成されたと言える。実は「数学の論理」こそ、その根底にある。例えば欧米の「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また「必要条件と十分条件」の基本が理解されていなければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」も理解しがたい。

要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい”

以上が『超常識の方法』にて小室直樹氏の言いたかったことでしょう。

そして、付け加えるならば、長く単一民族と信じて疑わないで来た日本人が、この多民族社会の常識に欠けることを弱みとして自己認識した上で、事に当たることが大切であるということなのです。

「キリスト教の精神」と「契約の精神」との関係は多少の説明が必要かも知れません。キリスト教の「旧約聖書」はキリスト以前の古い時代での神との契約について書かれたもので、「新約聖書」はキリスト以降の神との契約の書と言えるからです。

決して旧訳・新訳ではなく、約は契約の意味なのです。(蛇足ですが)

そこで言う「契約」はまた、人間関係においても、企業関係においても、国際関係においても成立するものとなります。

29T.N.:2010/01/27(水) 01:32:25

開闢以来、先進文明(かつては中国、近代以降は欧米)に学ぶことが重要な意味を持っていたため、日本は情報の受信に比べ、発信についてほとんど無頓着だったように思います。

林輝太郎/板垣浩 著「株式成功実践論」から

”(競争社会における)「情報の公理?」ともいわれているものを紹介しておく。

(1)中立な情報は存在しない(一方に有利なら一方に不利である)

(2)情報は発信者に有利である(したがって受信者に不利)

すなわち「ハレー彗星は76年毎に地球に近づく」というのは客観的中立な情報であるが、競争社会においては中立な情報は存在しない。 株の買い方に有利な情報は売り方に不利である。発信者は自分に不利な情報は発信しない。当然のことである。”

ここに挙げられている2点を踏まえ、”情報を発信することの価値”からやや意味が狭くなりますが、”情報を発信することの利”逆に言えば、”適切に情報を発信しないことの不利”の自覚から始める必要があるように思い

ます。

30千々松 健:2010/01/27(水) 11:27:53

私は、過去のアメリカ大統領と補佐官との間に交わされた会話とされるものを企業研修で良く使用して来ました。

それば、「情報と事実」をはっきり分けて報告せよと大統領が補佐官へ注文したという内容です。

いわゆる情報(広い意味)には「客観的な事実」と「主観的な情報(狭い意味)」があるから、大統領の立場にある私には、先ず客観的な事実だけを伝えてほしい、そして、必要が有れば私の方から補佐官の意見としての情報(主観的な情報)を聞くから用意して置くようにということでした。

その意味からすると

>29

>(1)中立な情報は存在しない(一方に有利なら一方に不利である)

>(2)情報は発信者に有利である(したがって受信者に不利)

ここに言う情報は狭い意味での情報のことであると思うし、事実と情報の差異をしっかりと把握して行かないと、例えば意図を持って「リーク」された情報が事実を越えて発信されてしまい、的確な判断を誤るという蓋然性が生じるわけです。

T.N.さんの“情報を発信することの利”逆に言えば、“適切に情報を発信しないことの不利”の自覚から始める必要がある。はその通りであると思います。

また、理想はコマ切れの事実を積み重ねたり、検証したりして、ジャーナリストが苦労を掛けて出来る限り客観的な情報を構築することが望まれ訳ですが、

実際は多くの朝のTV番組のように、新聞記事の切り抜きの紹介が中心にされている時代ですから、さびしい限りです。

企業人として、自社関連の新聞記事情報と実際に起こっていること(事実)が如何に不整合であるかを知らされてきた者として、ジャーナリズムの怖さと限界を踏まえて行くことが大切であると思います。

32千々松 健:2010/02/01(月) 13:52:41

<歴史的に見る事実と誤訳情報の例として>

1)多少大げさに聞こえるかもしれませんが、我が国の歴史の中での最大の悲劇は「般若心経」の誤訳を中国からそのまま受け継いできた点にあります。そもそも否定語の「Na」という梵語を不と無しか使用しなかった翻訳は誤りです。前後の意味からして「非・不・無」の三つに区別して訳すべきであったのです。

