semantics

第9集 意味論 【1~88】

1プロジェクトラーニング:2009/08/04(火) 13:38:20

勝手にスレッドを立てしまい、また怒られないかと心配です。

よく藤原肇さんは「~は意味論が理解できていない」という趣旨の発言をされています。昔小室直樹さんとの対談のときにもその話が出ていました。これは私の知る限り私が大学生の頃からずっとそう言っておられます。その時からわからなかったのですが、そもそも意味論とは何なのでしょうか。言語学とか論理学とは異なるものなのでしょうか。この意味論を学ぶのに最低限読んでおかねばならない書籍にはどのようなものがあるのでしょうか。意味論を知り現実にどう活かすかは自分で考えますので、なにかとっかかりとなるような事をどなたかご教示いただけないでしょうか。

2野田隼人:2009/08/04(火) 15:21:47

この掲示板にも長年に渡って築き上げてきた「ルール」があります。端的に言えば「適塾精神」というもので、適塾精神の何たるかは過去の一連のスレッドに目を通してください。適塾精神とは何かについては、過去に言及しているスレッドもありますので、自身で探し、自身の頭で考え、その上で再度投稿してください。ここは学校ではありません。

3プロジェクトラーニング:2009/08/05(水) 06:23:28

野田さんの指摘にある「学校」という言葉の使い方に、おそらく意味論に関係してくる示唆が隠れている気がします。辞書にある、一定の場所に設けられた施設に学生を集めて教師が計画的・継続的に教育を行う機関だとするならば、宇宙巡礼は「学校」ではありません。しかし「学校」を端的に学ぶ場(学と校の意味から)だととらえると、宇宙巡礼は学校ではないのでしょうか。学ぶ場で質問をいきなり封じ込めてしまうのはいかがなものでしょうか。それでは学ぶ場の精神は活かされません。

さて私なりに適塾精神の何たるかを慮りつつ問題意識を述べます。『理は利よりも強し』では、「単語の意味の歴史的な背景の把握に始まり、言語のさまざまなレベルでの意味のあり方を知り、単語間の構造関係や記号的役割を位置づける学問」と記されています。また小室直樹さんが藤原肇さんに、「セマンティックスの言い出しっペなんだから、セマンティックスにはどういう効用があって、それを知る人と知らない人ではどう違うかを、あなたから説明しなくてはいけない。」と指摘したことに対して、藤原さんが、「セマンティックスは日本語では意味論と言っている。言葉がある特定の意味をどうやって獲得し、他の言葉とどんな関連を持ち機能するかを理解して、コミュニケーションをする場合に、ある言葉がどんな枠組みで定義され、どんな概念を含んでいるかを知ることだ。」と述べています。いずれを読んでも皆目分からない。ここで分からないという意味は、小室さんの質問に藤原さんが答えていないということです。つまりセマンティックスの実利が不明なのです。

私が仕事で直面しているのは多くのビジネスパーソンが日本語を正しく使えていないという現実です。言葉を正しく使えていないという意味と、その言葉を用いて文法に則して文を作るが、そのいわば部品を筋道を正しく通して組み立てられていないという二つの意味があります。後者は論理学なのでここでは言及しませんがが、前者が意味論に通じることではないかと考えています。西周を学び百科全書派、そして例えばディドロ&ダランベール『百科全書』岩波文庫などを読んでみましたが、やはりセマンティックスの実利が分かりません。なので最初のスレッド立てとなった次第です。

4プラトンの友:2009/08/05(水) 07:08:40

分からないという事が分かったので、一生懸命調べてその理由について考えた。これは素晴らしい学びの精神であり、みなが知恵を寄せ集めて意見を投げ合って切磋琢磨して、自分の意見や考え方を精緻なものにしていく行為に参加するのであり、それ自体が学校そのものだと思う。

そうやって自分を追い詰めていくことで実利が分かり始め、意味論の真の意味がじぶんのものになるのだし、それをプラトンは『饗宴』で論じたのであり、ゼミの原典であるセミナリオも生まれたのであった。

5プロジェクトラーニング:2009/08/05(水) 10:44:17

セマンティックスに通じる実利を、言葉を適切にかつ豊かに用いることだと仮定してみます。言葉を適切に用いるとは、概念の境界線、すなわち定義するということで、理解し易いです。ただしこのことだけ取り上げても、日常の現場ではうまくいっていません。卑近な例ですが、「問題」と「課題」という二つの言葉は、企業の中では使われない日(いや時間と表現した方が良いかもしれない)はないほどです。けれどもその用い方と言ったらバラバラです。

例えば本田技研工業ではこの二つの言葉は定義されて用いられていますが、そういう企業があるのは確かですが、多くの企業では各人まかせです。まったく同義に使っている人もいるし意味を分けて用いている人もいて、コミュニケーションに支障を来たし、仕事の生産性にマイナス要因となって影響しています。さて厄介なのは、言葉を豊かに用いるということです。私は、まだこの「言葉を豊かに用いることの構造」を理解できていません。容易に思いつくのは、語彙量です。ですから対策は、シソーラスを日常から活用し、常にその言葉を言い変えたらどうなる?と自分に迫ってアウトプットを課していくことが考えられます。皆目分からないのは、語彙量以外に、「言葉の奥行き」とか、藤原さんが言うように、言葉がある特定の意味をどうやって獲得するかといった、いわば「言葉の行動」、そして他の言葉とどんな関連を持ち機能するかといった、いわば「言葉の関係」をどのようにスキルとして身につけたらよいのかということです。このセマンティックスに通じる実利がいまビジネスパーソンに求められていますし、私も何とかしてつかみたいのです。

6プロジェクトラーニング:2009/08/06(木) 11:07:54

言葉の用い方には、点と、線と、面があるのだと考えてみます。点を用いるとは、言葉の定義に則すということになり、言葉を適切に用いるという実利です。(※幾何学で点とは部分を持たないものだとすると、この例えはおかしいかもしれませんが、便宜上で使っていますのでご容赦下さい。)さて、線を用いるとは、線の定義を考えればわかりますが、点をつなげるということですから、言葉と言葉で意味をこしらえるということになりましょう。

現存の漢字一文字ずつを合成させ(当該二文字とは)別の概念をあらわしなさい、こんなエクササイズをやってみたりします。拙い例ですが、「姿」+「鍵」=「姿鍵」で、命名という意味をあらわしました。命名とは、姿の本体を鋳型にして鍵をつくることだと考えました。名を知っていると会いに行ける。名を思うと姿が瞼に浮かぶ。名を呼ぶとそばに来てくれる。名前はあの人へのアクセスキー。古代、自らの名前を教えることは結婚の承諾の意味をもっていたようです。こういう風に言葉を用いると言葉の「長さ」(線の定義から)が生まれる実利があります。

さて難しいのが、面を用いるとはどういうことかということでしょう。面と線の相違は、面には「長さ」に加え「幅」があることです。こんなエクササイズをやってみたりします。任意の二つの言葉を取り出します。この二つの言葉の関係や対比を浮かびあがらせるために、その二つの言葉それぞれに別の言葉をあてることをしなさい。これはある方が示された例ですが、偶然と必然という二つの言葉を取り出し、「有漏路は偶然・無漏路は必然」という「幅」を示されました。仏教的世界観では、「有漏路(うろじ)」は迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」は、悟り(仏)の世界をあらわしています。このことにより偶然と必然の関係や対比を浮かびあがっています。後者二つが言葉を豊かに用いることの実利かと考えました。ところで自らの問題提起に自分で考え続けておりますが、そもそも藤原さんが述べている意味論の意義に少しでも沿っておりますでしょうか。

7千々松 健:2009/08/06(木) 11:28:57

自然科学は主体と客体を区分することから始まると言われますが、人文(社会)科学においても同様に、主体と客体を区分して思考することが大切であると最近、感じています。

人間の発するオープンな質問は通常5W1Hと言われています。しかし、主体と客体をはっきり示すためには、更にWhich、Whose、Whomの三つのWを加えた「8W1H」にすることが肝要です。そうすると、ストーリーや物事の全体像がハッキリと見えてくるのです。

では、主体は何かといえばWhy、Who、Howの三つです。(Howは元来のHow many、How much,という程度に関するものだけに絞ります)Which、Whose、Whomは客体になりますが、実はその内容はHow toの詳細項目に該当すると考えてよいのです。残りのWhen、What、Whereはいつ、どこで、何をテーマにするのかというコミュニケーションの「場」づくりにあたります。

これらの9つのWhat?疑問文にて、思考し質問し合いながら、それぞれの関係性において最適な組み合わせが形成され、一つの物語なり、具体的な実行計画なりが構築されて行くのです。これが「意味の関係」のヒントになればと思います。

また、ビジネスでは「SWOT分析」においても、強みと弱みは「主体」であり、機会と脅威はまさに「客体」に当たり、そして、強みをもって脅威を少なくするとか、弱みをチャンスに変えるとか、色々と考えて行くわけですが、最終的には8W1Hに落とし込んで行くのが良いようです。

なお「2W1H」は“くしゃみ3回(Why)、ルル(What)、3錠(How)”のような宣伝文句で使用され、「5W1H」は事件記事や報告レベルに使用され、「8W1H」は新製品企画や新事業開発やシステム開発等に役く立ちます。

それらは、TPOで使い分けすれば良いのです。

8プロジェクトラーニング:2009/08/06(木) 12:58:21

8W1Hは、物事を成り立たせる構成要素の網羅性を担保し構成区分を示すためのチェックリストだと考えました。これを用いれば、物事の全体がはっきりと見えます。ご指摘ありがとうございました。千々松さんのコメントで未だ意味が通っていないのが、主体と客体を区分けするということです。私の仕事のフィールドでよく使うSWOT分析ですが、ご指摘の通り、強みと弱みは「主体」に、機会と脅威は「客体」にあたり(そうなんだけれど)、これを実際に現場でビジネスパーソンに使わせてみると、どちらも「主体的」にみてしまうのです。すなわち、機会と脅威についても、「うちにとっての機会」と「うちにとっての脅威」となるのです。主観と客観という言葉は、主体と客体の親戚のようなものだから、主観と客観の意味を知ることによって、主体と客体について考えてもいいと思います。辞書には、客観とは、「特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。」とあります。さてSWOT分析に話を戻しますが、そもそも分ける対象は(当人の)認識なのであって、主観から独立することがあり得るのでしょうか。千々松さんが「主体と客体を区分して思考することが大切である」と言う際に、上の議論から、①そんなことできるのか? ②できたとしてその客体が持つ意義とは何か? これが不明のままです。現場でSWOT分析を用いる際に、そのようなことに拘っていたら、しちめんどくさいと思われるので、強みと弱みは「内のこと」、機会と脅威は「外のこと」だと指導しています。ここまでの文脈でいうとどちらも主観です。千々松さんの「自然科学は主体と客体を区分することから始まると言われますが、人文(社会)科学においても同様に、」の発言がヒントになります。ビジネスは人文(社会)科学なので、同様でなくてもよいのではないでしょうか。それが私のひとまずの結論です。千々松さんが、上述の議論とは違う視座から「主体と客体を区分けする大事」をお考えになっているならぜひご教示下さい。

9千々松 健:2009/08/06(木) 20:53:05

>6についてのコメント

点から線、更に面へと広げていくという考え方はとても良いヒントになりますね。

8W1Hについても、「思考道」のサイトをご覧いただければお分かりのように、3行3列のマトリックス表に展開されています。

一つ一つのボックスが点であるとすれば、線は近隣同士(縦横斜め・飛び越し)の関係になるし、全体の最適な姿が出来上がれば、それは面となり、或る物語、ストーリー、あるいはシステムエンジニアの世界ではプログラミングの仕様書の定義が出来上がるというように見ることができるのです。

