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第3集 最近読んで印象的だった本 【25~265】

25名前:藤原肇 投稿日: 2008/08/01(金)

小川洋子さんが著した「博士の愛した数式」(新潮文庫)は知的好奇心を満たす本として、高校時代の数学で習った記憶のない「友愛数」や「完全数」という興味深い数字が次々と登場したおかげで、最初に「フィボナッチ数列」に出会ったときに似た興奮を覚えた。

当然のことで「オイラーの公式」も登場していたし、「フェルマーの最終定理」も出てきてなつかしかったが、この数ヶ月にわたって千々松さんが「思考道」で頭の体操に案内してくれ、数学的な思考に慣れていたお陰もありスムーズにこの本を読み進むことが出来た。

それにしても190ページにあった「・・・分類の基準はただ一つ。サイズのみで、見た目にはすっきりしたのは間違いないが、長年に亘り見慣れてきた混沌の中の隠れた秩序は、すっかり破壊されていた」という記述が、女性によって書かれていたことにショックを受けた。

私の読みかけの本を家族の誰かが整頓したことによって、私の情報システムが完全に破壊された人生になり、そのたびに本は整理してはいけないと文句を言った過去の体験が、この隠れた秩序という言葉に封印されていたからであり、私はこれを男の世界だとすっかり思い込んでいたことに気がついた。

26 名前:千々松 健 投稿日: 2008/08/03(日)

>25 本棚の本の整理に関して混沌と秩序の対比は面白いですね。

同じく小川洋子著の「博士の愛した数式」に「1-1=0」が出てきて、ゼロの数学的意味も文学的に表現されていました。

ゼロの持つべき三要素として

1)しるしとしてのゼロ (ものさしのスタートの目盛)

2)数字としてのゼロ (空位を示す 百一:101、千:1000)

3)数としてのゼロ (1-1=0)

以上の全ての要素が備わったゼロの発見はインドにおいて行われたというのが定説です。

その点については数学者でかつ文学者でもある藤原正彦氏の良きアドバイスがあったようです。

以前、ドゥニ・ゲージの「数の歴史」藤原正彦監訳にも他の地域や文明においても零の概念が在ったはずだが、現代から見てゼロの定義がしっかりなされているのはインドであるとの説明がなされていて納得したことが有りました。

27 名前:千々松 健 投稿日: 2008/08/08(金)

「もし、神様の手帖を1ページだけ覗けるとしたら、どうしてもこれだけは神様に聞きたいという謎はございますか?」

作家の小川洋子が「世にも美しい数学入門」で対談相手の藤原正彦に質問しています。

それに応えて藤原氏は四つも謎を挙げていますが、中でも「ゴールドバッハの問題=6以上の偶数はすべて二つの素数の和で表せる」には興味が持たれます。

それはまた「全ての自然数は四つの平方根の和として表わされる」というラグランジュの定理を思い出させます。

28村山:2008/08/15(金) 14:16:12

「ファウスト」についてのこのテーマは実に興味深いので、「最近読んだ本」に場を移して論じたらいいと思い、勝手ながらここに貼り付けてみましたのでよろしく。

89 名前:千々松 健 投稿日: 2008/08/15(金) 11:02:49

>83のフォローおよび>88のつづきとして

この夏、相似象の特集号 ゲーテの「ファウスト」と<カタカナム>を入手して読む機会を得ました。

動機は「魔女の九九」に触れているかどうかでした。しかし残念ながら、この中では扱われていませんでした。

未だすべて読み込めていないのですが、富永半次郎氏がドイツ語から丁寧に日本語に訳したゲーテ ファウスト第二部のラスト12103行から12111行までを引用させていただきます。

【 神秘の合唱 】

『ものみなのうつろふからに

さなからに色とりどりにうつるなる。

かけてしも思はぬことの

ここに起き

ことはにも筆にもた堪えぬこと

ここになる。

とこおとめおとめさしすとなよよかに

われらひかれてをとこさひすも。』

90 名前:藤原肇 投稿日: 2008/08/15(金) 13:40:27

今から四年前の2004年11月4日に珪水さんと一緒に、神泉の宇野多美恵さんのお宅を訪問して、四時間くらい「ファウスト」について論じ合ったが、宇野さんの洞察と叡智に満ちた思想に感嘆した思い出がある。そのときに『ゲーテの「ファウスト」と<カタカナムナ>』を入手し、記念にサインしてもらったので日づけが分かるし、それ以来愛読して何度も繰り返して読んできたが、未だ読破したという感じには至っていない。それほど内容が豊かな素晴らしい名著であるが、「ゲーテがフンボルトに宛てた手紙」の中で触れていることに、「意識と意識でないものとは、あたかも経と緯とのような関係になる」と言っており、布地としての作品の柄として出現するのが言葉である。言葉の選択に生涯をかけた詩人としてのゲーテは、「とにもかくにも一度、詩人にナってみろ、そのように詩が言っている」と書き、ある不可思議な精神的転換について指摘したのだった。

それにつけても興味深いのは神秘の合唱についてで、相良守峰は岩波文庫で「永遠なる女性は、われらを引きて昇らしむ」と訳し、高橋健二は「永遠の女性が、われらを引き上げていく」得しているのに対して、池内紀は「くおんのおんなが、われらをみちびく」と平仮名だけで書く。富永半次郎の訳は千々松さんが引用したように「とこおとめおとめさしすとなよよかに われらひかれてをとこさひすも」だが、私は断続的な朱線の形で「とこおとめ、おとめさひすと、なよよかに、われらひかれて、をとこさひすも」七五調に区切ってあり、人さまざまな好みの違う訳し方が面白いと思った。

29千々松 健:2008/08/22(金) 11:35:45

>28 村山様のご配慮に感謝します。

「般若心経を解く」たま出版1982年において藤倉啓次郎氏は

≪「般若経」のなかで、智慧は「諸仏の母」と述べられている。この意味はいかなるものであろうか。それは、子供が母より生まれるように、仏の正覚は智慧により生ずるという意味である。≫というエドワード・コンゼ博士の見解を紹介しておられた。P61

ファウストの最後の一節の詩=言葉をどのように解釈するかは一人びとりの経験等により異なると思うが、私は仏教のターラー崇拝(彼岸へ渡らせる助けをする女救世主)と永遠の女性とをダブらせて考えてみると、何か共時性が感じられて面白いと思いました。

また、藤倉氏によれば「サンスクリット語では否定語がnaであるが、これは「無」の意味もあるが、「非」あるいは「不」の意味もある。」(われわれが目にする玄奘訳の)「この段(*)では多数の要素を「無」の字で否定しているが、私は「無」ではなく「非」の方が妥当と思う。弁証法では、AとBが対立していると、Aに非ずBに非ずと否定するのが普通だからである。「無」としたのでは対立感が薄くなる。(中略)「空」は決して「無」ではない。」

*この段を藤倉説に合わせて訳し「無」を「非」に変換したものを次に示します。

『是故空中非色 非受想行識 非眼耳鼻舌身意 非色声香味触法 非眼界 乃至非意識界 非無明 亦非無明尽 乃至非老死 亦非老死尽 非苦集滅道 非智亦非得』

このように否定語を「無・非・不」の三つに解すれば、般若心経もよりポジティブな内容に転換するであろう。少なくとも養老先生の言う「無思想の思想」にはならないはずである。

ご参考、下記にて新改訳の般若心経がご覧いただけます。

http://8w1hflkm.jp/column/muniarazu.html

30藤原肇:2008/09/22(月) 02:58:55

アメリカの議会図書館館長を歴任したダニエル・ブアスティンは、壮大なスケールで文明の中で貢献した人間を主人公にして、これまで「大発見」や「アメリカ人」という人間の歴史を書き込み、該博な知識と鋭い洞察によって知る人ぞ知る、二十世紀が誇る叡智の塊のような人である。

老眼で視力が衰え読書力が低下した私に、膨大な上下二巻の「創造者たち」(集英社)を読みぬけるかと心配だったが、これを読まずに人生を終えるのは情けないと思い、浩瀚なこの本に挑んだことは正解だったと痛感した。

(上)は文明の歴史の発展過程についての総括に相当しており、聖人たちが輩出した2500年前から中世にかけて、広いパースペクティブで展望した人類の歴史は、ヨーロッパの高校生たちの持つ歴史観と重なり、この本に高校生として出合えなかった自分の青年時代が、何か大切なものに出会えなかったような感慨が残った。

それにしても、(下)は近代を築き上げた人たちと個人的にめぐり合い、彼らの人間としての熱気と生き様に接したことで、近代の主人公たちの人間性を具体的に知ることが出来て、自分が幾倍も豊かになったと実感できて嬉しい。

褒めたいことや引用したい文章は幾らでもあるが、特に親切だと思ったのは「参考文献」の記事であり、それ自体が米国の議会図書館に何年も張り付いて読むときに、読者が味わう満足感を満たすように構成されていて、マルクスが大英図書館に通いつめた動機に共通した、知的好奇心を満足させる画期的なものだと思った。視力が衰えたのを補って余りある近来に稀な読み終わるのが惜しかった本である。

33 名前:千々松 健 投稿日: 2008/10/31(金) 23:15:04

「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著 青木薫訳を斜め読みしました。

「万物は数なり」といったピタゴラスの定理に始まり、フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズのドラマチックな物語が難しい数式を使わずにドキュメンタリー形式で展開されていました。

その中で、次の二点が印象的でした。

1)modを「~を法とする算術」または「時計算術」と呼んでいて、5を法とする算術の例が出ていたこと。

*このうちmod9を日本では古くから「ひふみ算(術)」と言っていたわけです。

2)ワイルズの証明は、谷山=志村予想(すべての楕円方程式はモジュラー形式に関連づけられる)を証明することと同じ意味をもっていたこと。

そして「フィボナッチ数列と律動やラティオについて」のレスで展開中の「神聖方陣に見られる四つの流れ」に関して言えば、すべてのフィボナッチ数列がその四つの流れに関連付けられることが証明できれば良いという予想がついたことです。

そして、数論的には「系列」ということばを使用した方が適切なようなので、先に仮決めした「神聖F数列」は単に「F系列」に読み直したいと思います。

従って、今後は四つの流れを「フィボナッチ(F)系列」「リュカ(L)系列」「ケン(K)系列」「ミチコ(M)系列」と呼ぶことにします。>>>「FLKM系列」の誕生日!