例えば「無無明」では二重否定のなり「明が有る」に戻ってしまいます。本当は「非無明」と訳すべきでした。その結果、何が起こったかの説明は省きますが、その後の日本の精神構造が歪む原因はそこにあったという指摘が後世なされても否定できないほどのダメージを与えたと思います。

2)フィボナッチ数列はインドで産まれてアラビアを通じてイタリアに伝わった数列なのですが、当時は未だ西欧がゼロを嫌っていたために「1,1,2,3,5,8、、、」と1から始めてしまったのです。本来は「0,1,1,2,3,5,8、、、」が正しかったはずです。

既に他のレスで述べていますように数学的な「フトマニ」の思考法からすれば、0から始まるのが唯一正式なフィボナッチ数列であるのですから、決してゼロをおろそかにしてはいけないのです。

ケン数列「0,3,3,6,9,15,24、、、」は全体を3で割ると「0,1,1,2,3,5,8、、、」のフィボナッチ数列になります。また、リュカ数列の「1,3,4,7,11,18、、、」やミチコ数列「1,4,5,9、、、」には0が入り込む余地はないようです。(ただし、FLKM系列になるとすべての系列に0が登場します)

蛇足ながら「数学的なフトマニの思考法」:二つ並んだ数を足して次に置き、今度はその数とひとつ前の数を足して次に置くというようにして数列を作っていくと、大きくなればなるほどに隣同士の比率は「黄金比」1:約1.618に近づくという驚愕の事実です。

これが「神道の奥義」の入り口の一つになろうかと私は考えています。

33千々松 健:2010/02/13(土) 15:44:22

マニフェスト、マニアル、マニエリスム、マニエラ、マナー、などに共通している「マニ」は「やり方」と言えるであろうと考えてみた。一方「マニ」は手で行うことに関係するし、(例:マニファクチャー)人を意味する「man」というのは手が自由に使える動物という意味であるかもしれない。いずれにしても「フトマニ」のマニも「やり方」と共通する音を持っているのは偶然であろうか?

ところで「マニフェスト」とは政策などの宣言、声明の一方的な表明(書)であって、決して「契約」ではない。契約は双方向での合意事項・約束事であるから守られるべきものであるのだが、一方的な表明のマニフェストの場合は必ずしもそうではないというのが「大人」の判断であるべきと思う。

41名前:千々松 健 投稿日: 2010/05/28(金) 12:10:34

本日、アップル社の開発したiPadが日本ではソフトバンクから販売開始された。ほぼ同時期に時価総額でマイクロソフトをアップルが抜いたとのこと。

5月13日に行われた孫正義氏とITジャーナリストの佐々木俊尚氏の5時間に及ぶ公開討論の様子がWebでも見られます。

「光の道」のハードウェアの普及も大切でしょうが、私的にはコンテンツの重要性の方に興味がもたれました。

短期的にはOSの違いや、SIMロックを掛けるか解除するかの問題もあるが、やはり長期的には電子書籍の世界では「審査」(ほぼ検閲に等しい)問題が今後の課題となるという、電子出版の先駆けである「ボイジャー」の萩野正昭社長のコメントに注目したい。

いずれにしても、新しい教材づくりと「電子教科書」化は今後の展開が楽しみです。

以下84,85:「英語版Japan's Zombie Politicsの出版について」 から

84 名前:藤原肇 投稿日: 2010/03/11(木) 06:13:12

キンドルへの参加

電気書籍のアマゾンのキンドルは、二百冊分の本を収録できる。だが、目下は英語の本だけであるが、日本語のものはかなり遅れるために、英語で発信できる日本関係の本が求められている。