それぞれの関係性の中でこそ意味を持つことになるのです。点(一つの単独)では辞書で引いた程度の(仮の)意味しか持たないものが、繋がり合い(関係性)の中でより価値のある(真の)意味を持つようになると言えるでしょう。

藤原肇博士のおっしゃられる「セマンティックス」を私なりには、このように理解するに至りました。これは何を隠そう今回のプロジェクトラーニング氏のお蔭です。

>8について

そもそも、主体と主観、又は客体と客観を混同してはいけないのです。

ビジネス世界で問題と課題との混同を避けようとされているのですから、そのことは当然のごとく理解されるはずです。

今、話題にしている「主体」とは一人称のことです。(IまたはWe) 客体とは二人称又は三人称になります。(You、He、She、They等)

さらに言えば、客体は人に限らずに物事に拡大して見ると良いでしょう。

したがって、主体が主観的にも客観的にも見れるわけですし、客体を主観的にも客観的にも見れるわけです。

これで、疑問点は氷解されると思われます。

場の関係論の清水博先生に「関係子」という言葉を使用してはと提案されたのが編集工学の松岡正剛氏だそうです。

言葉はコミュニケ―ションの道具です。すると人間関係にも関係してきます。一人ではなく、共同で考えて、目的を達成するのが社会的存在としての人間です。

そのコミュニケーションの基本が質問です。Yes、Noで答えられる質問は別にして、オープンな疑問詞構文は各民族により表現は異なっても必要十分条件を充たすのは9つのようです。

不思議ですね。その辺りの証明は言語学者に任せて、まあ、実用を先行させて使って行きましょう。

10千々松 健:2009/08/06(木) 21:29:10

以前、コンピュータゲームを製作する場面で一番面白くする要素は何かと考えたことが有りました。

「いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ」はそんなに重要ではなく、「どのように」が分かれ目であると思いましたし、専門家もそのようでした。

どのように(How To)の中身は、「どんな方法・手段・仕方で、だれを味方につけて、だれを攻めるか」すなわちWhich、,Whose、Whomでした。

また最近の小説の「悼む人」では、主人公が遺族に質問していた内容は「亡くなった方が、だれを愛していたのか? だれに愛されていたのか? どんなことをして人に感謝されていたのか?」だったのです。

それは私が客体としているWhom、Whose、Whichの質問に他ならない訳です。

新聞記者は5W1Hだけで事件記事を書けるとしても、遺族や死者を本当に悼むことには至らなかったという反省から生まれたのでしょう。

8月6日 広島に世界で最初に原爆が落とされた特別の日に

11プロジェクトラーニング:2009/08/07(金) 05:09:14

主観・客観の「観」は認識を、主体・客体の「体」は存在をあらわしています。「行為をなす当のもの」を主観・主体といい、「行為の対象となるもの」を客観・客体といいます。千々松さんのコメント「主体が主観的にも客観的にも見れるわけですし、客体を主観的にも客観的にも見れるわけです。」を正しく言いなおすと、「主体が(主体を)主観的にも客観的にも見れるわけですし、(主体が)客体を主観的にも客観的にも見れるわけです。」となります。その通りです。

しかし疑問点はなお氷解しません。ここまでの経緯で私の問題意識は、①客体が主語にくること、②(もちろん「主体が」です)目的語を客観的に見ることの功罪についてです。①は有り得ないでしょう。ですから千々松さんが使っている「客体」は、二人称または三人称の意味のみでしかなく、どこまでいっても「二人称または三人称の主体」です。

②について議論したいです。この議論は、経営学ならびに企業の現場には有意な実利があります。特にマーケティングを考える際に示唆に富みます。まず、経営学や企業の現場で「物事を客観的に見ることは大事である」と主張すると、その意図は、人や組織の色眼鏡(すなわち先入観)を外して、市場(顧客の集合)のニーズを、よ~く見なさい、といったところでしょうか。マーケティングでSTPといえば、Segmentation、Targeting、Positioningですが、例えばお菓子、「25歳前後の都会に住むOLで、会社で小腹がすいたときに、一口ちょっとチョコレート菓子を口に入れたいというニーズ」と(それこそ客観的に)分析していく訳です。ところがです、現実の市場では、キットカットの例はあまりにも有名ですが、「きっと勝つ」「きっと勝とう」とそんな語呂あわせでキットカットはゲンが良いと思われて売れたのです。

提供する価値は、商品の機能的な属性や利便性の改善という供給サイドの価値ではなく、その商品が実際に消費者の生活経験において生まれる価値という消費者視点で定義されるべきだという示唆です。このとき担当者は、その商品が生活の中でどのような役割を果たしているのかを知ることが大事となります。デモグラフィック変数で対象市場を分割していくとあたかも客観的に思えますが、それではキットカットのようなことは生まれない。石井淳蔵『ビジネスインサイト』岩波新書によると、なので「対象者となる消費者に棲み込む」必要があると説いています。マイケル・ポランニーを再読する必要がありますが、「目的語を主観的に見ることの意義」はこのあたりにありそうです。千々松さんのコメントが良い刺激となりました。ありがとうございます。

12千々松 健:2009/08/07(金) 10:45:55

「偶有性」や「セレンディピティ」により、物事が予想しない方向に進むことが良く有り得ます。

人との偶然の出会いや、実験が予期しない結果になることなどをスタートにして、それを必然化する(有意義にする)ことです。

また、通常の対話の中でもそれは現れることが有り、お互いが予期せぬ良い結果が生まれる事にもなるわけです。

さて、広い意味での「リスク」を「起こりうる結果(事象)の変動」と定義すれば、ビジネス・リスクはプラスにもマイナスにも振れるわけです。

マーケティングの専門家ではないので的を射ていないかもしれませんが、お客様の立場に立って考える場合には、主体の位置にお客様を置き、客体の位置に製品開発者を置いて考えること、すなわち立場を変えて観ることも大切なことですね。いわゆる「大局観」になりましょうか。主体と客体と主観と客観を区別しながら、しかも総合的に操ることによってこそ見えてくるものがあるのでしょう。

するとその先、デカルト的二元論的機械論を脱して、複雑系的生命システム論にスムースに入って行けるようになると思われます。

13プロジェクトラーニング:2009/08/07(金) 23:05:32

このスレッドを立てるにあたり、あたかも興味本位で聞くかのような態度で書き出してしまったので、のっけから野田さんに一喝されてしまいましたが、私には意志があります。25年間、藤原肇さんの読者でいたことで、私は「藤原肇の七不思議」を持つようになりました(これまで誰にも話したことのない自分の認識です)。そのコンセプトは、「そんなに長い時間をかけて大事を説いているくせに、ちっとも日本国民に有益に広まっていないじゃなか!」という不思議です。その一つが意味論です。藤原さんが、~は意味論が分かっていない、~は意味論オンチだと発言するたびに、この不思議度のスコアは上がります。そういう訳で、自らが主体的にかかわり、意味論に通じる実利をつかむことで、この不思議の解消に少しでも役立ちたいという意志を持つに至りました。

言い出しっぺなので、私の枠組みで整理させていただきます。目的は、ビジネスパーソン(私の活動フィールドがそこなので限定していますが、そのあたりはお許し下さい)が言語をうまく用いること、だとします。優れた製品をつくるという例えに沿うと、素材を良く用い、その素材で部品をこしらえ、部品をきちんと組み立てて、優れた製品に仕上げます。この場合、素材は「言葉(最広義に解釈したいです。文字、記号などを含むとして)」、部品は「文(命題)」、製品は「文脈(コンテキスト)」だとします。後半の「素材で部品をこしらえ、部品をきちんと組み立てて」は論理学です。これはこれでとても大事です。「素材を良く用い、その素材で部品をこしらえ、」が意味論だと考えています(論理学とは一部重複がある)。ところが、この「素材を良く用い、その素材で部品をこしらえ、」の実利が皆目分からないでいました。

今の段階の仮説ですが、「言語の範囲論」と「言語の運動論」という考え方(これらの用語は私の造語です)をとろうと思います。「言語の範囲論」とは、定義と網羅であると考えます。概念の境界線を敷き、抜け漏れがないようにすることです。千々松さんの8W1Hは「言語の範囲論」の実利です。私のいる現場では有名なMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)があり実利として用いられています(おかしなことにMEとCEが同等に大事とされていますが、CEでないと致命的ですが、少々MEであったとしても問題はないと思うのですが)。ところが残念なことに、現場はこの「言語の範囲論」で終わってしまっています。藤原さんがいう意味論の真髄は「言語の運動論」にあると思います。

千々松さんは、「全体の最適な姿が出来上がれば、それは面となり、或る物語、ストーリー、あるいはシステムエンジニアの世界ではプログラミングの仕様書の定義が出来上がるというように見ることができるのです。」と書いていただきヒントになります。ここでは、「全体の最適な姿が出来上がる」というのはどういうことをいうのかを考えることが核心でしょう。定義と網羅の静的(スタティック)な状態から、言葉や文(命題)が運動することで意味が編集される(日本で意味論に通じている一人に異論なく松岡正剛さんがいますが、編集とは情報を価値にかえることであると述べています)動的(ダイナミック)な状態をつくりだすことが意味論の実利ではないかと考えました。この考えをさらに発展するために、いま物語とは何かを考えています。この続きは後ほど。

14プロジェクトラーニング:2009/08/08(土) 06:53:26

千々松さんから、偶有性、セレンディピティというキーワードが示されたので、それらが意味論に関係するかは別として、経営学ではどのようなことが研究されているか、浅識ですがご紹介させていただきます。

まず思いつくのが、プランドハプンスタンス理論(Planned Happenstance Theory)です(ジョン・クルンボルツ、「計画された偶発性(偶然性という訳もあり、千々松さんから示された偶有性も含めて、言葉の整理が必要かもしれない)-予期せぬ機会を作り出すこと」,1999)。この理論はキャリア論の一つです。実利的に解釈すると、偶然の出来事をキャリアの機会に変えていきなさい。そのためには、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心をふだんから発揮しておくことが大事です。意味としてはそんな感じでしょうか。日本の研究では、ネットワーク理論(西口敏宏『遠距離交際と近所づきあい』、直近の『ネットワーク思考のすすめ』あたりが手頃でしょう)があります。偶然とは何か。偶然の背後に法則性はあるのか。法則性が分かっても実際どの程度までコントロールできるのかなどについて論じられており、「遠距離交際しながら近所づきあいする」実利が示唆されています。

千々松さんのご指摘「人との偶然の出会いや、実験が予期しない結果になることなどをスタートにして、それを必然化する(有意義にする)ことです。」はとても大事です。広くとらえると、幸運を引き寄せる力、でしょうか。これを一人でも多くのビジネスパーソンに備えさせたいと思います。笑う門には福来る。うちに猫一匹いまして名を福といいます(笑)。

15千々松 健:2009/08/10(月) 14:45:09

やっと入手できたので「さらば、暴政」p230から引用します

「相手の立場に立って問題に取り組んで、自分を含めた全体の利益になるように、問題を解きほぐす誠意が相互理解の基礎になる。」

このことは国際関係ばかりではなく、人間関係にも共通するものであると感心させられました。

たとえ人材の枯渇とはいえ、人気頼りの人物を選んではいけないし、また、良い人材を育成することは時間を掛けてもやらなくてはいけない大切な事と思います。

その教育をどうするかについて戦略的に考えれば、「ゆとり教育」に非ず、「詰め込み教育」に非ず、それらは戦術でしかないのですから、戦略としては「創造性を豊かにする教育」を目的とねらいにすべきだと思っています。