2008年のハロウィーンの日

34 名前:藤原肇 投稿日: 2008/11/01(土)

「間脳幻想」の中では289ページでフィボナッチとルカ数しか示しえませんでしたが、千々松さんのお陰で四つの数列の存在を知らされ、それがハロウィーンの日であったというめぐり合わせは、この日に古希を迎えた私にとって最大の贈り物を得た感じです。

どうも有り難う御座います。

35 名前:千々松 健 投稿日: 2008/11/02(日)

奇しくも、藤原肇博士の誕生日祝いが出来て大変うれしいです。

もちろん「mod」記号はモジュラーから来ていたのです。モジュラー算術とは「法」=modに他ならなかったのです。私としては今回初めて知りえて、恥ずかしながら驚いているところです。

「フェルマーの最終定理」からの引用です。文庫本 P278

「数学広しといえども、モジュラー形式ほど奇妙で不思議なものはめずらしい。モジュラー形式は、もっとも難解な数学的対象の一つなのである。しかしその一方で、20世紀の数論研究者マルティン・アイヒラーは、これを五つの基礎演算の一つに数えている。すなわち、数学の基礎演算は、加法、減法、乗法、除法、そしてモジュラー形式の五つだというのだ。たいていの数学者は、はじめの四つの演算ならば自由に操られるのだろうが、五つめの演算に対しては、いまだに多少の戸惑いを感じているのではないだろうか。モジュラー形式は、恐ろしく対称性が高いという重要な特徴を持っている。

中略・・・モジュラー形式にとてつもなく高い対称性を与えているのは、四次元空間(双曲空間)なのである。」

モジュラーの世界と楕円の世界を統一しようとしたのが谷山豊と志村五郎であったということも何かの縁であろう。日本人には上古代人の「ひふみ算」すなわち現代の数論で言うところの「mod9」の算術が秘められているのであろうか?

日本古来の智慧によって、フェルマーの最終定理も300年の時を経て証明されたわけである。

36 名前:千々松 健 投稿日: 2008/11/24(月)

日経サイエンスの連載が日経ビジネス人文庫になった「茂木健一郎 科学のクオリア」は若者の理科離れ傾向を少しは解消するために役立つと思われます。

その中で、小川洋子さんとの対談「数学する脳、文学する脳」が面白いです。

小川さんいわく p43-44

『脳の中の映像を言葉に移し替える』とか、『人類が誕生してからずっと遺伝子の上に刻み込まれているんだけど、かつて誰も言葉にしなかった記憶があって、それを見つけるために、掘り起こすために小説を書こうとしている。』

茂木さんいわく p48

『ゲーデルの不完全性定理によれば、もしもある論理体系が数論を含むほど豊かな公理体系だとすると、その中で正しいことはわかるんだけど、証明も否定もできない定理が出てくる。それはすごく大問題で、科学は整然とした論理的な世界だけで済まなくなくて、根底に矛盾というか、穴が開いていることがわかってしまった。その後にわれわれは矛盾を爆弾のように抱えて生きている。これは小説にも通ずると思うのですが、逆にそういう矛盾があるから、われわれも結晶的な世界で止まっていることなく、生命として動き続けているのかも知れません。小川さんの小説は、そういう「裂け目」をとらえているのではないでしょうか。』

この二人の対談から私は

六角形がイメージされる「結晶」と五角形がイメージされる「生命」、あるいは無生物と生物の関係がもしかすると遺伝子の何処かに隠されている、いや、既に刻印されているという幻想を抱いてしまいました。

37 名前:千々松 健 投稿日: 2008/11/29(土)

長らく本棚の奥にしまったままにしていた「華厳経をよむ」木村清孝著を読む

「小が大であり、一つがすべてである」

すべての物事・事象の統一性と相互関連性を「一」と「多」の一致に見ようとしているのが華厳経の中心テーマであり、哲学者の廣松渉氏も「実体主義」から「関係主義」へ、あるいは「物的世界像」から「事的世界像」への転換を主張されているが、それは仏教での「縁起的な存在感・世界観」に通じる。

>>華厳の教えは現代ではフラクタルやホロニックな考え方に至り、清水博先生の「意味を創出する関係科学=場の関係子論」であり、先端的宇宙物理の世界観にも入り込んでいる。もちろん「21世紀マンダラ」もその延長線に在ると思われる。

「うそも方便?」

「手立てが重要なことは、技術の習得でも、教育の場合でも同じでしょう。手立て抜きで何かを身につけ、また人に対して身につけさせるということはありえません。このことを私たちは改めて考えてみたいものです。」P129

>>真実の世界へと導く正しい手立てを「方便」というそうだが、私は「うそも方便」という言い方しか知らなかったので、本来の「方便」を次世代へ旨く伝えていかなければならないとつくづく思わされた。

38 名前:藤原肇 投稿日: 2008/12/23(火) 17:34:06

82才のレフ・トルストイが住みなれた家を出て、小さな鉄道の駅において肺炎で人生を終えた物語は、「リア王」と並んで漂泊する老人の悲劇の晩年として知られているが、ありきたりの家出ではなくて出家ではないかと長らく感じて、似たような境涯に至った自分について思い巡らせていた時に、この『トルストイ家の箱舟』という本にめぐり合わせたのは、実に幸運だったという読後感を持った。

しかも、晩年の老作家の秘書としてトルストイの身近に接した、モスクワ大学で哲学をやりトルストイの研究に手を染めたブルガーコフ青年の観察は、『ゲーテとの対話』のエッカーマンほどの深さはないが、非常に優れた記録を残すものとして興味深い手記であり、いろいろと考えさせられるものを含んでいると言える。

しかも、著者のふみ子・デイヴィスさんの実に素晴らしい表現の文体は、日本の文学界に君臨する女流作家たちの売文的な文章とは違い、凛々しいというか格調高いリズムで貫かれていて実に爽やかな記述だと思った。このトルストイに憧憬と敬愛の念が支配していた大正リベラリズムの時代が遠くなり、荒廃した売文記事が文学の名を騙る現代の不毛さを痛感させられた。

44千々松 健:2009/02/26(木) 22:09:01

>28 ゲーテ ファウスト「神秘の合唱」再考、「フィボナッチ数列の殿堂」への夢 >65~とも関連します。

この場合の「合唱」こそは Harmony の意味であると思います。

「ものみなの うつろうからに さながらに」と富永老師が575調に訳されている ゲーテの詩のGleichinis(グライヒニス)を更に踏み込んで「相似象」と訳して『すべて、過ぎ行くものは相似象である』と宇野さんは説明しています。

・・・ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ> p214

ゲーテは同時代に生きたルターによる聖書のドイツ語翻訳には異論を持ち、特に三位一体に関連しては手厳しいようでした。結論的には父と子と聖霊の三位は一体すなわち「合同:Unity」ではなく「調和:Harmony」であると言いたかったのでしょう。

ファウストの第二部の最後に、そして、ゲーテ自身の人生のラストソングにそれを歌い上げているのですから。

ゲーテの言葉に『最高の幸福の瞬間にも極度の逆境の瞬間にも、われわれは芸術家を必要とする。』とあるように、芸術家を歌や和歌と置き換えれば納得されます。

本日『介護百人一首』というのがNHKの番組で紹介されていましたが、逆境の中での歌こそ心を和やかにしてくれます。

45 名前:千々松 健 投稿日: 2009/02/27(金)

「和歌」は倭の歌、輪の歌、琶の歌、把の歌と展開すると、、、巳が出現し蛇や龍や注連縄がイメージされて、最後には「ウロボロス」に行き着きそうです。

また「ココロを和やかにしてくれる歌」が和歌でもあったのです。生も死も、喜劇も悲劇も、和魂(ニギミタマ)も荒魂(アラミタマ)も、すべてを超えて、なごやかに平和に、やがては涅槃に入るのです。

この「ネハン」のことばの響きは何処かで聞いた響きに似ています。そうです「ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツイネホン カタカムナ」の「ハエツイネホン」の最後の部分「ネホン」は「ネハン=涅槃」に違いないと思いました。