そういう状況下で拙著「Japan’s Zombie Politics」を日本の政治を扱った本として、キンドルにリストアップするのは如何という話が舞い込んできた。

Japanと politicsだけの検索で拙著にたどりつけ、全世界の読者が読めるなら、情報発信として絶大な価値があり、本と情報を永久に保存できるとのこと。

また、そうすれば、これまで試みた全世界の大学図書館に寄贈する仕事が、情報の公開により自動的に無限大に達成できるので、新時代の発信になりうるようです。

皆さんの意見はいかがですか。

85 名前:千々松 健 投稿日: 2010/03/11(木) 20:01:23

紙の発明と活版印刷技術の発明が世界に変革をもたらした様に、インターネットや電子書籍の出現は計り知れない変革をもたらしつつあります。

その影響力は政治、経済、宗教、哲学、文化、芸術、科学、技術などに時間と空間を越えて行き渡り、たとえそれが時代的制約をもつにしても、また、読む人や見る人にとっては暗号のようなコードにしか観えないにせよ、大変意義のあることです。

大げさに考えると出版社や新聞社が紙媒体を放棄するのも時間の問題かも知れません。

16年前に登場したボイジャー社の「エキスパンドブック」が思い出されます。文字のフォントが目にやさしく縦書きもOKになったことにビックリしました。また当時ハイパーリンクを可能にしたこともその後のインターネット時代の開幕を予知させるものでした。

個人的には、これで制作したものをCDに焼いた電子出版が可能になると簡単に考えていたのでしたが、実際には着手しませんでした。それから数年してWebが開始されて、そちらに移行したわけです。そんなことが懐かしく思い出されます。その後、ボイジャー社の技術は生かされて、著作権切れの小説などを「青空文庫」として無料で読めるのは良いことでした。

確かにスマートフォンとキンドル等の電子ペーパーとのビジネスモデルは違いがあるようですが、世界を相手に英語のコンテンツが配信できることはとても価値のあることだと思います。

47 名前:千々松 健 投稿日: 2010/12/09(木) 23:00:47

米フォーブス誌がウィキリークスの創設者アサンジ氏へのインタビュー記事を11月29日に公開していたらしいが、彼が英国で12月7日に別件逮捕された後の12月9日になって、日本語訳のかたちで全文が下記の日経サイトに登場したので読むことができます。(取材は11月11日時点、その後28日に米外交文書流出問題が発生)

" WikiLeaks is designed to make capitalism more free and ethical."

「ウィキリークスは資本主義をより自由で、倫理的にするためのものだ」

このような発言からすると、内部告発漏洩情報のWEB公開は更に大手金融機関へも波及することが予想されます。

50 名前:T.N. 投稿日: 2011/03/16(水) 20:43:46

パソコンのOutlook Expressを見ると、毎日何通か来ていた広告メールが、3月11日午後3時過ぎを最後に1通も来ていません。自主規制なのかどこからか通達があったのかわかりませんが、質(内容)を見ないちょっとした量の観察でも、只事でないことが起きているのがわかります。

51 名前:T.N. 投稿日: 2011/04/03(日) 21:15:28

阿修羅掲示板に「外国で公開されている福島第一原子力発電所の高精細画像」という投稿があり、その中に4号機に放水のため、コンクリートポンプ車が設置されている写真があります。現地で必死に作業されている方々には申し訳ないが、まるで蟷螂の斧。第二次世界大戦中、米軍が高高度から撮影した日本の都市や軍艦の写真を思い出します。

一方NHKがニュースでよく使うのは、30km以上離れて撮影したぼやけた映像。ひどいときは、事故が起こる前の原発の風景映像を紹介に使っていたりする。とにかく判断の元になる情報の精度が、国内と国外とで違い過ぎる。

52 名前:千々松 健 投稿日: 2011/04/05(火) 09:56:50

放射能拡散予測データの日々公開を福島第一原発事故後三週間たって初めて気象庁が行うという。既に海外からは同様な情報が発信されていたが、情報発信を行わないコトのつけが回ってきたようだ。膨大な科学技術予算を使って構築されたはずの気象条件によるシュミレーションデータを活かしきれていないのは、ある意味で無駄であったと言われてもしょうがない。

データはデータとして公開されることに意義があり、そのデータをどの様に評価して判断を下すかは人や国によって差異が生じるのは当然のコトであろう。「正解は一つしかない」という教育を受けてきてしまった世代が、あるいはマニュアルさえあればコトが済むという安易な世界で生きてきた仕事人がパニックに落ちるのはどうにかして避けたいものだ。