ビジネスパーソンの育成にしても同様で、そのような創造的教育を受けてこなかった人たちの立場にたっての問題解決を図ることが、多少の苦労はあっても意義のあることであると思います。

16プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 14:55:14

この以下の記事をアップしようと思ったら千々松さんのコメントがあるのに気づき、読み比べてみると、なんだか私が反論しているようだけど、たまたま偶然であり、別の角度からの主張と思っていただき、お読みいただければと思います。「コロンブスの卵」は、誰が作った話なのかも不明だし、コロンブスがほんとうにそのような言動をとったのかも分からないし、くわえて日本以外では同義であまり用いられていないとの指摘もある、何だか不思議な言葉です。意味は、ここに私が述べるまでもなく、ウィキペディアから念のため引用しておくと、コロンブスは、式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後で、軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、「人のした後では造作もないことだ」と言い返した。

さて、そうは言ってもこの「コロンブスの卵」は、ビジネスにおいてはその教訓たるや絶大で、例えばユニクロのヒートテックを手にとって、こんな技術などすでに量産できるもの、またファッション性も低い、ちょっと売れたからといっていい気になるなという競合相手に、きっと柳井正さんは、コロンブスみたいに、「あなたたちはいつまででもそう言ってなさい」と思っているのではないでしょうか。そもそも市場には実力拮抗のライバルがひしめいているもので、イチローと高校生が一緒に野球することはないのだと考えると、皆が思いつくアイデアを逸早く出すことこそ大事であり、ビジネスパーソンが論理学や意味論に通じる実利は、そのあたりにあるように思います。オリジナリティで勝負つくときもあるけれど、ビジネスの日常は速さが大事です。意味論を考えるにあたりこれは重要な視点だと思います。

17千々松 健:2009/08/13(木) 10:55:14

「東大合格生のノートはかならず美しい」というキャッチフレーズをこの春に見たことがあります。

おいおい、待ってくれよと言いたくなりました。下手な文字や曲がった線でイラストしていた東大合格生は東大生に非ず、とでも言いたいの?

これこそ「詭弁の論理」に当たるわけですよね。それに気がつかない、東大生になりたい多くの若者たちは誑(たぶら)かされるというわけです。

そして、それにタイアップした「ドット入り罫線シリーズ」いわゆる東大ノートの発売が人気となっているようです。

まあ、ビジネスとしては大成功なわけですから、周りがとやかく言っても仕方がありません。

18プロジェクトラーニング:2009/08/14(金) 04:05:07

向田邦子と「日本海軍 400時間の証言」がヒントとなり、意味論についての話に戻りますが、いまの出来事や意図から、過去の記憶を動かすことは、私が銘々した「言語の運動論」に少しは近づくのではないでしょうか。過去の記憶は自らの体験により身体に落ちているものですが、いまの出来事や意図から編集されます。海軍反省会では、二度とあの戦争を繰り返さないためにという意図から、それに沿った記憶が紡ぎ出されたように、それも大勢からのもので織り成され、それらが新たに日本史となりました。動機が過去を決定すると言えましょう。ということは、「いまの意図」はとても大切なものとなり、この出発点となるのが、頭に浮かぶイメージだと思います。ジェームズ・ワトソンが「二重らせん」を着想したときの話は有名ですが、イメージとは、眼や耳のような感覚器官からの直接の情報によるものではなく、自分の経験や知識、それに目標や願望によって頭の中に作りだされるものです。千々松さんはその後の思考について話題を提供されていますが、意味論は思考に先立つものと私には思えてなりません。研究課題は、①いまの意図はどのようにつくられるのか、②偶然のいまの出来事や意図が記憶を編集するという技術は操作できるのか、を考えてみたいと思います。

19千々松 健:2009/08/14(金) 11:35:38

「必要は発明の母である」のエジソンの言葉に関連して、広中平祐氏が内側からの必要性と外側からの必要性が合一してこそ本当の意味の必要性が生まれると述べておられました。

内側からを主体と主観に、外側からを客体と客観に置き換えてもよいでしょう。

Want×Needs=Necessity になると思われます。

①「いまの意図」を考えるときに役に立つと思います。

宮本武蔵の残した言葉を私的に解釈していますが参考になると思います。

「我、ことにおいて後悔せず」

http://8w1hflkm.jp/column/sigoto.htm

20T.N.:2009/08/14(金) 17:02:35

千々松様、サイトの図、参照させていただきました。ただ、文中にあるムダ・ムリ・ムシを図に記入したほうが、さらにわかりやすいかと思います。

21千々松 健:2009/08/14(金) 20:22:38

T.N.様ご指摘ありがとうございます。近々沿えるように致します。

「ゲーテ格言集」のリーマーへの手紙 1809.5.30より引用します。

「当為と意欲があれば、能力がない。当為と能力があれば、意欲がない。意欲と能力があれば、当為がない。即ち なすべきことを欲しはするが、それをなし得ない。なすべきことをなし得るが、それを欲しない。欲し且つなし得るが、何をなすべきかを知らない。」

ゲーテは、まさに同様なこと(ムリ、ムシ、ムダ)を述べていたのです。

ただし、肝心ことに意欲(したいこと)・能力(できること)・当為(なすべきこと)の三つ重なったところを大切なこと(大事)として行なう点については、何故か触れられていないのでした。

そこで、宮本武蔵の述べた「我 事に於いて後悔せず」の「事」を思い出せば、その「大事」の意味していることが解ると思います。

東西の偉人の智慧を融合させて(アワセ)思考するのはとても面白いことです。

22千々松 健:2009/08/14(金) 21:33:31

ギリシャ時代には、芸術は6部門2系列でとらえていたという。2系列とは<動きのある芸術>と<静止した芸術>で、前者には詩・音楽・舞踏、後者には建築、絵画、彫刻が該当し、<動きのある芸術>にはすべてリズム(律動)があると考えられていた。

それをヒントにすると「意味」についての範囲論と運動論が「カサネ」られると思います。そしてそれらは時間と空間の概念に繋がるでしょう。

歴史が再現できないのと同じく、生命現象も一過性です。時間という流れ(動き・流転・螺旋)が入っているのです。

いま、グーグル的検索時代になって、知識や断片的情報は簡単に手に入ったとしても、自分の意図や意識に沿って、それらをある時点で意味のあるものにすることが求められていると考えています。そして、情報の洪水から自らを助ける「浮輪のようなもの」を持ちたいと思います。

>18 DNAの二重螺旋構造については

「フィボナッチ数列の律動とラチオについて」

>74 2008.6.17 ロザリン・フランクリン女史に脱帽をご参照ください。

23T.N.:2009/08/15(土) 00:19:41

>21 千々松様、さっそくの御返事どうもありがとうごさいました。

昔読んだ本で、ある経営者が商売というものは

(1)まず、自分が儲かること

しかし、それだけでは商売として成り立たないので

(2)相手も儲かること

これで商売にはなるが、さらに企業を永続させたいなら

(3)社会に役立つこと

の3点を指摘していました。この3点を仮に自利・他利・公利と名付け、千々松氏のサイトと同じ図で示し、3つの重なったところを真利とでもすれば、この話をうまく説明できるようです。

24プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 06:46:10

宮本武蔵の「われ、事において後悔せず」が、したいこと、できること、すべきことで、重なったところを大事であるとすれば、T.N.さんが紹介して下さった、自利・他利・公利で、重なったところを真利とするのは、近江商人の「三方よし」です。

さて、宮本武蔵とゲーテの格言に話を戻すと、当為(なすべきこと)は、ドイツ哲学では、存在(現にあること)の対概念であることがわかるし、だからこそ現在から将来への変化であるので、意欲と能力と較べるとより重要なものではないかと思われます。ところがビジネスの世界では、変化がその本質であることをわかっているが故に、この当為なるものをどのようにとらえればよいのか、そこが難しいのです。「したいことでできることでもすべきことでないことをするとムダになります。」と一言で片付けられる問題ではないです。新田次郎の処女作「強力伝」を読まれていますか?小宮正作が、事を成したときでさえ、当為に迷ったままであったのです。私の研究課題の一つ、①いまの意図はどのようにつくられるのか、を考えるにあたって、当為を我がいかにつかみ得るのかという観点で考え続けたいと思います。

25プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 10:42:24

哲学の初歩として学ぶ、「事実を積み重ねても当為命題は導かれない」ということを思い起こしてくると、ビジネス現場の言葉でいえば、当為(なすべきこと)は価値観から成ると言えましょう。価値観は主観であって、故に経営者や事業家はビジョンを想うのです。さてここで二つの問題に直面します。a.経営者や事業家はなぜそのビジョンにたどり着いたのか、すなわち当為の源泉は何なのか、b.雇用されている多くのビジネスパーソンにとっての当為とは何なのか、ということです。a.とb.は別問題ですが、希望としては、a.については、例えば「小倉昌男経営学」にあるクロネコヤマトの宅急便が生まれた道筋をたどればよいし、b.については、経営学の分野では、キャリア論の権威であるエドガー・H. シャインが、自分は何が得意か?(能力)、自分は何をやりたいのか?(意欲)とあわせて、当為を「どのようなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役に立っていると実感できるか?」という問いかけに直しながらその大切さを説いていることに学べばよいでしょう。しかし、ここまで整理してもなお当為なるものを我がどのようにつかむのかについては困難があります。

26千々松 健:2009/08/15(土) 11:50:43

ゲーテが使用したドイツ語からの翻訳は「当為」となっていますが、本来の意味は「Need」に相当するものと思われ、「外部から求められていること」に訳されるべきものでしょう。

混乱をふせぐためには、「当為」を「なすべきこと」とカサネるのは避けるべきでした。

三つの輪にして見ると、それが理解されやすいのは集合論のお蔭です。

ビジネス的にも「Must」や「To do」が「大事」(真のなすべきこと)に相当することになります。

『Want× Can× Need= Must&To do』の方程式がイメージされます。

翻訳者は意味論にも通じていないといけないことがこの点でも明らかです。

この場合は「当為」を「ニーズ」に置き換えれば、迷いはなくなるはずですね。

27プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 14:55:18

宮本武蔵が、人を斬ることの一つが、外部から求められていることだとしたら、きっとことにおいて後悔すると思います。ゲーテの場合でも、あの格言をいかなる意味で残したのか、私はドイツ語に詳しくないけれど、Sein の対概念として使用しているとすれば、Sollenを「当為」と訳して正しいのではないでしょうか。千々松さんが言うように「外部から求められていること」だとしたら、ピーター・ドラッカーは「顧客の創造」とは言わないと考えます。当為をいかに持ち得るかは難しいのですが、この威力たるや絶大であり、モチベーションやケイパビリティを遥かに凌駕するものあると考えると、千々松さん、ちょっと脱線しちゃっているのではないかと心配です。