ネハンとネホンからニホン・にほん・日本になったかどうかは定かでは有りませんが、有り得そうですね。

松岡正剛氏の「方法日本」について少し勉強しなくてはならないと思います。

46 名前:千々松 健 投稿日: 2009/02/27(金)

手元に「NHK人間講座2004年6月~7月 おもかげの国 うつろいの国 松岡正剛」がある。その頃、「日本文化の特徴は余白にある」と考えていた時期であったから、それに関してのみの興味で、半分も聞いていなかったことを反省して、再度目を通した。

日本の「編集文化」を考えるという副題で、解説には「多様にして一途」といわれる日本文化。その各場面には、アワセ、カサネ、キソイ、ソロエという、独特の編集方法が強く働いている。「おもかげ」と「うつろい」をキーワードに日本文化の特徴をみる。」とあった。

何のことはない「アワセ、カサネ、キソイ、ソロエ」は和紙という伝統文化から生まれた折り紙に関してのことばであるし、おもかげはイメージであり、うつろいは動態幾何学であるから、両方を合わせれば「さながらに」=相似象に他ならないことに気が付かされた。

また、司馬遼太郎の晩年作「この国のかたち」の中で、真水(マミズ)や若水(ワカミズ)に触れていて、古神道的なものに興味を持っていたことが判り、それなりに納得できた。

47 名前:千々松 健 投稿日: 2009/03/02(月)

>29についての補足です

ネット上で“非苦集滅道”を検索したところ「浄土生無生論」というが見つかりました。

その「初一 真法界門」の中間辺りに下記の経文が見つかりました。

『 非心非空。非地水火風。非眼耳鼻舌身意。非色聲香味觸法。非眼界乃至非意識界。非無明乃至非老死。非無明盡乃至非老死盡。非苦集滅道。非智非得。非檀那乃至非般剌若。非怛答阿羯。非阿羅訶。非三藐三菩。非常樂我淨。』

般若心経のある箇所にほぼカサネアワセられることは直ぐに分かります。我々が通常として目にする般若心経は「非」がすべて「無」になっているわけですが、本来の内容からしてみて、どちらがぴったりするかをキソイますと、やはり「非」の方に軍配が上がると思います。

サンスクリット語の「Na」の否定形は「無・不・非」の三種類に使い分けて翻訳するべきと書きましたが、漢文の世界でも実は別のところでは正しく「非」を使用して翻訳されていたことが判るのです。

今回はネット検索の有効性を目の当たりにすることができました。これを他山の石として、後生大事にしている「般若心経」は新たにソロエ直すことにいたしましょう。

48 名前:千々松 健 投稿日: 2009/04/12(日)

「生物と無生物のあいだ」で知られる分子生物学者の福岡伸一が、ソトコトという雑誌でロハスの思考を広めた木楽舎から「動的平衡」という本を出した。

最後の三センテンスを引用させてもらいます。P251後半

『自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目、そして私たちの住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。 私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。』

「森羅万象を記述する言葉」すなわち「始めに言霊ありき」は、ことだまの響きから「玉」に通じていて、ラセンのカタチとなるのでしょう。

49 名前:千々松 健 投稿日: 2009/04/20(月)

西堀栄三郎の「創造力」-自然と技術の視点から-より以下の3点を引用します。

『人間が自然と一体となることによって、人間のなし得る範囲も驚くほど拡大される。さらにいえば、自然への探検は、あくまでその対象を慎重なまでによく知り、親しみをもったうえで、勇気をもってするものでなくてはならない。私は山登りを通じてそのことを学んだのである。』P31

『労働には「働く」という活動性と「考える」という創造性と「喜ばれる」という社会性の三つの要素があり、これらが互いに影響し合い、相互に作用し合ってうまく循環したとき仕事は楽しくなり、・・・この三つの要素がうまく循環したときに、・・・人を動かし、社会をも動かしていくのである。』P160

『南極で一年間生活していたとき、私はいろんなことを考えさせられた。宇宙には化学や物理だけでは説明できない何ものかがあるのではないだろうか――。「心」のほかに「気」というものが確かに存在しているように思われた。東洋思想にはそういうものを認める寛大さがあるが、やがてはそれを含んだ科学や技術が生まれるのではないかと思う。』P301

50 名前:千々松 健 投稿日: 2009/05/19(火)

>48 補足

福岡伸一教授が「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」または、「循環的で永続的なシステムである」し、「渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ」と最新の「動的平衡」で述べているとおり、

これからの生命科学には、“静的な構造論から動的な流れ論へ”の視点が重要となってくるはずである。

我田引水と言われるかも知れませんが、21世紀マンダラの「神聖方陣」は静的な構造を、もう一方の「螺旋モデル」の方は動的な流れを示唆しているものと考えています。

61 名前:千々松 健 投稿日: 2009/08/11(火)

疑問詞構文の8W1Hの中でも、最近はWhoseが重要になって来ていると考えています。Why, What, How to,ないしは論理思考をいくらしても、最後は味方や良き理解者を得ることが大切になるようです。それが「Whose」の意味になります。お互い良き理解者でありたいと願っております。

「それはヨカ、バッテンこう考えたらもっとヨカ」というように、今後とも提示版を「生き生きと」したいものです。

64 名前:千々松 健 投稿日: 2009/08/12(水)

「失敗学」の創始者といえる畑村洋太郎氏の書かれた「みる わかる 伝える」は図もたくさんあって理解しやすい。

絵と言葉すなわち「カタチとコトバ」の相乗効果を改めて認識した思いでした。

工学系の出身で創造設計原理の研究をされていると聞くが、次の3点で印象に残った。

第1点目:「見ない、考えない、歩かない」の3ナイではなく、「現地、現物、現人」の3現を通じてのみ真実がわかる。

第2点目:「順演算と逆演算の関係を、左手系と右手系の関係に置き換えて説明している。両手を合わせることで抜けのない検討ができる。

第3点目:正しいやり方をそのまま書く「陽」と、やってはいけないことをやるとどうなるか、やるべきことをやらないとどうなるかを書く「陰」の両方の知識を持つことで、立体的な見方ができるようになる。

そして、極めつきは「真の科学的理解とは、要素の摘出と構造化を通じて目の前のものや現象の状態を正確に知り、現象の因果関係を正しく理解することである。」p65

これは要するに「意味論」に通ずるに違いないと思うのだが、更に畑中氏は続けて「だから、真の科学的理解をしている人は、新しく何かを作り出す創造もできるし、周囲の状況の変化によって現象が大きく変わったときにも、それにきちんと対処できるのだ。」

67 名前:千々松 健 投稿日: 2009/08/12(水)

飛鳥時代以前には日本へ道教が伝わっていたのですから、飛鳥時代にイランからゾロアスター教が伝わっていたのではないかという松本清張の仮説(小説「火の回路」)は興味が持たれます。

逆に日本がルーツかも知れないという逆序の発想も必要で、順序と逆序の両方の視点から考古学は見て行かねばならないと思われます。少なくともそれを受け入れる「何らかの素地」が無くてはならないわけですから。

ただし、逆はあり得ないという証拠が一つでも見つけられれば、それは氷解されるという理屈になります。

さて、小室氏の意味論は数学的な証明論のようではないかと思われ、「形式論理」や「詭弁の論理」で「ためにするインチキ」や「ウソ」に誘導され、まんまとそれに引っ掛かるのが「意味オンチ」になるのでしょう。一度、冷静になって、絵に描いて集合論で確かめることが必要だといっているのではないかと推察します。

そして、「必要十分条件」が満たされて、初めて正しいと見なければならないということなのでしょう。

歴史から学んだり地質学を学んだりは、まさに逆序の発想が大切になるのですね。

69 名前:藤原肇 投稿日: 2009/11/05(木) 00:23:04

日本問題を専門にしたり日本についての仕事をする外国人で、、文科系や政治問題を扱う人の圧倒的な多数が、たいていの場合に奥さんが日本人女性であることは、私の数十年の海外生活で確認したことである。

日本でも財界や政界あるいはジャーナリズムの世界において、目覚しい活躍をしている人のほとんどの場合が、夫人のほうが人間的に優れていたのも事実である。

ということは、連れ合いが優れていない男はうだつが上がらないか、奥さんが悪かったので離婚し再婚していないケースが多い。特にアメリカのジャパノロジストにおいては、奥さんの考えを英訳して成功している人や、奥さんの指導が実って日本の専門家として大成している人が圧倒的である。

日本びいきのオーストリー系のアメリカ人として知られ、日本でもフアンの多いマネージメントの発明家である、ピーター。ドラッカー博士の場合も同じである。ドラッカー博士の方が家柄としてはより上流水球であり、ウィーンでのつき会った人が凄かったことは、『傍観者の冒険』を読めば明らかだ。

しかし、ドイツ生まれの夫人のドリスが書いた自伝である、「あなたにめぐり会うまで」を読むことによって、ドラッカー博士が素晴らしい妻に恵まれ、そのお陰で大成したことがよく分かるだけでなく、第二次世界大戦に至るまでのドイツの社会が、こんな興味深い社会構造と文化を持っていたと明白になった。

ただし、この本は絶版であり入手困難だから見つけるのは大変で、私は出版社が持っていた最後の一冊を社長からもらい、こんな有難いことはないと思った次第である。

73 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/06(金)