28千々松 健:2009/08/15(土) 15:52:22

ピーター・ドラッカーの「顧客の創造」が出てきたので丁度良いと思う。

シーズとニーズと分けた場合に、シーズはWantとCanの重なるところで生まれるとして、

プロジェクトラーニングさんの心配は、ニーズ(市場や外部から求められること)がその時に無かったらどうするのかという問題でしょう。

Want、Can、Needの3つの輪は、大きさは固定ではなく、時間による変化で理想的にはそれぞれが大きくなり、重なる範囲がより大きくなると考えましょう。

今、在ると思われる顧客(ニーズ先)とは別の新たな「顧客を創造」することは、すなわちニーズの輪を広げることを意味しているのです。

そして、予期せぬ変化や、予期せぬ顧客が生まれることもあって、偶有性も大きいのです。

>19でご紹介したビジュアルはT.N.さんのご要望に沿うように作り直しましたのでご覧ください。

「我、ことにおいて後悔せず」

http://8w1hflkm.jp/column/sigoto.htm

29プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 16:31:19

私は外のニーズ(それがどのようにとらえられるのかは置くとしても)を否定しているのではなく、宮本武蔵が、小宮正作が、「我 事に於いて後悔せず」ならば、主体の要素、すなわち意欲と能力と、そして当為に拘るべし。その中でも当為こそが核であると言っているだけなので、千々松さんが脱線したという表現は取り消すとして(ごめんなさい)、(違う議論へ)線路を変えたと言いなおしましょう(それでも向かっている方向はどうやら同じようだから安心はしています)。話は意味論に戻りますが、当為が、将来への変化をつくる力となるし、これまで議論してきたように、過去をも編集するので、それは絶大な威力を持っているのだけれど、このパワーをいかにビジネスパーソンが備えるかについては、ビジネスの現場に(経営者・事業家であろうと、雇用者であろうと)まったくと言ってよいほど知見がないので、その実利について考えたいと思います。私は格闘技をこよなく愛しています(プレイはしませんが)。例えば、魔裟斗は、結果として魔裟斗の勇姿を見たいと願うファンのニーズに応えているが、当の魔裟斗はリングのうえで、ファンに勇姿を見せるべきだと思って戦っているのではないのです。ここが宮本武蔵と通じるところ。それは神から啓示かもしれぬし、意地と呼ばれるものかもしれない。とにかく当為の正体を見るのは難しく、ハンドリングするのはなお一層困難なのです。

30プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 19:14:26

当為というものは、ビジネスの日常用語でいうと、当事者意識に近いでしょう。“オシオ男”という言葉が今月に入って生まれているが、意欲も能力も万々なのに、しかも矢田亜希子や野口美佳の一時のニーズさえも充たしたというのに、当為が不明で未熟であるということを白日の下に晒したことで、“オシオ男”は信頼を失い、解雇、離婚、関係の断絶の憂き目にあっているのです。さて、当為を考えるにあたっては、感動が一つのキーワードとなります。ある人間の当為が、周りの人の心と共振することを感動と呼ぶとすると、良き当為は良き波動を持っています。藤原さんが教えてくださった「いきいき」はまさにその良き波動の一つです。大事は、この良き波動をいかに自己に持つかということで、例えば過去からの格言が言葉を通してこのよき波動を、時空を超えて伝えているのだとすると、古典に学ぶはその代表的な施策となりましょう。私の問題意識である、いまの意図を「いきいき」したものにするために、あらゆる方策を試みて実利を見定めてみたいと思うのです。

31千々松 健:2009/08/15(土) 21:16:07

>27

『宮本武蔵が、人を斬ることの一つが、外部から求められていることだとしたら、きっとことにおいて後悔すると思います。』

・・・このような単純な反応をされては困りものです。

宮本武蔵は巌流島の佐々木小次郎との決闘でもわかるように、相手から戦いを「求められて」応じているのです。(全ての戦いがそうであったとの保証はありませんが)

外部から求められて、しかたなく剣を抜くという意味なのですよ。ここの点を良く理解をされることを望みます。

良く理解したうえでないと、スピード感はあっても中身の質が保てなくなります。

堀場雅夫氏が「スピードか質か」ということについて書いておられますが、「速さ」を第一とする市場と、「質」を第一とする市場の2つがあるので、常に「2つのニーズ」を念頭に置いて、見極めなくてはいけないと結論着けています。

この宇宙巡礼という「市場」が、どちらであるかは言わずもがなです。

32プロジェクトラーニング:2009/08/15(土) 21:50:43

宮本武蔵は、己とは何者か(すなわち我が当為の本質)を観るために、人と対峙しているのだと思います。五輪書においては、人を斬ることに、「我 事に於いて後悔せず」です。一乗寺下がり松では、吉岡の名目人(幼い子供)を斬り殺しています。これが「求められて」だからですか?千々松さんこそ未だ理解が浅いのではないですか。また、以下の、スピードか質かの議論は、以上の話と何の関係もなく、また私が何かを指摘することは、その正しさ・間違いは大いにありましょうが、(私の)スピードと質のトレードオフにからめられるのは不快なことです。千々松さんのおっしゃっているのは、意欲と能力があって、外のニーズを充たすことが大事だということであり、それは良く理解しています。私は、それに対して、意欲と能力があって、外のニーズを充たしたとしても、なお当為が己のなかに確立していなければ、「我 事に於いて後悔する」のだと言っているのです。この宇宙巡礼は、各々の当為の高めあいの場ではないのですか。

33T.N.:2009/08/16(日) 00:26:26

>28 千々松様、サイトの図拝見しました。おかげさまで見やすくなりました。

>22 <動きのある芸術>に詩が入っているとの指摘に、詩は韻を踏むものだということを思い出しました。

それでも、日本人は漢詩を日本風に読んで味わっているのだから、不思議なものです(漢詩の創作では、中国人の足下にも及びませんが)。

>24 「三方よし」という言葉は知りませんでした。昔からある言葉なのですね。

>29 プロジェクトラーニング氏はビジネスの世界の方なのに、経済的観点が見られないのが、少々不満です

(少なくとも魔裟斗は、ファイトマネーなしで闘っているわけではないはず)。社会科学のなかで唯一経済学がノーベル賞の対象になっているのは、数量化可能な部分が多く、多くの人を納得させられるからだと思います。もっと経済的観点を加味すれば、現場の方の声として説得力が増し、私を含め多くの方の興味を引く内容となるのでは。その上で「当為」の議論に話を進めてはどうでしょうか。

34プロジェクトラーニング:2009/08/16(日) 05:39:07

T.N.さんにアドバイスをいただきました。ありがとうございます。笑い話を一つ。私の知人の経営コンサルタントが、住友商事でまだ若い海外現地採用の人たちに研修を行った際、商社というのは「三方よし」が大事ですとやったから、人事部(教育担当)の課長さんが苦笑いされていました(T.N.さんも笑って下さいよ)。私からのアドバイスですが、重なったところ、「真利」でなく「実利」になされると宜しいのではないでしょうか。

さて経済学ですが、殊に新古典派のミクロ経済学ですが、合理的選択理論は有名です。人間は合理的に選択する。本当か?アダム・スミスが「道徳情操論」で、「人間はいかに利己的に見なされるとしても、明らかに彼の本性にはいくつかの原理が存在している。それらの原理は、他人の運命について彼に関心をもたせ、他人の幸福を見ることによって快を得ることを可能たらしめる。そして、それによって彼は、他人の幸福を彼自身にとって必要なものと認識するにまで至らしめるのである」と述べています。T.N.さん、例えば、意志決定論における、非帰結主義的意志決定やコミットメント問題を一緒に学びませんか。やがて当為命題に行き着くと思うのです。

35プロジェクトラーニング:2009/08/16(日) 07:43:40

大晦日に川尻達也が、あろうことか武田幸三をK-1のリングでKOしてしまったので、「K-1が舐められたということは、俺が舐められたということ」と魔裟斗は奮起し、K-1のリングで川尻達也と対峙したのです。ファイトマネーももらっているでしょう。両陣営ともに鍔迫り合いを期待したでしょう。だけど、そういうことを受容しながらもなお魔裟斗は、K-1のリングでは自らがK-1最強であることを示したかった。こういうのを当為というのです。ビジネス現場の最前線で、人の心をうつのは、当為への感動です。千々松さんやT.N.さんには感謝の念はあれど何一つ恨みはないので、もうこの話はおしまいにしませんか。

36プロジェクトラーニング:2009/08/18(火) 02:50:43

意味論の探求を続けたいと思います。物語を考える予定でした。物語は、「物語る」から来ているとなると、語り手のことを思わずにはいられません。調べてみますと、文字言語に対して「口承言語」と言うそうです。口承ですから、語り手は、印象と記憶をもって物語を伝達することになります。そのため、①印象深い場面は記憶に長く留まりましょうし、②取るに足らない細部は忘却されてしまうでしょう。③また、忘却された細部は、話し手の想像力で補完されるかもしれません。それらのことは、どのような「場」で物語るか、その文脈(コンテキスト)に影響を受けます。

端的に述べますと、聞く側の顔色を見ながら物語の伝承は語り手によりその内容を編集されるということです。この動きをイメージすると、トゥリー(樹木)とリゾーム(根茎)を対概念とみた場合、物語の伝承というのは、リゾーム状の生成を続けると言えるかもしれません。ここまで考えたら、我々が日常的に用いている「アドリブ(即興性)」という言葉について、その重要な機能にはたと気づきました。それが、送り手と受け手のコミュニケーションにおいて、文字によって拘束されない、ダイナミックな表現のことをいうのだと考えると、対話に、溌剌とした活気と、無限の柔軟性を与えると言えましょう。「言語の運動論」を考える際、藤原さんの書籍の多くが識者との対話の形式であることを思うと、上のような示唆が得られるのではないかと考えております。

37プロジェクトラーニング:2009/08/21(金) 21:13:20

「百人一首の魔方陣」では何やら騒がしいが、論点が何かついていけず、私は、「意味論」スレッドで地道に頑張ります。

「物語」と「経験」は同じ構造を持つことに考えが及び調べますと、「語る」は語源的には「象(かたど)る」に由来し、体験を象る、すなわち体験に形を与え、それを明瞭な輪郭をもった出来事として描き出し、他人の前に出すということです。そのようになされたものを「経験」と呼び、哲学的にはこのような表現がありました。経験とは、自分で行為してみて、その結果を知覚することで、自己の行為とその結果との非可逆的な因果関係を通り抜けることによって成り立つ。「物語」の定義が、「少なくとも二つの時間的に離れた出来事を指示し、そして指示されたもののうち、より初期の出来事を記述する」であるとしたら、「物語」も「経験」も、時間軸に沿って複数の出来事の因果関係のコンテキストを設定することだと言えましょう。

私は、実務的に経営学を企業で指導しているのですが、リーダーシップ開発のテーマがあり、よく考えると、研修でリーダーシップが開発されるはずもなく、①仕事を通しての経験、②他者から受ける薫陶が、リーダーシップを形成する土壌です。それらを言語化し持論を持つ(具体的には書く)というエクササイズを多用しています。意味論とどういう関係があるか未だ研究中ですが、経験に働きかけて言語化して意味を深めるという技術はビジネスの現場ではとても実利をもたらします。

38プロジェクトラーニング:2009/08/22(土) 06:16:45

T.N.さんから、私が経済的観点から考えないので少し不満だとコメントをいただき、なんとかそれに建設的に応答したいと思っていました。卑近な例ですが、すこし前に老舗料亭の賞味期限や原産地の偽装問題が話題をさらいました。経済学的に考えると、ウソがばれる確率×ウソがばれたときの損失が、ウソをつくことによって得られた利益よりも小さいという計算をして、ウソをついてしまうと言えます。この経済合理主義の考えでは、この計算は間違っているので、解は、過ちを起したときのコストが極めて大きいと考える仕掛けをつくることであるとなり厳罰主義へ向かいます。あたかも、飲酒運転撲滅の世論が高まったときに、飲酒運転で摘発されると解雇するということを宣言した役所や会社のようです。

ところがビジネスの現場で大事なことは、信用は計算ずくでつくられるものではないということです。ウソはつかないという姿勢を持ち仕事にあたることで信用は生まれると考える。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、資本主義を成立させたのは、経済合理性ではなく、宗教に支えられた倫理感であったと述べています。資本主義を生み出したのは、正直、勤勉といった市民精神が大切なものだったのではないでしょうか。そもそも、経済計算を適用してはならない問題というものが世の中にはあり、当為について議論するにあたり、経済的観点から考えることは馴染まないと私には思えました。

39T.N.:2009/08/24(月) 23:59:47

>28 千々松氏の図のムダ・ムリ・ムシに倣い、私も「三方よし」で空いたところは何かを考えてみました。

自利・他利のみ : 通常の商行為・企業活動。行過ぎると悪徳企業、業界エゴ。

自利・公利のみ : 義賊・鼠小僧。合法的には無理。

他利・公利のみ : ボランティア・チャリティー。余裕がないと無理。

最近、社会起業家ということが言われだしたのも、ボランティア方式の援助の限界が自覚されるようになったからではないかと思います。格闘技やスポーツに限らず、ある程度以上の規模の人間の活動を継続していこうとすれば、経済的観点は無視できません。経済的観点なしに結婚はできても、続けることは無理でしょう。

私は意味論には不案内ですが、藤原氏はレシオの重要性を説いておられます。つまり、全体とのバランスです。

経済的観点を欠く議論は、私にはどうしてもバランスを欠くもののように思えます。

>38 以上は、プロジェクトラーニング氏に倣い、自分の考えを述べてみたもので、この点について議論したいわけではありません。これまで通り、意味論の話を展開していただければと思います。

40プロジェクトラーニング:2009/08/25(火) 06:11:30

T.N.さん、『経世済民の新時代』(藤原肇)をお読みですか? 正慶孝氏との対話の中で藤原さんがおっしゃっているのは、一つはメタサイエンス(全体を統括する原理、公理、ホーリスティック)の重要性で、それを経済学で一例を示すと、コンドラチェフの波でありレオンチェフ表だと述べられている。もう一つがバランス感覚で、百科全書派を取り上げ、全体が見えてその中で問題を位置づけし、全体との関係を比率として捉えることが理の基本とある。藤原さんの教えを真摯に受けとめ、自ら学び自ら「開智」していきましょう。

ジョン・デューイは、教養とは、絶え間なく、意味の認識の範囲を拡大し正確さを増していく能力であると述べています。何学でもいいではありませんか。状況に適した問題解決を思考していきたいものです。ともに切磋琢磨いたしましょう。

41T.N.:2009/09/08(火) 19:57:13

「ジャパン・レボリューション」の第三章、藤原氏と正慶孝氏の対話で

「将棋を見ても、玉(王将)があり、金・銀があり、桂馬と香車はニッキ(肉桂)と香辛料であるというように、自然の宝の交易品が織り込まれています。」

「将棋盤にはメッセージが込められている。一種の曼荼羅といってもいいですね。「王」ではなく「玉」である意味を受け止めないとダメです。」という部分。将棋がチェスと最も違う点は、相手から取った駒を使えることですが、これについて日本の戦闘の風習に由来するという解説を読んだことがあります(負けた側の家臣が処刑されるのではなく、勝った側の家来になる)。

それよりも、将棋を単なる戦闘ゲームでなく、交換を土台とした経済ゲームの面も持つと考えたほうが、すっきり理解できるようです。

42T.N.:2009/09/11(金) 19:45:32

「ジャパン・レボリューション」の第六章、藤原氏の発言

「中国は漢字を簡略化したために古典を読めなくなっていますし、韓国もハングル文字化によって中国の古典を読めなくなっています。それに比べて、漢字を使っている日本人は恵まれているのですが、そのメリットを生かしていませんね。」

これは、将来中国や韓国で意味論オンチが大量発生するかもしれないという、警告ないし予言のように思えます。

日本人の場合は、近年増えているカタカナの外来語の問題を一先ず置くと、漢字をどう取り扱い、どう付き合うかということが、意味論オンチに陥らないための第一歩となるようです。

43T.N.:2009/09/13(日) 02:35:59

付け加えさせていただきますと、藤原氏が米国を去り台湾に移られたのは、中国の古典を読むのに一番便利な場所ということも理由の一つだったのではないかと考えております。

44T.N.:2009/09/15(火) 01:17:10

9月14日、NHKの「クローズアップ現代」で希望学を取り上げていました(番組は前半を少し見ただけなので、多少違っているかもしれません)。ゲストに呼ばれた先生が、多くの人の調査から、希望とは漠然としたものに対するもの、幸福が現状維持的なのに対し希望は変化を求めるものというような解説でした。何だか当り前のことを再確認しただけのような解説に思えました(そりゃまだ叶っていないことを、ねがいのぞむものでしょうし)。

昔の人がこの概念に当てはまる字は何だろうと必死に考え、当てはめた漢字を音読みして多くの言葉が生まれ、それを何代にも渡り人々が違和感無く使って現代に至ったわけですから、まず漢字から考え始めるのが一番効率的なのではないか、そういう習慣が日本中に広まったらどんなだろうか、などと考えた次第です。

45プロジェクトラーニング:2009/09/15(火) 07:04:03

今週末から最大9日の休みがとれる秋の大型連休が始まります。国内の消費不振の問題を少しでも解決できるのではないかと期待が寄せられています。私の問題意識は言葉です。誰がつけたのか知らないがシルバーウィークと言うそうです。ゴールドに対してシルバーですから「5月のゴールデンウィークに次ぐ」という発想になります。カレンダーを見て下さい。祝日の配置はまったく同じ構造で5月と遜色ないのです。シルバーウィークという言葉を使った瞬間にゴールデンウィークの消費額の何掛けとなるのに決まっている。私案は、たとえばアースウイークとか言ってみたらどうか。このかけがえのない地球を想い時間を使おうというコンセプトで、環境、愛、知恵、平和、そういった普遍的な価値を、地球を想って享受する連休とする。ちょっとしたひとり言でした。

46一色:2009/09/19(土) 10:38:08

『さらば暴政』の造刷りが待たれますが、東京の大手書店でもまだ初版のものばかりのようです。ソフトカバーだから初版が多かったのでしょうか。

47T.N.:2009/10/11(日) 23:18:56

「マクロメガ経済学の構造」の297頁、藤原氏の発言

「日本には未だ意味論的な学問が存在しないし、個人の生活習慣の中に、ことあるごとに辞書をひいて、正確な意味を調べようとする態度が、フランス人のように定着するに至っていない」

漢字に注目することが、日本人にとって意味論を活用する第一歩かと考えるのですが、これはそれ以前の第零歩ともいうべき心得かと思います。最近は携帯に便利な電子辞書もありますし、それでわからない言葉はインターネットで検索すれば大体はわかります。ただ漢和辞典だけは昔ながらのものを使っているので、漢字の語源もわかるような便利なものがあればと思っています。

48千々松 健:2009/10/12(月) 10:36:31

最近「懈怠」の読み方と意味を調べる必要があった。

「カイタイ」と読む場合は法律用語に属していて、1)訴訟行為などで、一定の期日を守らないで責任を果たさないこと。2)「過失」と同義

「ケタイ(ゲタイ、ケダイ)」と読む場合は仏教用語に属していて、1)悪を断って、善を行うのに全力的でないこと、精進の反対。2)なまけて、おこたること

良く「過誤・懈怠」と並んで使用する場合があるが、「過誤・過失」に読み換えてもよさそうである。ただし、この場合の過失は「期日を失念して経過してしまうこと」と読み取らねばならない訳です。

電子辞書やネット上の意味検索でもかなりのことが解り便利になりましたが、まだまだ広辞苑などの紙媒体も手放せませんね。

49T.N.:2009/10/13(火) 01:24:38

「マクロメガ経済学の構造」の300頁、藤原氏の発言

「ことばと共に次元の展開の問題が大切であり、コミュニケーションにおいて低エントロピー交信が出来るようになった人は、次の段階で多次元発想へと開拓領域を拡げていくのです。」

この中の「低エントロピー」、「多次元発想」がそれぞれ意味論活用の第二歩、第三歩に当たるのではないかと考えます。

まず「低エントロピー」ですが、同書276~278頁の藤原氏の発言

「国際的な次元でも、お金の意味する哲学的な内容が、その実態と全く違ったものになってしまった。今こそ誰かがセマンティックス(意味論)で、画期的な仕事を残さなければならない時です。」

「昔は穀物や肉として価値それ自体があり、次に金貨や銀貨のように価値に密着した物質が代理通貨になった。更に、金との交換性を持つ兌換紙幣から、遂には紙切れにすぎない不換紙幣になり、ついこの前は信用ということで小切手や手形という私文書みたいなものになってしまったと思ったら、情報化時代になって今度は単なる符号に変ってしまった。実体としてのモノと符号の間の肉離れは実にすさまじい」

「意味論(セマンティックス)としてのことばの概念が、情報化のスピードに追いつけないのと、実体と媒体との肉離れ現象が著しい。」

ここでのお金の例に見られるような、空間的・時間的移動による言葉と実体との乖離を小さくするところに、意味論の価値の一つがあるのだと思います。

次に「多次元発想」ですが、同書306~307頁の藤原氏と松崎弘文氏の対話

「決めつけた言い方をするなら、現在の経済学が議論しているのは、極大と極小の問題にすぎない。」

「それから、時間を無視したバランスの問題です。更につけ加えるなら、社会的な富の配分ということになる。例えば、企業の経営論においても、毎日経営を行っている企業を対象にしている訳で、利潤ということばも、果たして適正利潤かどうかは問題にせずに、とりあえず利益といったことで大福帳勘定でごまかしてしまっている。」

”極大と極小”というのは、例えば利潤を極大に、費用を極小にというようなことかと思います。大福帳のように閉じたその家だけという次元なら、とにかく利潤を最大にするのが最も合理的な行動です。これが複式簿記式の社会とつながりのあるより高い次元で考えると、不当に高い利益は誰かの不当な損害となるわけですから、より価値の高い適正利潤という考えが生まれてくる。更に時間も考慮したより高い次元では、長期的な利益も考慮に入れることになるわけです。同じ利潤という言葉でも、次元の展開の程度により、内容が変わってきます。

50千々松 健:2009/10/13(火) 12:10:10

「空」=「そら」と「くう」の次元の違いについて

夜空(よぞら)に一杯の星の輝きはまさに色(いろ)そのものです。この星空(ほしぞら)を「有」としましょう。実際に古くから人類は星たちを結んで星座などイメージして来ました。

昼間は太陽に照らされてその星空は見えなくなり一面の青空(あおぞら)のみです。この青空を「無」としましょう。

この次元では星空も青空もまさに「色(いろ)」の世界です。

しかし、夜も昼も見上げている天空の「本質」を考えると、星空の有に非ず、青空の無に非ず、「空(くう)」としか言いようがないのです。

『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』とはこのことを意味しています。前半の空と色は「そらといろ」の次元ですが、後半の空と色は「くうとしき」と呼び、より抽象化が進んだ高い次元になると考えられるのです。

インドで誕生した厳密な意味をもつ「ゼロの概念」も実は二重の否定で成り立っていることが解ります。プラス(正数)に非ずして、マイナス(負数)に非ずの存在はゼロ=0に行き着くしかありません。