田中さん シャンボール城とレオナルド・ダ・ヴィンチのレスありがとうございます。

先週、フランスの思想家レビストロース氏が100歳で亡くなった。「男と女」の関係を人類学者として構造的に探求されていたと聞く。

AからBに変換することに対して、BからAに逆変換することも同様に「可逆的な変換」であるとした。と橋爪大三郎氏は悼みの記事で書かれていたが、

それはまさに「順序+逆序=秩序」を意味していたのであると思われる。

74 名前:田中治 投稿日: 2009/11/06(金) 21:00:41

千々松さん、シャンボール城の構造についてフィボナッチ数列の観点から繋げていただきましてありがとうございます。また構造主義の巨人レヴィ=ストロースの男と女の人類学的構造論は是非読んでみたいものです。シャンボール城ですが、365本の塔には私自身気づいていませんでした。ご指摘感謝いたします。また千々松さんの○△□のお話と繋がって、わたしの頭ではついていくのが大変ですが、大変興味深く読ませていただいております。シャンボール城は城そのものの構造には大変興味をそそられるのですが、「場の選択」が正しかったのかどうかについては、私もまだよくわかりません。

話は少し変わりますが、イタリアのプーリア州にカステルデルモンテという古城があります。この城は8角形ですが実際に訪れた際、コンパスで方角を測ってみましたら、八角形と8方位は完全に一致しておりました。また冬至や夏至時の太陽の位置・月の位置を計算して作られたとスタッフの方が話されていました。実際、冬至や夏至の日にここで天文観測することもあるそうです。(行ってみたいものですね!)この城は13世紀の神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ2世が築城したとされる城だから、フリードリッヒ2世に庇護されたフィボナッチはここを訪れたか、実際に設計に携わった可能性すらあるのではないかとかねてより思っておりますがいかがでしょうか。私などと違って、千々松さんが実際にご覧になれば、相当な発見があるだろうと推測いたします。

75 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/07(土)

田中さんのイタリアの「カステルデルモンテ」のご紹介ありがとうございます。

お陰様で、新たなイメージが湧きそうです。今はやりの「検証」に多少時間がかかりそうですので、取り敢えずは下記のコラムをご覧ください。

「ゼロと紙の旅は道連れ」

http://8w1hflkm.jp/column/zerotokami.html

76 名前:我星(マイ・スター=Meister) 投稿日: 2009/11/07(土)

前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダ・ヴィンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダ・ヴィンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

77 名前:我星(マイ・スター=Meister) 投稿日: 2009/11/07(土)

前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダ・ヴィンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダ・ヴィンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

78 名前:我星(マイ・スター=Meister) 投稿日: 2009/11/07(土)

キリスト教以前の本に接することで、本当に清々しい気分になる。私はラテン語をスラスラとは解さず、意味はドイツ語対訳を通じて理解しているが、二ページ見開きで左にラテン語、右にドイツ語の対訳という形式になっており、ドイツ語で対訳を読んだ後に、ラテン語にも目を通すようにしている。ラテン語を静かにつぶやきながら復唱することで、頭の中が洗われる、清々しい気持ちになり、数年前に南イタリアのサレルノにある古代ギリシャ遺跡PAESTUMの神殿の面影が、頭の中に蘇るのである。そして、欧州を旅し、行く先々で接し目にする物を言わぬ石造建築に、古代から脈々と伝えられる叡智の具体的表出を感じ、えもいわれぬ畏怖と親しみを感じる次第である。

79 名前:我星 投稿日: 2009/11/07(土)

Architecti est scientia pluribus disciplinis et variis eruditionibus ornata, cuius iudicio probantur omnia quae ab ceteris artibus perficiuntur opera. Ea nascitur ex fabrica et raciocinatione. Fabrica est quae manibus perficitur e materia, cuiuscumque generis opus est. Ratiocinatio autem est, quae res fabricatas sollertiae ac rationis pro portione demonstrare atque explicare potest.

80 名前:我星 投稿日: 2009/11/07(土)

勝手な意訳

建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能、肉体的作業(FABRICA)と、知識、精神的作業(RATIOCINATIO)である。

81 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/08(日)

>79「 rationis proportione demonstrare 」

我星さんが引用文された最後の行の部分は注目に値すると思われます。

「ラティオ」とは自動車の名前にありますがレシオ、比率、律動の意味ですから、

超意訳になるかもしれませんが「比率としての割合を実証している」「神聖なる比例を表出している」

となると思います。無論「Divina Proportione」は神聖比例と訳され、近代は「黄金比」と呼ばれています。

良く知られているように黄金比はフィボナッチ数列に関係してきます。1,1,2,3,5,8,13,21,34,54,88,144、、、

現代建築家のル・コルビジェはそれを3倍にした数列を「モジュロール」と呼んで使用していました。彼のデザインは素晴らしいのですが、3倍の数値のみに意味を持たせようとしたので、残念ながら後継者がいなかったようです。

フィボナッチ数列の考えの基本にある古代の「フトマニ」の思考からすれば、実は初項と第二項にどんな数を持ってきても、大項目で隣同志の比率を計算すれば、すべて黄金比になることは前に述べたように事実ですので、もっとオープンに構えるべきだったと思われます。

82 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/09(月) 10:56:14

>81 済みません訂正です。

「律動」は「リズム」のことであって、ラティオの訳としては正しくないのでした。

ただし、フィボナッチ数列とそこからも生まれ出る神聖比例の黄金分割は広い意味での「宇宙的リズム」として認識してよいのではないかと思うのです。

「音」も「光」もこの「宇宙的リズム」の中に在ると考えて良いのです。そして、それは時空の中では「螺旋」として表出されるのです。

83 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/09(月) 12:02:30

>74、75のつづき

今回、神聖ローマ皇帝のフェデリコ(フリードリッヒ)2世について知り得たことですが、彼はイスラム教とキリスト教とユダヤ教等の混在したシチリア島で教育を受けたおかげで、9ヶ国語を操るほどの国際人であり、鷹狩り好きで、カステルデルモンテを建てたようです。科学と数学を好み、ピサのレオナルドと呼ばれたフィボナッチを良く宮廷に招いていたようです。またナポリ大学の創設者でもあり、南イタリアの文化風土を築いた人物のようです。

『また「8」という数字は、風位と宇宙的均衡を示し、イスラム世界においては、天国を寓意する数字だそうです。フェデリコ2世は、幼少の頃から天文学や数学に特に強い関心を示していただけあって、数字のもつ意味に強いこだわりがあったということを聞くと、何やら深い意味がありそうですが、今となっては全て推測するだけしか出来ません。真東を向いた玄関の縦横の長さは、五芒の星に基づく黄金北によっていて、これはルネッサンスの先駆けと言えるそうです。また、5つずつある暖炉と雨水溜は、「火」と「水」を表しているそうです。建物の影は、春分と秋分の正午になると、中庭の縁までを満たすようになっています。また夏至の時には、中庭のちょうど真ん中の天空に、中世の北極星ヴェガが現れるのです。合理的な知識人でありながら、占星術や予言を畏怖していたフェデリコ2世は、この城の設計に当たって、スコットランド人の天文学者を招いたと言われています。』

フィボナッチ自身がどこまで設計に関与したかは探れませんでしたが、「スコットランド人の天文学者」が関係していたとすればケルト文化の影響も当然入っていたと思われます。やはり建物内には左回りの螺旋階段があるそうです。

それにしても、イタリアの「二人のレオナルド」には興味が湧きますね。

85 名前:西條 謙太郎 投稿日: 2009/11/14(土)

我星さんや田中さんのように、「ウィトルウィウスの建築十書」をラテン語・ドイツ語対訳で読んだり、数多くの古城を実際に訪れたりして、ヨーロッパでの幅広い見聞と考察の経験をもとに、古典や建築を通じて叡智を探るということは、まさにルネッサンスの教養人と同じ体験をされているということで、たいへんすばらしいことだと思います。

グローバル社会の現代において、非ヨーロッパ世界の人々にも、ヨーロッパ、ギリシャ・ローマおよびそれ以前からの叡智の伝統の存在を伝え、それらの叡智へのアクセスの道しるべを置いておくことは全体のバランスを取るうえで重要なことだと思います。

なお「ウィトルウィウスの建築十書」に関してご参考情報を下記しておきます。

http://www.tohata.co.jp/memorial/pdf/tohatakenzo.pdf

http://blog.u1architects.com/?eid=568994

http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/152101.html

86 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/14(土)

>85 西條さんの情報に感謝します。

ローマ皇帝アウグストュスに仕えたマルクス・ウィトルウィウス・ポリオがBC1世紀に書いた「建築について」は欧州最初の建築論書であるという。「ウィトルウィウス建築十書」として1521年にイタリア語に訳されたものが現存していた。

ダ・ヴィンチの人体図のルーツを見て、一つの疑問点が解消された。大枠としての正方形の中に内接する円があり、さらにその円に内接する正方形があり、その中で両手と両足を大きく開いた男性裸体が描かれていた。図形的な中心はヘソや陰部ではなく丹田に位置しているように見える。

鉄棒で逆上がりをした時の支点も丹田に来るようだし、丹田呼吸法も考えると興味深い。いずれにしても、元々は円と四角が内・外接していたものがあったという事実を確認できて嬉しい。

実際の建築においてこそ、●▲■の幾何学と黄金比に代表される代数学が美しく融合しているのではないかと感じられる。

87 名前:松本英樹 投稿日: 2009/11/24(火)

ダ・ヴィンチがウィトルウィウス(ビットルビウス)の人間正方体図を参考に

したとした場合、彼は人体バランス(1:√2)の比率を否定した。

その時、この人体図に2つの違和感を覚えたのではないだろうか?