紀元前に釈迦が仏教を説き、その後に竜樹が大乗仏教を確立してから「空=ゼロの発想」が定着し、やがて数学の世界にゼロの発見をもたらしたと私は解釈しています。

もしも「ゼロの発見と般若心経」にご興味があれば、以下をご参照ください。

http://8w1hflkm.jp/column/zero-ku.html

51T.N.:2009/10/16(金) 00:24:08

千々松様、サイト拝見しました。

「理は利よりも強し」の246~247頁

「江戸時代中期の富永仲基は「出定後語」の中で、言葉には類別と時代と人の制約条件があり、言葉の乱れが概念の解体に繋がるから、条件の識別がセマンティックスの基礎だと論じた。」

千々松様の「空=ゼロ」に至るまでの思想の流れを、仲基の「加上」の理論(思想家が先人をしのぐために新説を工夫すること)のように、思想史的に位置づけると面白そうなのですが、私の能力ではとても論じられないので、提案に止めさせていただきます。

52千々松 健:2009/10/19(月) 08:21:45

>51 T.N.様 有り難うございます。

富永仲基は大阪で、適塾も大阪ですね。基本から考え、必要十分に考え、順序と逆序で考えることの大切さを再認識させられました。

「役に立つこと」すなわち「何かを変える智慧を内蔵していること」という意味で般若心経はあらゆる角度から見直しがなされて、時空を超えて、伝えられるべきものと考えています。

音読に適したリズムを持たせたものを編集して載せていますので、ご利用ください。

http://8w1hflkm.jp/column/yomuhannya.html

53千々松 健:2009/10/22(木) 10:10:36

>52につづく

ごく簡単に言えば、富永仲基は現存する仏教経典類は「加上」の法則で解釈すべきであるという方法論を述べているのだと思います。

お釈迦様の言ったと伝えられる表現でいえば、今の時代は「末法の時代」に該当しる訳で、加上に加上が重ねられて、当初の意味が深耕されたり、拡大解釈されたり、場合によっては曲解されたりしたと考えねばならないことになります。

いずれにしても、彼は「法」が正しく伝えられないことを見通していたわけです。

「既知のものを未知のもので見たり、未知のものを既知のもので見たりする方法」により、仏教の全体像を見直してこそ、仏教におけるルネッサンスが可能となると思います。

その最初の一歩は「般若心経」の翻訳上の見直しにあると考えています。

般若心経の本質を、旧仏教(小乗)に対しての新仏教(大乗)派による批判的なキャッチコピーと考えれば尚更に、有でもなく、無でもない、空の概念を提示することが重要であるのです。

流布されている玄奘訳には古い鳩摩羅什訳の「非過去、非未来、非現在」を復活させ、「無無明」は「非無明」に置き換えて、サンスクリット語の「na」という否定形を前後の関係から「不・無・非」の三つに区別して訳すことが肝要でしょう。

そうしてこそ、有か、無かの二元論の小乗に対して、両方を非ずとした「空の論理」が引き立つのです。

例えば「無苦集滅道」は苦集滅道が無くてよいのではなくて、一旦はとことん「苦集滅道」で問題解決を図ることが必要であるが、その後は「苦集滅道」を離れて、とらわれない見方をする十分さが大切であると解釈すべきでしょう。従って「必要十分条件」「順序と逆序」に当たり「非苦集滅道」に訳した方が適するわけです。

詳細は下記の新改訳「般若心経」案をご覧願います。

http://8w1hflkm.jp/column/muniarazu.html

54T.N.:2009/10/25(日) 01:32:09

「教科書では学べない超経済学」の184~185頁、藤原氏と落合莞爾氏の対話

「フランス語ではコンピュータをオルディナトゥールと呼ぶが、英語のように単なる計算する機械ではなくて、秩序(Ordre)と言う言葉を語幹に持っています。そして、それが秩序形成を命じる者だというのは、意味論的に非常に興味深いと思うのです。」

「コンピュータだと計算機が進化したものだが、秩序を司るとしたらこれは神様の延長になりますね。」

名称一つにも英国の経験論や帰納法、フランスの理性論や演繹法が窺われるのが面白いところです。

55千々松 健:2009/10/25(日) 10:01:12

>54 ordre=orderにちなんで、

"Don't order them captain, ask them." これは「K19」というハリソン・フォードが監督兼主演をした、史実に基づいた映画のクライマックスに出てくる台詞です。

核燃料事故を起こしたソ連原潜の副艦長がハリソン演じる艦長に進言した印象深い言葉です。日本語の字幕には確か「命令しないで、頼みなさい。」というように出ていたかと記憶します。

ただし、映画を見れば解るように、今まで、艦長があらゆることを単独に意思決定し、命令を出して事故の復旧に当たるが、旨くいかなくなり、色々のことが発生する中で、経験を積んだ副官が、苦渋に満ちて伝える言葉であり、それに対して少しの間をおき、ハリソンは納得して、全艦員に現状を訴え、どんな選択があるだろうと質問(ASK)しているのです。

種々の意見を聞きだした上で、では、こうしたいがどうだと再度聞きなおして、最後の決死隊を放射能に汚染されたコアに送り、結果的に助かるという流れです。

この場面ではASKは依頼ではなく、質問の意味なのです。キーワードを物語の全体の流れの中で正しく翻訳するのは大切なことです。

56T.N.:2009/10/28(水) 00:58:21

「理は利よりも強し」の170頁

「情報を質の面で掘り下げる時でない限り、一般にインテリジェンスの面は看過されがちだ。だが、インテリジェンスはソフトな能力であり、分析と評価を加えて全体の中で位置づけ、どんな条件が意味づけに必要かを考えて、実践の構想をするプロセス全体を指す。」

この中の”どんな条件が意味づけに必要か”の部分。文脈の中でその言葉が、どういう条件で使われているかは、省略されていることが多いので、それを読み手自身が補って読まないと、本当の正しい意味が掴めません。

>51で触れた富永仲基はその条件を類別と時代と人としたわけです。

参考になりそうな例を一つ。クリフォード・ストール著「インターネットはからっぽの洞窟」第2章の話。

1980年代前半、中国の南京に留学したストール氏は、宋明朝時代の天体観測記録を研究している中国人の教授が、そろばんを使った手作業で計算しているのに呆れ、持ちこんだパソコンで効率を上げてみせようとします。しかし、計算結果が合わない。中国人教授の指摘でストール氏は、彼が観測者ごとの精度の違いやあやふやな記述までも考慮した複雑なデータ処理方法をあみだしていたことを知ります。本当に大変なのは、データを理解し、それをどう利用したらいいかを考え出すことだと悟ることになります。

57T.N.:2009/12/08(火) 02:30:20

昔のTVのスパイ物に指令を伝えたテープが”このテープは自動的に消滅する”の言葉を最後に、炎上するというような描写がありました。なぜこんなことを思い出したかというと、NHKのニュースでパソコンからの情報漏洩を防ぐために、ハードディスクに穴を開けて破壊するという話題を取り上げていたからです。意味のあるものを破壊して無意味なものにするわけですが、この場合対象が物理的に存在しているので、わかりやすいわけです。千々松氏がよく取り上げられるゼロの発見については、対象が見えないためゼロの認識に至るまで、途方も無い年月が必要でした。最初から”無い”で済ませてしまうと思考の対象にならないので、”無が有る”とすることにより、ようやく深く考えられるようになったわけです。

ついでに書くと、数学や哲学では自己の自己に対する作用はしばしば盲点になるらしいので、自動消滅するテープというのは、中々気が利いたアイテムです。

58千々松 健:2009/12/08(火) 16:38:20

<SWOT分析に意味を持たすには>

マーケティングの手法で「SWOT分析」というのが知られています。内部環境である自社の強みと弱みを把握して、他社も含む外部環境である機会と脅威を分析したりするものです。

これを、より戦略的に使用するためにはストーリー性を持たさなければならないことを最近やっと理解しました。

強み(S)のコアを使って、脅威(T)やリスクを抑え込んで、機会(O)に変える工夫をして、弱み(W)を他社との提携などのアライアンスで補強して、結果として強みに変えていくこと、といった一連の物語を構築するのです。

SWOT分析表の中では丁度8の字形を描くようにして考えていくのが良いのです。そうしてこそ、分析が分析に終わることなく、一連の統合思考から具体的な行動への道筋が見えてくるのではないかと考えています。

ISO9000(品質)、ISO14000(環境)に続いてISO31000(リスク・マネジメント)が国際標準化したようです。

リスクをいかにコントロールするか、テイク・リスクして新規の事業や政策に立ち向かっていくかが問われている今日この頃です。

60千々松 健:2009/12/09(水) 10:22:55

今回の政府の「事業仕分け」から何を学ぶか

基本的にはロジカルシンキングとコミュニケーション能力が官僚たちに不足して、学者や科学者たちが組織的な声明を一方的に発表し、短絡的に反発しているという印象が持たれた。いずれにしても、ディベートやネゴシエーションといったスキルの重要性が見えてきたと思う。

私がIT業界に居て、新卒たちの文系と理系の発想の違いや、優秀なシステムエンジニアに育てるための基礎訓練を通じて学んだことは、今から思えばフローチャートのような「目に見える形」にすることの重要性であった。言葉や感情を超えて、形にしたり表にしたり数値化したり、時には絵を描いたりしてコミュニケーションを深め、その結果お客様に納得のゆくシステムが作れるということであった。

政府も次年度からは「三拍子でワルツは踊ろう」の戦略ツールを使用して、●Want、▲Plan、■Actionの各レベルを具体的に明示して、トータルとして見て無駄な事業は止め、選択と集中を行って欲しいものである。

61プロジェクトラーニング:2009/12/09(水) 19:15:28

千々松さんがSWOT分析を話題に出していただいたのでコメントさせていただきます。S(強み)W(弱み)O(機会)T(脅威)の用い方の本来は、SO・WO・ST・WTから戦略オプションを導き出すことにあります。企業研修で必ずSWOT分析をしますが4象限のSWOTを整理して終わることが多く、的を射ません。まったくの茶番です。最も大事なことは何をもってSWOTと言えるのか。これは高度な判断です。ビジネス現場での問題は、①SWOT整理が軽薄なこと、②戦略オプションが導けていないこと、この2点に尽きます。三品和宏(以下敬称略)『経営戦略を問い直す』・沼上幹『経営戦略の思考法』を読まれると良いでしょう。

さて千々松さんご指摘の戦略に物語が要るのか。楠木建などが論を立てていますが私は現実的ではないと考えます。強みを活かすことが真っ先だ、これしか言えないと思うからです。統合思考についてはロジャー・マーティンの『インテグレーティブ・シンキング』などを参照されると宜しいでしょう。

62プロジェクトラーニング:2009/12/09(水) 19:31:06

T.N.さんのコメントを読みこんなことを思いました。鎌倉時代に藤原定家という公家の歌人がおりました。私は最近、堀田善衞『定家明月記私抄』を読了したのですが、定家の歌に「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ」があり、無いのに有る、これが日本文化の源泉ではないかと感じ入りました。ひとり言ですが、もっと質素な暮らしをすべしと内省しました。感性の鋭い若者が今日では消費生活に嫌気をさしていることを考えると日本文化の深遠から引きつける磁力は随分と大きく認識の持ち方でいくらでも豊かさは享受できると信じております。

63T.N.:2009/12/10(木) 01:25:15

>51 富永仲基の”言葉には類別と時代と人の制約条件があり”の類別について。同じ言葉でも本来の意味から拡張されたり、新しい意味を持ったり、反対の意味を持ったりするということなのですが、これを思想に適用するとどうなるか。例えば儒教で”性は善でも悪でもない”という考えがあり、次に性善説が説かれ、さらに性悪説が生じる。一つの文章を読み解くのと同様の方法で、より大きな思想やその流れも理解できることになる(考えに時間の流れを加味したのが大きい)。

こう見てくると、議論に次元展開やフラクタルを多用する藤原氏の考え方に、意味論は非常によく適合していると言えます。

64千々松 健:2009/12/10(木) 09:55:08

SWOT分析についてですが、本来のSO・WO・ST・WTに「T0・WS」(リスクをチャンスへ・弱みを強みへ)を加えると、新たな次元になりイノベーションが可能になるでしょう。

それを気付かせてくれたのは、リスク・マネジメントでした。「リスクをチャンスにすること」とは「TからOへ」に相当します。また、昨日、自動車会社のスズキがVWと提携すると発表したように、小型車しか造れなかった弱みが今度は強みに転換すること、即ち「WからSへ」に相当することは明らかでしょう。

「1)学んだこと 2)気づいたこと 3)次にやること」で思考して行動することは●▲■の三拍子に繋がります。それは又「守破離」にもカサネられるでしょう。

次にやること即ち■は、実践行動レベルの計画を8W1Hの考えにより、具体的な最適解でもって物語を構築してから実践に移すことを意味しています。

66プロジェクトラーニング:2009/12/10(木) 13:00:38

トムとジェリーで、トム(ネコ)がジェリー(ネズミ)を追っかけるのですが、ジェリーは壁の欠けた小さな穴を通るのです。体が大きいトムはそこで何もできずに立ちすくむ。千々松さんのオリジナル用語(SWOT分析でより他のフレームで説明した方が良いでしょう)だとWSです。ウィルコムの逆転戦略など事例は豊富にあります。「スズキが小型車しか造れなかった弱みを持っていた」などの認識は、私の指摘したSWOT整理の軽薄さを示すよい例となりましょう。鈴木修氏の発想をご存じですか。造れないのではなく造らないのです。繰り返します。強みを活かすことが真っ先です。ジェリーの認識に体の小さい「弱み」は存在しません。体の小さい「強み」を活かしたのです。

67千々松 健:2009/12/22(火) 11:30:16

インテリジェンスの高い人達が全てであれば、たとえ「禁じ手」も許されるのですが、世の中はよく2:8と言われるように、残念ながら8割程度は言葉どおりに受けてしまい、予期せぬ反応をしがちな訳です。その点を考慮しないと大事は成就しません。

実際的に禁じ手は生命にも危ないのでルール違反とされていて、武道家自身は「禁じ手」を打っては失格してしまいます。

必要ならば「禁じ手」や「封じ手」は影の参謀がやるものでしょう。

その意味で、今の鳩山首相と小沢幹事長の関係も捉えてみたら良いのではないでしょうか。

打ち上げ花火も一度は可能ですが、継続して事業にして行くには、それなりの「人、物、金、情報、市場」の五つの要素が肝要な訳ですから・・・

多少の読み替えは必要になりますが、それは政府である「国家の経営」にも言えることではないでしょうか。

<新政権100日目と冬至を超えて>

68千々松 健:2009/12/23(水) 10:21:57

本日の朝日新聞に「二人羽織り」で将棋を指している政治風刺漫画が出ていました。

「禁じ手」や「封じ手」は小沢氏が後に居て指していることが見て取れるのですが、まさに鳩山首相との関係を一枚の絵で見事に表現しているので、タイミング的にもびっくりしました。

69千々松 健:2009/12/23(水) 11:54:50

「カタルトシメス」という松岡正剛氏の表現に出会いました。外国語ではなくて「語ると示す」のことでした。

その意味するところを勝手に解釈すると「語る」とは物語るに通じて、文字のなかった時代から語り継がれた語り言葉になるのでしょう。また「示す」とは何かと考えると、具体的に何かを見せたり、絵に描き示すこと、あるいはノンバーバルで事柄を示すことと考えて良いでしょう。

そうすると、私流には「コトバとカタチ」になります。言葉を左脳で情報処理して、形を右脳で情報処理して、両方の情報処理を繋いでいる間脳(脳梁も含める)が左右を統合しながら処理して、インテリジェンスに定着していくのではないかと想像しています。

70千々松 健:2009/12/23(水) 20:49:57

“多民族の融合によって成る欧米社会にとって、社会的規範の存在は不可欠であり、その成立過程において西洋近代精神も育成されたと言える。実は「数学の論理」こそ、その根底にある。例えば欧米の「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また「必要条件と十分条件」の基本が理解されていなければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」も理解しがたい。要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい”

以上が『超常識の方法』にて小室直樹氏の言いたかったことの骨子であろう。

そして、付け加えるならば、長く単一民族と信じて疑わないで来た日本人が、この多民族社会の持つ常識に欠けることを自身の「弱み」として認識した上で、何事にも当たる必要があると言いたいのであろう。

71千々松 健:2009/12/23(水) 22:56:17

「キリスト教の精神」と「契約の精神」との関係は多少の説明が必要です。キリスト教の「旧約聖書」はキリスト誕生以前の古い時代での神との契約について書かれたもので、「新約聖書」はキリスト誕生以降の神との契約の書と言えるからです。

決して旧訳・新訳ではなく、「約」は契約の意味なのです。

その契約はまた、人間関係においても、企業関係においても、国際関係においても成立するものです。

その要(かなめ)は何でしょうか? 最近 若き頃の孫正義ソフトバンク社長のDVD講演を聞き、気がつかされた事がありました。

それは何かと言うと、商売は「Win-Winの関係」が重要なことは確かなのですが、最初の切っ掛けはどうであれ、事業がお互い継続化するためには、事前に予知されるリスクの点においても平等に負うべきということです。

例えば、どちらかのみがリスクを持つ、あるいは一方がノン・リスクであるような場合は成功しないという大原則です。

リスクの無い関係はあり得ないのです。リスクをお互いが承知の上で、リスク・マネジメントをして行くことがより自然なのでしょう。

それにしても沖縄返還に関して、実は「密約」が交わされていたという事実の発覚はショックでした。

72T.N.:2010/02/04(木) 21:56:33

アップされた新記事”「無血革命」後の日本を展望”拝見しました。鳩山首相の所信表明演説での「無血の平成維新」という言葉の使い方が批判されています。”維新”はファシストの言葉であり、その意味はクーデターであると。

ただ、これについては「ジャパン・レボリューション」でも指摘されていますが、”革命”という言葉は”○○革命”という形で商業的に散々利用され、手垢の付いたものとなってしまった。”回天”は一般には戦時中の兵器を連想させ、本来の意味と結びつき難い。やむなく消去法で、受け入れられやすい”維新”に落ち着いた、と考えたいところです。

言葉が水増しされている状況では、本来の意味の解説から始めねばならないのが厄介です。

73千々松 健:2010/02/04(木) 22:11:24

量子力学の父と言われたハイゼンベルグは「部分と全体」の中で、「専門家は、その対象とする部門について非常に多くの知識を持っている人というのではなくて、その専門とする分野において、起こりうる最も重大な間違いを知っており、したがって、いかにしてこれを回避できるかを知っている人である。」と述べている。これはまさに「リスク・マネジメントと危機管理」の分野でも大切なことであろう。

昨今のトヨタ自動車のアクセルペダルとブレーキに関する問題は、安全性における危機管理の甘さが露呈してしまったようだ。一方「政治とカネ」の問題は、当事者が回避の仕方を十二分に熟知した専門家であるために、一難は去った模様である。

74T.N.:2010/02/18(木) 01:18:20

中野好夫著「人は獣に及ばず」から

岩村忍の著書に中国元代の詩人・学者、鄭思肖の「心史」の話が出でいて、その中の一節、当時の元代社会における職業の格付けについて

「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八娼、九儒、十丐」

(道は道教、丐は乞食・物貰い)

注目すべきは儒、つまり学者が娼よりも下であること。この基準に従うと、藤原氏が御用学者を批判するのに使う「インテレクチュアル・プロスティチュート」は褒め言葉になります。

75藤原肇:2010/02/18(木) 22:57:20

音楽の素養が不足しているためだと思うが、気軽なオペレッタのほうが好みに合うせいで、年末にウィーンのブルグ座で「フレーダーマオス」を楽しみ、それで新年を迎えた経験が何度かあった思い出がある。

それでも、旅のつれづれにオペラの興行に遭遇して、かなりの数のオペラを楽しんできたのであり、どんなオペラが印象深かったかと尋ねられれば、「セビリアの理髪師」「マダム・タフライ」「椿姫」「フィガロの結婚」「ラボエーム」と答えそうだ。

ブタペストを訪れたときに幸運なことに、「ラボエーム」を三日連続で興行していたので、三晩立て続けにオペラハウスに通い詰めたように、ロッシーニの素敵なメロディーは魅惑的とはいえ、イタリア歌劇としては「蝶々さん」の方がピンとくるのは、幕末期の長崎を舞台にした話なのと、日米関係をシンボライスしているせいだろう。

また、「セビリアの理髪師」と「フィガロの結婚」は共にボンマルシェの作品で、フィガロはウィーンのオペラ座で観劇したが、スカラ座での床屋劇の方がより印象的だった。「椿姫」はパリの古いオペラ座で見たか、ことによるとシャンベリーの劇場だったかも知れない。

セビリアの床屋はフィガロだから続き物であり、問題は「マダム・バタフライ」と「椿姫」であるが、蝶々さんは芸者というよりも娼婦に近い妾であり、椿姫はサロンを主催する高級娼婦である。十九世紀はまだ女性が解放されていなかったので、高級娼婦や妾が女性の生きる道だったから、悲劇の主人公として登場しても不思議ではない。

だだ、彼女たちは文学や歌劇に主人公として登場するが、江戸っ子から軽蔑されたヨタカは絶対に登場せず、私がかつて「電波芸者」についての議論において、TやSを名指しで「電波ヨタカ」と呼び、御用学者をインテレクチュアル・プロスティチュートと呼んだのは、意味論的に厳密な区別をしたつもりだった。

だから、T,Nさんが娼は儒よりも上だと結論付けるのは問題で、娼には芸を身に着けてなる芸者を含む公と、私益のために芸もない私的な娼の違いがあり、御用学者の多くがカネのために走狗として、権力に節操を売るという解釈をしたいのですが、どんなものでしょうか。

76T.N.:2010/02/19(金) 00:31:02

藤原様、お手数を掛けることになり、大変申し訳ありません。まず、74の投稿目的なのですが、「情報を発信することの価値」スレッドで書いている私自身、腹立たしく感じる内容が続いていたこともあり、読まれている方にも気分転換になればと思い、書いてみたものです。中野氏の引いている岩村氏の本によると、鄭思肖自身が学者であり、蛮族出身の元朝では、あまり学問というものを尊重せず、彼も学をもって官途を志したが挫折に終った。そこでやっかみ、自嘲ということもあり、娼婦の下、乞食の上に置いたらしい。つまり、特殊な条件下での八つ当り気味の基準を、私が冗談の種に使ってみたというところです。相済みません。

77千々松 健:2010/02/19(金) 11:06:59

<事業仕訳効果を3倍にする方法>

今回の国の事業仕訳における大義名分はムダを無くすことであった。しかし、ゲーテの「当為」=To Doを引用するまでもなく、ムダだけでは収まらないのです。「やりたいこと、できること、求められていることの三つが重なった部分=大切なこと=大事(ダイジ)と呼ぶ」に絞り込むことこそ大義としなければならないと思う。ムダは「やりたいこと且つできることだが求められていないこと」に過ぎない、その他にもカットされるべき対象にムリとムシがある。ムリは「やりたいこと且つ求められていることだができないこと」であり、ムシは「できること且つ求められていることだがやりたくないこと」である。数学の集合論の発想が必要とされるし、それは選択と集中の理屈であろう。