①図は緊張した体勢(引っ張られた姿勢)で、腕の長さが異常に長い。

②人体の中心点は、ただ1点でいいのだろうか。(静態と動態)を含めるべき

人体バランス比率は、大枠□、内接●、内接□で構成される(1:√2)より、

(1:Φ)の比率が、より自然体バランスに近いと見抜いたのだろう。

黄金比が判るヒントとして□と○を合わせたともいえるかもしれない。

解剖学上、果たして丹田なる存在が理解されていたかどうか解りませんが、

陰陽を考慮すると、人体が回転し、背中を見せる図になるが、そこに「生命の樹」

が浮き出てくるかもしれませね。

88 名前:松本英樹 投稿日: 2009/11/26(木)

>87

(1:√2)の比率を否定した、という表現は強すぎました。

(1:9√2/10)の方がより実態に近いと感じた、というニュアンスです。

日本人は日常的にこの比率の中で生活しています。

畳の部屋で(大の字)に寝転がるだけですが(笑)

「最近読んで印象的だった本」という表題とかけ離れますが、最初にこの人間正方体図に出会ったのが「間脳幻想」P279.1990年代初頭。この図は大変インパクトがあり、後に、正方形の対角線から黄金数を導く図法、直角三角形の転がし運動に繋がります。□△○の併せ技です(笑)

89 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/26(木)

○△□の文明論。

木の文化と石の文化の建築における差異を考察すると面白い幾何学が学べます。

自然の木から角柱を切り出すには√2の比率が大切となり、それは1.414の白銀比が生じます。

岩壁から石は直方体に先ずは切り出され、そこから円柱なり球体を更に切り出す時には(1+√5)/2すなわちラージファイ=Φが関係してきますので、当然に黄金比が生じます。 すると、木の文化からは白銀比が生まれて、石の文化からは黄金比が生まれる運命にあったのです。

ウィトルウィウスの述べていた「建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能・・」(我星さんの訳)

の意味するところは、黄金比に通じることさらに言えば、フィボナッチ数列を操れることになるのではないかと思わされました。

90 名前:千々松 健 投稿日: 2009/11/30(月)

ウィトルウィウス(Vitruvius)やレオナルド・ダ・ヴィンチが●▲■を、人体図を使って考察していますが、一体何を見つけようとしていたのでしょうか?

その点について、既に誰かがどこかで述べているかもしれませんが、もしもあれば是非とも検証しなければならない興味深いテーマです。

さて、台湾の張錦春さんがご自身の鉄棒回転運動によりにより「動態幾何学」の心髄を示されていることに大きなヒントを頂戴したおかげで、●▲■の基本図形の各種比率が整数や黄金比や円周率に依っている事実と、白銀比は円に対して内接する正方形と外接する正方形との間に登場することが理解されました。

本来は「フィボナッチ数列の殿堂への夢」のレスに適した内容かもしれませんが、ダ・ヴィンチゆかりのシャンボール城とフィボナッチゆかりのカステルデルモンテ城の建築設計美からの一連の繋がりからここに致します。

ご参考までに

レオナルド・ダ・ビンチとウィトルウィウスの人体図

http:/8w1hflkm.jp/pythagoras/VV.html

ダ・ヴィンチ・コードと●▲■の秘密

http://8w1hflkm.jp/pythagoras/PP.html

93 名前:千々松 健 投稿日: 2009/12/11(金) 21:57:35

本日、偶然に「経世済民の新時代」をブックオフにて入手しました。

1994年712号タケヤマ・レポートの再録である「大不況を動態幾何学で読む」は特に圧巻でした。

フィボナッチ数列の秘める自然の発展法則をF(ファイ/藤原)座標とガウス座標(複素数空間)を使用して、信用と実物経済の関係がもたらす社会循環モデルを落合氏と構築されていました。要するに静態的から動態的均衡理論へと新しい次元で思考することの必要性が説かれています。

帝王学には昔から幾何学が必要で、21世紀は動態幾何学に移行しなければいけないというわけです。陰陽太極図は人間に理解しやすいように平面投影しているが、本当は蚊取り線香に似た対数螺旋なのでした。

「メタサイエンスの時代の訪れとアジアの世紀」では藤原肇博士がUSAを去り、これからの未来あるアジアへ移動された意味が理解できます。

要修正点:p117 「これは用紙のA、B判や葉書の縦横の比率で、美学でいういわゆる黄金分割というヤツですな・・・。」(落合氏の反応)は修正が必要です。実はA,B判は1:√2の白銀比の方です。また葉書も多少違います。普通の「名刺」の比率は1:1.618で黄金比になっています。

94 名前:千々松 健 投稿日: 2010/01/05(火) 14:43:41

「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは①「成立している事態の全体が世界である」②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけている。

私的には、この二つは「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」が①で「ラセンモデル」が②に相応すると考えることで納得した。

①は陰陽で成立している形態としての世界であり。②はFLKM系列の4つの数の流れ(配列)により自己増殖するように構成されたプログラムソフトである。

また、①が結果で②が原因であるとも言えるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、②と①が揃って世界の秩序(陰陽太極図)が表わされていると言えるかもしれない。

松岡氏の千夜千冊に出ていた「ウィトゲンシュタインとカタルトシメス」は良く言い得て妙である。

95 名前:千々松 健 投稿日: 2010/01/12(火) 10:10:03

1月11日 鳩山首相動静

『午前11時43分、東京・丸の内の丸の内オアゾ着。同ビル内の書店「丸善丸の内本店」で本を購入。松井孝治官房副長官、編集工学者の松岡正剛氏が同行。午後0時50分、同所発。同52分、東京・丸の内の丸ノ内ホテル着。同ホテル内の日本料理店「椿壽」で松井、松岡両氏らと昼食。

午後1時40分、「椿壽」を出て、同41分から同3時39分まで丸ノ内ホテル内の客室で松井副長官、松岡氏と懇談。同41分、同ホテル発。』

(時事通信より一部引用)

注目の「松丸本舗」にも寄られたようですが、松岡正剛さんとの会話はどのようなものであったか興味が持たれます。いずれ、「編集工学的」に公表してもらえるでしょうが期待しています。

また朝日新聞の首相動静欄では『「暴走する資本主義」(ロバート・ライシュ著)、「レヴィ=ストロース講義」(クロード・レヴィ=ストロース著)、「日本辺境論」(内田樹著)など28冊を購入。』とありました。

それら28冊の中には「さらば暴政」も含まれていたのでしょうか。既に購入済みであってほしいものですね。

96 名前:千々松 健 投稿日: 2010/01/18(月) 20:18:02

1)「ぼくとガモフと遺伝子情報」という本の中で書かれていたことですが、DNAの二重螺旋構造で有名になったJ.D.ワトソンは、ガモフから手紙を貰っていて、その中でDNAがAGCTの4つの塩基を持っていることと遺伝子の働きにまつわる謎を解くのに数理論的アプローチが役立つ可能性を示唆されていたようです。

また、他の個所ではタンパク質は全て3Nアミノ酸(9,9,21,30,39,126、及びタバコモザイクウィルスの場合は135)の数から構成されているという個所にも出会いました。構成数は3の倍数であり、mod9では0又は3になることになります。

昨年、新型インフルエンザの理論的な組み合わせはN9H16で144種類が予想されるということを知り、その時にも1+4+4=9で、mod9上では0となることを認識したのですが、本日の本との出会いで全てのタンパク質がそうであることになれば、ガモフの手紙の意味するところは重大であった訳です。それに対してワトソンはガモフを避けていたきらいが感じられます。きっと、二重構造を映したX線写真をある英国の研究機関から不当に入手していたことをとやかく言われたくはなかったからでしょう。

2)「したがって、非を退けて是のみを求め 混沌を退けて秩序のみを求めるのは 天地の理をわきまえず 万物の情にうとい人間のすることだ」荘子秋水篇第17

これはエリッヒ・ヤンツが「自己組織化する宇宙」の冒頭で、―自己組織化パラダイムの触媒者イリヤ・プリコジーヌに捧げた―引用文です。

ニューサイエンスの盛んな80年代に先端物理学者が東洋の考え方にヒントを見出そうとしていた証拠の一つですが、とても含蓄が有りますね。

97 名前:千々松 健 投稿日: 2010/02/07(日) 22:05:40

「かたち」の謎解き物語 ―日本文化を●▲■で読む―宮崎興二著

宮崎氏は四半世紀前に「プラトンと五重塔」という本で刺激を受けたことのある建築工芸家です。

「天地人」は伏義・女媧・神農に通じ、伏義と女媧はコンパス(規=き)と定規(矩=く=さしがね)の象徴であるという、神農はそれらを道具にして形づくられたものになろう。

左右という漢字も「左」という字は手に定規を持って直線と直角を描いている形であり、「右」という字は手にコンパスで円を描いている形であるという。(口はくちであって丸である)