宮本武蔵が“われ、ことに於いて後悔せず”と言い残したことの意味を吟味するとゲーテとの共通性が見出されるのです。

この観点から事業仕訳を行えば、単純面積計算でムダ:ムダ+ムリ+ムシ=1:3となり、3倍のカット効果となるでしょう。事業のスリム化はこの三つのムを無くすことです。『スリー・ム』は3ムに通じると思います。(語呂遊び?)

http://8w1hflkm.jp/column/sigoto.htm

78T.N.:2010/02/20(土) 00:43:51

>76 結果的に藤原氏を煩わせることになってしまったのですが、直接に意味論の話を伺えたのは怪我の功名かとも思えるので、少しだけ続きを。

先に引いた本によると、同様の自嘲を晴らした元朝の読書人はほかにも幾人かいるそうで、順位が多少変わるものの、一官、二吏と、九儒、十丐はつねに不動だとのこと。問題は上位を譲らぬ官、吏と儒との途方も無い格差。昨日までの貧乏学者が権力の走狗となるや、たちまち富と名声を得る。

この格差ゆえにそうしたことが、昔から続いてきたのでしょう。千々松氏が「日本の回天」スレッド49で引いた「ルーミー語録」もそれを前提としたものと思います。窮乏の内に死んだとされる孔子の一番弟子顔回の真似が、誰にでもできるものではない。利用される者の心の貧しさを攻めるだけで、解決することなのか。あるいは、シャミッソーの「影を売った男」でも思い浮かべるべきなのか。

新約聖書の”人はパンのみにて生くる者に非ず”、論語で孔子が政を問われて信・食・兵を挙げ、やむを得ぬ場合はまず兵を去り次に食を去れと説く。いずれも食(経済)よりも大切なものがあるということで、藤原氏の「理は利よりも強し」に通じるかと思います。ただ私などは、食(経済)を2番目辺りに置いているところに、しっかりしているというか、したたかな一面を感じます。

79T.N.:2010/03/10(水) 23:05:54

NHKのTV「クローズアップ現代」で無料ビジネスを取り上げていました。チョコレートを商品に使った実験で、価格を下げていくのですが、価格が無料になると消費者の行動が予想のつかないものになる。無料というのは有料の商品と全く違う意味を持ってくる。数学でゼロと無限の取り扱いが厄介なように、人類にとって無と無限は、まだまだ謎が多い対象のようです(逆に言えば、活用の余地が多く残っている)。

80T.N.:2010/03/13(土) 00:05:10

>「日本の回天」スレッド54 藤原氏が平野氏に託した「ジャパン・レボリューション」の意味をどう解釈するか。

例えば藤原氏が代価を受け取れば、本は商品ですが、無償としたことにより商品とは別の意味を持つものとなった。

藤原氏の言葉を借りれば”平成無血民主革命の行く手を照らす松明”となる。これに近いのは、教会で無償配布される聖書でしょうか。

現在の経済学では無償の価値は測れない(無償のボランティアとか)。料金が無になると、意味の転換が起こり、有料の商品とは違うものになってしまう。そこで経済より上位の価値を持つものとなったと考えるべきか、経済学が無の概念を取り込めば説明できるようになるのか。

ともかく経済学に限らず、無と無限の概念を取り込めれば、大きく視界が広がるような気がします。

81千々松 健:2010/03/13(土) 15:26:31

無は無限を産み、有は有限に終わる。そして更に、非無・非有であれば空が生まれ、そこには永遠の循環が見られるであろう。

その意味で清水博先生が述べている「生命の贈与循環」は正に無償の価値贈与を意味していると思う。

ギブ&テイクは交換価値から貨幣制度を産むが、無償のギブ&ギブは何ら貨幣を必要としない。それは同じく貨幣を必要としなかった物々交換の世界とも意味は違ってくる。

あくまでも「交換」は価値の双方向への移動であるが、「贈与」は一方向の移転となるからだ。

親から子へ、子から孫へ、それは遺伝子のごとく引き継がれていき、その母親の愛が無償であるように、その過程では何らの対価も求められない。

貨幣(マネー)も言葉もコンピュータも人間を幸福にするための道具でしかない。それらの便利性は認めるとしても、その便利な道具たちが主人となって人間を奴隷化してしまっては本末転倒である。どんなことが起きても人間が主人公でなくてはならないと思う。

82T.N.:2010/03/14(日) 21:09:41

>「英語版Japan's Zombie Politicsの出版について」84以降で取り上げられているキンドルを、無料ビジネスの一例とすると、見事に無と無限の組合せです(実際には擬似的な無と無限ですが)。

・通信料無料で利用者を無限に増やす。

・再ダウンロード無料で、端末1つで無限の本が読める。

・ダウンロードに時間・場所の制約無し、これにより無限の時間・空間内での利用可。

無と無限を捉えれば、21世紀のビジネスの方向性が掴めるかもしれません。

83千々松 健:2010/03/16(火) 17:01:48

「間脳幻想」を1年ぶりに図書館より借りて観ました。

絵図・イラスト・写真といったビジュアルは全て見開きの左ページに配置されていることが確認できました。

左側にカタチ、右側にコトバというスタイルが徹底していましたから、やはり左脳と右脳の情報処理機能でノーベル生理学・医学賞を取ったスペリーの理論に沿っていると感心しました。

実は脳活性型ノートである「鎌倉ノート」においても、その考え方に沿った手書き式ノートになっています。(2012年5月以降は「Hybrid 鎌倉ノート」にリニューアルされています)

鎌倉と言えば樹齢1000年と言われた鎌倉八幡宮の大銀杏が3月10日に強風のため根元から倒れてしまいました。公暁が実朝暗殺時に隠れた銀杏として歴史に残った木であったのに残念です。

また、若木の生命体から育つことを祈願しましょう。

「間脳幻想」P312からの引用です。

藤原「新しい形態をもって生命体が発展していくメカニズムは、促進物質と抑制物質の攻防戦にあり、それがより高い次元において統一された表現形式がフィボナッチ数列だ、と確信します。」

「生命の贈与循環」により、親樹から子木へ更には孫の木へと遺伝子的に伝わっていくと考えると、フィボナッチ数列が関与するに違いないと思います。

そして、9を法とするモジュラー算術によりフィボナッチ数列を見直せば、24項目毎の循環性とFLKM系列の4つの流れが「賢者の石=霊薬」となって現れたということになるのです。

84千々松 健:2010/03/17(水) 00:07:57

「間脳幻想」からの引用つづき

P130

藤井「量子物理学が素粒子理論を通じて、ハイゼンベルグの世界にたどりつき、易経における太極を物質の究極のモデルとして考える科学者たちが続々と現れています。そのアナロジーを使うならば、おそらく生命現象におけるさまざまなものが、そこにたどりつくだろうし、脳の機能における最後に残っているフロンティアとしての意識の問題も、最終的には陰と陽が統一された太極のモデルの中で、われわれにひとつの解答をもたらすでしょう。」

(原文の大極は太極に変更してあります。太陰大極図の表現もあるようですが、グーグル的には太極の方が圧倒的でした)

クオリア研究者である茂木健一郎が読んでいれば、何とコメントするでしょうか?

P233

藤原「記号論ばかりがもてはやされる日本では、意味論は苦労が多いから、誰もやらない。日本人で意味論に正面から取り組んだのは、弘法大師一人しか居なかった、と言えます。」

フィボナッチ数列から産まれた「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」と「ラセンモデル」は、まさに陰陽の太極を表現しています。そしてカタチとコトバ(数)で或る何かを意味しているのではないでしょうか。

85T.N.:2010/03/18(木) 00:57:04

>82 ネットで調べてみた限りでは、0×∞ というのは定義できない、従って値としても示せないということのようです。無料ビジネスというのは、こうしたことを考慮して行っているのかどうか。

ただ経済的な利が仮に無だとしても、それ以外の面が無という訳ではない。キンドルを例に考えれば、膨大な数の人々に極めて効率的な読書の機会を提供するわけで、その結果はそうでない場合と比べて、たいへんな違いがある。あまりにも利にだけ着目すると、それ以外の面(特に簡単に測れない要素)を見逃し、誤った評価をすることになりかねない。歴史上、経済的にも軍事的にも無に等しいような聖人が、後世の歴史を変える程の影響力を持ちえたのは、測れない面が巨大だったからではないかという気がします。

86藤原肇:2010/03/19(金) 09:54:24

『間脳幻想』は終に出版社において在庫がなくなり、再販予定がないので入手が困難になると思います。その理由は図版が多かったために製作コストが嵩み、一冊作るのに5000円以上も費用がかかったが、内容がそれに値すると落合莞爾さんが考えたので、初版を買った人にプレゼントする意味で本を出し、飼った人に喜んでもらうという配慮があったのです。

だから、ぼろぼろになるまで三冊買い換えたという飯山さんなどは、その恩恵を最大限に満たした読者だと言えるし、多くの人が同じ満足感を味わったと聞いています。熱心に書き込みを続けている千々松さんが、図書館から借りて読んでいたと知り驚きましたが、藤井先生の薫陶を存分に味わうという意味では、本を手に入れて書き込みしながら読めば、より多くの収穫が期待できると思います。

品切れになった今となって唯一の方策は、「宇宙巡礼」の書店を訪れることであり、そこには未来の読者のために何十冊かが確保され、入手可能になっているはずですが、同じことは『ジャパン・レボリューション』にも言えもことでして、後数週間で平野さんとの対談が出れば、たちまち読者が殺到して売り切れてしまうかも知れません。

鳩山や小沢はこの本を平野さんから受け取ったでしょうが、彼らがこの本を読んで理解するだけの人物なら、日本の政治はもっとまともな形で動いているはずであり、それを正慶さんは草葉の陰で嘆いているのではないかと思います。

87千々松 健:2010/03/20(土) 08:17:48

「間脳幻想」は読めば読むほどに味が出て来て、まるで噛めば噛むほどに滋養となる高級梅干しのようです。

読む人の問題意識に比例して、威力を発揮する不思議な力があるのですね。是非とも手元に置いて書き込みしながら、また時間を置いて何度も読み返しながら愛読して行きたいと思います。

さて「想念力の驚異」(東明社1996年)P30から

塩谷信男「メタでもパラでもないより大きなもので、宇宙の無限力と共に生きること」にヒントを貰いました。

もしや「パラメタ」は般若波羅蜜多のパラミータに通じているのではないでしょうか?

パラ般若でメタ般若が「Infinite Cosmic Power」の意味になるのではないかと思います。

そして、道具も道場も必要としない「正心調息法」はまさに無料で無限を産むという例になると考えました。

88千々松 健:2010/03/20(土) 21:38:40

有機化学におけるベンゼン環の結合には「オルト結合、パラ結合、メタ結合」の3種類が存在し、6角形の核で、隣同志に位置する場合はオルト結合(位)、一つ越えた場合はメタ結合、二つ越えた場合(反対側)はパラ結合と名付けられているそうである。

ギリシャ語が語源であるとされるが、パラについては「パラギャーテー」のパラ(彼岸)に似ているので梵語にも共通するであろう。

パラは両側の、~の向こうに、~に似た、という意味もあるし、折り紙のイメージかもしれない。中央の折れ線(川)でもって折ると両側(岸)になるカタチであるので、こちらの岸から、あちらの岸へ渡るイメージになり、それは陰の世界と陽の世界の違いとの相似象でもあろうか。

お彼岸の季節にあたり、北海道十勝産の小豆のつぶあんで出来たおはぎを食べながら、そう考えた。