そして、左右をカサネた「尋」と言う字は左右の内部の工と口が含まれていて、ヨはコンパスであり、寸は定規であることが見て取れ、「神を尋ねる」という意味になるという。

私は「尋ねる」が甲骨文字に一番多く残された文字の「貞く」(きく)に関係し、その派生語が「兆」であるので、亀甲占いが左右のどちらに裂け目が現れるかを見て判断した様子を窺い知ることが出来ると思う。また「貞く」(きく)は「規矩」(キク)と同音であるのは偶然ではなかろう。

さらに、●▲■を図形との関係で考察すると、伏義はコンパスであるから●すなわち天であり、女媧は定規であるから■すなわち地であり、神農は円と四角の中間的な存在として多角形(八角形が代表とされる)がイメージされる。それは三角形の集合体として把握されるので▲すなわち人になるのではないかと思う。

98 名前:藤原肇 投稿日: 2010/03/22(月) 06:41:36

アメリカへの旅を前にして準備のために、一日を誰にも会わずに使うつもりだったが、読み出した本があまりに興味深かったので、何もしないで夜中まで読んでしまった。その本はパリに住む竹下節子の「レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実」(中央公論)であり、読み進むに従い藤井先生との対談を思い出し、こんな不思議な照応関係がありうるかと不思議な感慨に包まれた。

実は『間脳幻想』に続く対談の第二段として、『秘密の生理と秘密結社の文明史』とでも題した本を作ろうと編集作業したことがあり、先生との対談のテープを書き起こして、最初の章を一週間かけてワープロに打ち込んでいた。第一章はピラミットの建設の設計についてで、フィボナッチ数列を使った計算を繰り返し、画期的な議論をまとめたと満足したのに、ワープロのボタンを押し間違えたせいで、データがすべて消えて失われてしまった。

失った第一章に費やした努力が大きかったので、虚脱状態に陥って仕事は永久に放棄されてしまい、藤井先生との十年間の対話によって、数冊は出来るはずの対談の企画は挫折したままだ。実に惜しいと公開し続けたが、ピラミッドの設計の計算をやり直すことは、とても再挑戦する気になれないほどで、あの頃が能力と気力で私の絶頂だったのだろう。

竹下さんの本は『ダ・ヴィンチ・コード』批判をベースにして、フィレンツェにおけるネオプラトニズムを軸に、レオナルドや秘密結社の歴史を論じているが、われわれの対談は秘密を持つ人間の心理が、脳内ホルモンとどう関係しているかを土台にして、秘密結社の歴史について論じたように記憶する。それにしてもボタンの押し違いでデータを失い、ショックで企画を放棄したことが惜しまれ、竹下さんの本で輪郭の一部を思い出せたのはうれしい。

人生の巡り会わせとは実に不思議であり、藤井先生との友宜を懐かしく偲ぶ次第である。

99 名前:藤原肇 投稿日: 2010/03/22(月) 07:50:00

読んだ本で突然のように藤井先生の思い出が蘇ったのは、今の瞬間が春分の日でお彼岸の仲日であり、故人の霊が訪れたということがあるのかも知れない。そういえば書き込みをしている今の瞬間に太陽が真東から昇り、昔の人の自然暦の精神と対面できる意味で、春分の日の日の出を迎えることは素晴らしい体験になった。

先週の週末は読者の一人で川崎市の矢向に天然温泉を掘り当て、縄文天然温泉志楽の湯の持ち主に招待され、素晴らしい湯質の温泉に一泊してきただけでなく、翌日は八ヶ岳の裾野の茅野市に彼が持つ、野天風呂を楽しむために案内されて一泊してきた。そこは尖石の泉といって縄文中期の遺跡があり、日本最古の神社のひとつの諏訪神社を含めて、そこから藤原家の産土神の鹿島神宮は真東に位置し、春分の日は東西軸を決定付ける瞬間でもある。

しかも、出雲族の霊山である奈良の三輪山の真東には、国譲りの後で支配者になった天孫族が伊勢神宮を作り、三輪山の真北には日枝神社のある比叡山がある。そして、日枝神社の真東には久能山が位置しており、徳川家康は江戸の真北に日光の東照宮を建てている。

最近は平野貞夫さんと連続して対談をしているが、坂本竜馬は北辰一刀流の免許皆伝であり、その背後には北極星による妙見信仰があって、日本の大掃除への動機が生きているのだが、果たして平成無血革命の行方はどうなるのだろうか。そんなことを春分の日の太陽を見て思ったが、藤井先生と『間脳幻想』を共著にもてたことは幸せであり、この書き込みが99で次は00で再生を意味し、これまた奇妙なめぐり合わせになったのも面白い。

100 名前:松本英樹 投稿日: 2010/03/22(月) 10:06:12

<幻のピラミッド設計図>

私が黄金分割ピラミッドの設計図を纏めることが出来たキッカケは「間脳幻想」

であることは間違いないのですが、もしも藤原博士が原稿の消去という事故がなく、

無事に出版されていたならば、黄金分割ピラミッド初号基は藤原博士の手で完成されて

いただろうと思います。是非この目で見てみたかったです。誠に残念なことです。

ピラミッド設計を考察してゆく過程では色々と不思議な体験が起こるようですね。

藤原博士の原稿消去事件はいつ頃の出来事でしょうか?

ちなみに1996年~1998年にかけて「ピラミッドとフィボナッチ数列」を関連

付けて考察していた人たちが日本でも幾人かいたことが後で判りました。

(インターネットは便利なツールですね)私もその内の一人でしたが・・

世界中だといかほどか。これは共時性の出来事ではないかと思っています。

黄金分割ピラミッド模型を組み立ててゆく過程を写真に残しましたが、

それらの写真の中に不思議な光の玉が写ることもありました。

また考えが煮詰まり、思考停止に陥ったとき、「後押ししてくれる存在」を

意識したこともあります。そういう時、新しいヒラメキが起きるのです。

あれやこれやの出来事から「黄金のピラミッド」は、あの世とこの世を橋渡し

する存在ではないかと妄想するに至りました。摩訶般若「波羅蜜多」ピラミッド

2010年3月 春分の日~彼岸にかけて

101S.N.生:2010/06/13(日) 16:48:45

アルビン・トフラー夫妻が書いた「富の未来」を読んで感じたのは、「ヒュチャ―・ショック」で彗星のようにデビューしたトフラーの思想が、「第三の波」によって具体的な姿を世界に示したのであり、この本はその完結編に相当しているという点がまず第一だ。

しかも、農業革命、産業革命、情報革命という三大革命によって、それを節にして文明が大きく変わったのであり、われわれが遭遇しているこの時代が、前代未聞の大変な内容を持つ文明だから、それにふさわしい心構えが必要とする点で、一連の藤原著作の文明論と重なり合っている。

だが、これからの時代をわれわれが生き抜く上で、何に対して注意を払うべきかという点で、時間と空間に対しての適応性の重要性の指摘は共通だが、第三の要素として考えられているものが、トフラー説では「情報」であるのに対して、藤原理論では「知恵」とか「慧智」になっているために、意外なほどのずれがあるという感じがする。

それはhttp://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/paper/mtk/mtk.htm において、藤原さんは産業社会の動態分析を試みており、農業革命による労働集約型の社会の活力減は食料だから、エネルギーとしてはカロリー単位と規定した。次に産業革命による技術集約方の社会の活力源は石油や電力だから、キロ・ワットやギガ・カロリーが単位だとして、石油などの熱源に注目して理論を進めている。更に情報革命の活力源は情報そのものであり、ビットとかギガ・バイトの高速で動く情報量が、知識集約型の社会を決定付けるとして、リニア型と螺旋型の発展の相の違いを論じている。

そうなると知識集約型の社会を決定付けるのは、知識の量ではなくて質に関わっているから、当然のことで選択され洗練された情報として、インテリジェンスが決め手になっている以上は、その精緻としての知恵や慧智が主人公になるとする。

ここを出発点にして価値評価の分岐が始まり、トフラーが論じる形に顕れる富に対して、そんなものは場の理論からして幻影に過ぎず、それにこだわったことで誤りが始まってしまい、賎民資本主義に迷い込んだのではと疑問を提示した、藤原理論を支えている基盤があるのではないか。これが「富の未来」を読んで感じたことである。

111 名前:藤原肇 投稿日: 2012/10/17(水) 21:50:59

鶴岡真弓の書いた「黄金と生命」を読み終えて、思わず「ううん・・」と感嘆のうなり声を発してしまったが、これだけの内容の本を仕上げる日本人がいたと知り、心から嬉しいという幸福感に包まれたと白状したい。この本はヨーロッパの読者に向けて書かれたといって良く、もしもヨーロッパの言葉にでも訳されて、選ばれた良質の読者に読まれたらいいと思った。

最近の日本についての評判は地に堕ちており、余りにもお粗末な人間が政治を弄び、世界から嘲笑と顰蹙を買っている日本は、日本人と名乗るのが恥ずかしいほどで、未熟で愚劣な連中に弄繰り回されて情けない限りだ。そういった日本の悲しい現状に対して、本書は世界スタンダードをクリヤーする水準のもので、ケルト文化を足掛かりに文明史に取り組み、ユーラシア大陸の次元で歴史の英知対決しただけあり、これだけの該博な人物がいたのかと日本人が再評価されそうで、大いに名誉を回復し得るのではないかと思った。

錬金術の歴史と信用について扱った本書は、シンボルとしての光り輝く黄金と信用を論じ、時間差を操る魔術がが生み出す価値のずれが、経済的な価値の虚像を描き出すシステムとして、芸術家らしい時間の遠近法として分り易く見せてくれる。

本書を読み終えた記念に巻末に読後感として、私は熱気に包まれて次の文章を書きつけた。

日本人のイマジネーションの欠如のために

天の溶鉱炉の産物で太陽の黄金である

プルトニウムを地上に持ち込もうと試み

金儲けのためのマネーとして金メッキを施し

欲張り爺が死の灰を地上にまき散らした

112 名前:千々松 健 投稿日: 2012/10/18(木) 22:09:53

>94 2010/01/05(火)の投稿を想起する機会を得たので、今の時点にて編集し直します。

「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは

①「成立している事態の全体が世界である」

②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけています。

それを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば

①は「神聖方陣」で

②は「ラセンモデル」と言えるでしょう。

①は陰陽で成立している現象(論)としての世界であり、

②の対象とは実体(論)としてのフィボナッチ数列で、

対象の配列とはFLKM系列の4つの数の流れ(配列)に相当します。

FLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)です。

また、①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

そして「山中4因子=iPS細胞を生み出す特定の4つの遺伝子」の発見も、この「逆序」に関係していると考えられます。

113 名前:千々松 健 投稿日: 2012/10/22(月) 18:24:26

鶴岡真弓さんの「黄金と生命」の本が届いたので早速見開くと、挿絵や写真のアナログ情報は全て左側のページに印刷されていました。これは左脳と右脳の情報処理の特徴が活かされていると思いました。これが第一の好印象です。

次に、目次から数分で読み飛ばした限りの第二印象ですが、ユーラシア大陸の極東(日本)と極西(アイルランド)に位置する二つの時空を超えた文化人類学を日本女性が博学をもって展開しているようにも読めるコトです。

先日のNHKで松任谷由実が彼女とケルト文化を紹介する番組が放映されたばかりでしたから、より興味が湧きます。秋の夜長にじっくりと読んでみようと思います。

115 名前:千々松 健 投稿日: 2012/10/25(木) 20:46:10

新井満氏の「自由訳・老子」を読んだ。

2箇所を引用します。

『万物は一つの例外もなく

時の流れと共に変化する

変化した末に亡び

さらに変化した末に再生する

いいかね

こらが万物を産んだ

天と地のはたらきなのだ

したがって万物とは一つ残らず

存在即ちモノに於ても

現象即ちコトに於ても

相対と変化の力にさらされることになる』p92

『この宇宙を

くまなくとうとうと流れつづけている

いのちの巨大な運動体

宇宙大河を...

それが道(Dao)の実相さ

(中略)

天と地と万物の

生と死と再生をつかさどり

あまねく変化させながら

宇宙の果てまで流れていっては

また流れもどってくる

メビウスの帯のように循環し

永遠に流れつづけているのだよ

ゆったりとおおらかにね

これが、道(Dao)さ』p13-15

116 名前:千々松 健 投稿日: 2013/01/18(金) 23:42:46

同世代の篠原資明氏が最近書いた「空海と日本思想」のように、プラトンの基本系<美・イデア政治>と空海の基本系<風雅・成仏・政治>をカサネて思考するならば、我田引水になりますが、その先は<●▲■の流儀>に帰着せざるをえないことが良く理解されるでしょう。

例えば、美(●)・真(▲)・善(■)であり、Want・Plan・Actionであり、父・聖霊・子であり、様々に変奏ないし、変容されているコトが見て取れるのです。それは分野を越えて展開されて、まさに重重帝網の如くになるのです。

65歳の誕生日に合わせて下記を更新いたしましたので、ご覧ください。

http://8w1hflkm.jp/Field3.pdf

117 名前:千々松 健 投稿日: 2013/01/31(木) 18:14:17

大日経にある「三句の法門」すなわち『菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす』を引用して、空海は「一切の教義、この三句に過ぎず」「三句を束ねて、以って一つの吽字と為す」と言っているという(吽字義)。(篠原資明著「空海と日本思想」岩波新書 P82を参照)

この三句を三密に置き換えて考えてみると、1)意密、2)口密、3)身密となり、例のWant-Plan-Actionの三拍子にカサネられるから「●▲■の三拍子でワルツは踊ろう!」に繋がると考えた訳です。

そして、美を欲し(ウォント)、真を探り(プラン)、善を行う(アクション)と考えられるので、まさにプラトンのイデア論と空海の真言密教とは相似象になるのです。

それにしても、阿吽の呼吸の「吽」の文字一つに凝縮する発想は三位一体のそれを超えるものですね。

118 名前:千々松 健 投稿日: 2013/02/03(日) 22:51:34

「吽」の文字一つに凝縮する発想をした空海に触れたところで、以前、藤原肇博士が「世の中には求心型と遠心型の二種類の思考形態があり、日本は求心型でドンドン集約して行くので、縮み思考の日本文化と言われている・・・」の一文を思い起こしました。

また、口と心と行と三つ揃ったまことを命(ミコト)と言うし、生きて行くための命(ミコト)の智慧が「生命知」ならば、生命知は「三句の法門」であり、「●▲■の流儀」であり、日本古来のフトマニ図の中央にある「アウワ」であります。更にイメージ動力学を働かせれば、レオナルド・ダ・ヴィンチがジョコンダ(モナリザ)に描き込んだコトでもあったのです。

それに、博士の三部作「間脳幻想」「宇宙巡礼」「生命知の殿堂」は三つ揃ったミコトに相当するかもしれませんね。

また、釈迦が亡くなる際に若い弟子たちに遺したコトバであるパーリ語の「ヴャヤ ダンマー サンカーラー」(漢字で示せば「生・法・行」)が思いだされます。

119 名前:千々松 健 投稿日: 2013/02/04(月) 16:37:13

先日、生命学者の福岡伸一氏が西田哲学を訪ねるNHKの番組に登場していた。「動的平衡」論で生命知を研究している福岡氏にとって、西田哲学は新鮮かつ有用であったに違いない。

「生命は多と一との矛盾的自己同一」と云う西田の考えは、清水博氏の「二重生命の循環」にもカサネられると思う。

一筆書きの円相図「○」を好んで描いて万象をイメージしていた様子がうかがえた。

120 名前:千々松 健 投稿日: 2013/02/04(月) 16:42:34

>94および>112に書いたことを以下のように再度修正させていただきます。

哲学者のウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の冒頭で

①「成立している事態の全体が世界である」

②「対象の配列が事態を構成する」と言っています。

これを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば

①は胎蔵界曼陀羅に似た「ラセンモデル」で

②は金剛界曼陀羅に似た「神聖方陣」と申せましょう。

①は陰陽を含むラセンで成立している現象論的な世界(万象)であり

②の対象とは実体論としてのフィボナッチ数列と循環する4つの数の流れ(配列)に相当し、このFLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)に当たると考えたのです。

①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

121 名前:千々松 健 投稿日: 2013/02/04(月) 20:49:29

西田幾多郎が太平洋戦争の終戦二ヶ月前に稲村ケ崎の自宅で亡くなった際に、鈴木大拙が傍にいて号泣したという話を、今でも残っているその部屋を案内した西田の孫が語っていた。金沢が同郷で同級でもあり、晩年には同じく鎌倉を棲みかにしていた二人の仲を想う。

そして、鈴木大拙と言えば仙厓の「○△□」に触れなくてはならない。

「生命知の殿堂」インテルメッツオ40<仙厓の宇宙図>

http://blogs.yahoo.co.jp/mochy2156/51000731.html

出光美術館にある仙厓の作品「○△□」について、「・・・出光佐三が仙厓を海外に紹介した際、この作品の意味について議論したということが伝えられている。その際、出光が提案したのが『宇宙』を表わした作品としての解釈である。出光と親交のあった仏教学者の鈴木大拙はこれを受けて、自著の中で『The Univers』として紹介し、以降、海外では広大な宇宙を示した作品であるとして知られている」と解説されていた。

それにつけても「●▲■の流儀」は古今東西に普遍的な智慧であると考えられますね。

122 名前:千々松 健 投稿日: 2013/02/06(水) 12:21:39

「順序+逆序=秩序」の宇宙が現わされている「陰陽太極図・ト―ラス」について補足します。

原子モデルで有名な物理学者のニールス・ボーアは陰陽「太極図」を引用して、「Contraria sunt complementa」(対立するものは、相補的である)と述べています。

相対する歯車がある時、片方が右回りする時には、もう片方は左回りしますが、この二つの歯車は旨く噛み合えば回り、力が伝えられるが、外れたならば伝わらないことになります。

ボーアのタイチズはこちらから

http://blog.daum.net/gomildo/13624551 2008年

日本人によるアート化はこちらから

CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA / 第5回ジャパンアートスカラシップ 1997年

http://video.the-search.jp/0/video/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97/PaD6k-xoDgI.html

123 名前:藤原肇 投稿日: 2013/05/12(日) 11:31:53

この小説の存在を知ったのは5~6年前であり、「ミトコンドリアと生きる」という新書を読み、そこで著者が処女作について触れており、ミトコンドリアを主人公に小説を書くとは、面白いアイディアだと感じたものだった。そのまま久しく本と出合う機会がなく、何年か後に「生命知の殿堂」を纏めた時に、書架からこの本を見つけて再読し、いつかこの小説を読もうと思い数年が経った。そして最近だが古本屋でこの本に出会い、読み始めたら驚きの連続を体験したので、その読後感を記録しておきたい。

これだけ高度な専門知識を取り込んだのに、読者を引き込む書き方をする能力が、瞠目に値すると思わずにはいられなくなり、それをまず冒頭に記しておくと共に、こんな本を書いてくれたことを著者に感謝したい。私にはとても出来ないことに挑み、私の時間を節約する仕事を果たし、読むチャンスを与えて貰ったたことが嬉しい。いい本との出会いというものは、こんな印象を持つことだが、それが古典ではなく小説だったのが、思いかけない収穫だと感じた次第である。

ミトコンドリアの世界は地の最先端に属し、解説すること自体が一筋縄でないが、著者はそれを簡単に乗り越えている。30年前の私自身もそんな努力をして、不可能だとあきらめた体験があり、その後は解説は読者側に任せることで、私は問題提起と良いヒントを見つけ、それを記録することに専念してきた。そして、ドロマイトからマグネシウムを抽出して、それを未来のエネルギー源に繋ぎ、媒体としての水について考えた。その過程でシリカの問題が登場し、生命との関連で興味深いテーマと出合い、その問題を対談としてまとめて「フナイ」の二月号に発表した。

そんな時に「パラサイト・イブ」を読み、大いに啓発されてやって見る気になり、本当は珪素の問題の対談を続け、テーマを集約するのが当然だのに、その流れを私の独断で大幅に変更した。そして、急遽テーマとスタイルを数学の世界に移し、プラトン結晶の問題をフェルマーの最終定理と結びつけ、プラトンの師傅はソクラテスではなく、ピタゴラスとツアラストラだという、長年抱いてきた考えを公表してしまった。

こんなやり方は不用意だが、世の哲学者たちに対して、挑戦してみる気になったからだ。こんな気分にさせてくれたという意味で、「パラサイト・イブ」は衝撃的な本として、私の晩年にダイナマイトを投げ込んだテロリストの役目を果たしたのである。

124 名前:千々松 健 投稿日: 2013/05/12(日) 13:48:47

今日は「母の日」だから、ミトコンドリアの話題は大変相応しいですね。

真核生物の細胞を宿主として、好気性のαプロテオバクテリアなどがそこに入りこみ、そこで「ミトコンドリア」に為ったと考えられているという。

また、不思議なコトに、核DNAとは違ってミトコンドリアDNAは母系遺伝しかしないというから、そこに「母性の起源」(ミトコンドリア・イヴ)を観るようです。

125 名前:千々松 健 投稿日: 2013/05/14(火) 21:07:12

シュタ―ナ―の「遺された黒板絵」について『一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。』と松岡正剛は千夜千冊の第33夜に書いている。そこで、パウル・クレーの記述に飛んで見ると、新たな知見が得られました。

「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ」。

我々の細胞内におけるミトコンドリアの共生(寄生?)を考える時、まさに清水博先生の「二重生命の与贈循環」論にカサネられるのです。

また「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」というクレーの日記に残されたメッセージも、芸術を広くとらえて科学、技術、哲学、数学などをも含めて考えるならば、より納得できそうです。

そして「芸術は長し、されど人生は短し」のヒポクラテスの言葉が想起されるのです。さらに、クレーの「スペーシャル・オーガニズム」論は、宇宙も人間も○△□でイメージされる3つの要素が融合されて一体不可分であると思考するコトにも通じるでしょう。

そして、空海が「吽」一文字で表わした内容は○△□の一体化に他ならないので、言葉=声は響きであるのでしょう。

http://8w1hflkm.jp/column/DFW.html

126 名前:千々松 健 投稿日: 2013/05/16(木) 12:48:11

<ヒトの遺伝子情報に観る数の不思議と21世紀マンダラの関連性を探る>

ヒトゲノムには核ゲノムとミトコンドリアゲノムがあり、核ゲノムは24種の線状DNAに分かれて染色体を形成しています。ミトコンドリアDNAは16569塩基対の環状DNAとして存在している。そして、DNAにはATGCの4種類の塩基があり、AとT、GとCが組み合わさる二重らせん構造を持つという。

さて、単なる数の遊びであるかもしれませんが、以下は持論との関連を述べます。

核ゲノムの24種とDNAの4つの塩基については、フィボナッチ数列を(mod 9)で処理し、さらに多次元化して現れる24項目で循環する数の流れが4種類(FLKM系列と命名)在るコトに繋がるでしょう。【 HMn≡FLKMchain(mod 9) 】

また、今話題のミトコンドリアDNAでは16569塩基対の数に注目です。9を法とする剰余演算では16569は0になります。【 16596≡0(mod 9) 】

さらに19569=263*9*7 で7が登場しますが、これも「ミトコンドリア・イブ」には7人の娘たちが居たはずであるという説に繋がるかも知れませんね。

http://8w1hflkm.jp/Mandala.FLKM.pdf

追記:季刊誌の「kotoba」最新(11)号に「現代人は、ミトコンドリア・イブにつながっている」という対談が載っています。それに依れば、小生は縄文系と思ってきたが、どうも弥生人系に相当するらしい!(酒を飲むと顔がすぐ赤くなる体質なので)

127 名前:千々松 健 投稿日: 2013/05/16(木) 16:10:26

ラファエロの描いた「アテナイの学堂」にはアレクサンドリア学派のヒュパティアが白衣の女性科学者として描かれています。ユークリッド原論の編集者として有名な彼女の父であるテオンはここにはどうも登場していないようです。年相応に見える近くの人物はピタゴラスと見られているからです。

この「アテナイの学堂」を改めて観察すると、アーチ構図が特徴であり、中央に四重に描かれているのが判ります。(四重らせん構造への考察は省略)

また、若きラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を同時代に模写していた訳ですが、それは現在残されているルーブルの本物のモナリザ以上に意義があると思います。特に全体の構図に於いてです。

それは生と死と再生を一枚の絵にしたモノとして観る場合に尚更ですね。

そして、中央の女性象が「ミトコンドリア・イブ」に見えてくるのは私だけでしょうか? ダ・ヴィンチはもちろんですが、例のナポレオンもそう考えていたに違いないでしょう。ゲーテが「ファウスト」のラストで描こうとしたのも、このコト(母性回帰?)ではなかったでしょうか。

千々松さん、チョットチョットと言われそうですが、藤原肇博士が「パラサイト・イブ」に衝撃を得られたコトに図らずも共振してしまった次第です。

128 名前:千々松 健 投稿日: 2013/05/16(木) 22:08:29

昨日入手した季刊誌の「kotoba」最新(11)号には福岡伸一さんがマップラバーからマップヘイターへ自身を変化させた話も出ていて大変面白い。彼は細胞と細胞の関係を研究する過程で、「全体性を気にしないでマップヘイターとして細胞は行動しながら、全体としてはうまく調和がとれる。なるほど、生命とはこのようにできているのか、と気づいた私は、生物学者であるかたわら「動的平衡」をキーワードに本を書くようになりました。」と告白している。

たとえ遺伝子の全体地図ができたにしても、生命のあり方は解明できないと気づいた福岡伸一は単なる分子生物学者を超えた存在となったようです。

それにしても4年前に「21世紀マンダラ」を手渡す機会があったのですが、その中に生命のあり方に関するヒントが隠されているコトを彼が少しでも気づいてくれることを今は願っています。

129 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/11(火) 11:39:29

<3.11から3×9=27ヶ月目に当たり>

古くて新しい「日本のオペレーション・システム(OS)」を今こそ認識すべきです。

古来のフトマニと陰陽を統合したカタチで表わされる「21世紀マンダラ」モデルに注目しましょう!

そこにはフィボナッチ数列を包含するフトマニ数列群とそれが生み出す神聖比例や陰陽道の太極図にみる左右の渦巻きバランスとひふみ算による全ての数の有限化が見てとれるからです。

「世界を変えた17の方程式」という最新書でイアン・スチュアートは≪これからは無限から有限へと方程式のアルゴリズムは方向転換されるだろう≫と展望していますから、純粋数学者達もそろそろ気が付いてきたのではないでしょうか。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO55991070Y3A600C1MZC001/

130 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/20(木) 13:42:26

イアン・スチュアートは「世界を変えた17の方程式」p401の中で、『未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ』と述べていますが、これは無限連続から有限離散への数学の方向転換を促しているものです。

この離散数学は有限的で離散的な構造を扱う数学で、無限と連続で象徴される従来の数学とは大いに違い、コンピュータ・サイエンスの発展に伴い、その重要性は認識されているが、旧来の学校数学はそれに充分に対応していないというのが現状のようです。

更に、整数のカタチを取っていると言うことの意味ですが、例えば、12÷9の計算を考えてみましょう。これを1.33333...と小数点を含めて表現する場合が無限連続の数学で、商1余り3と整数だけで表現するのが有限離散の数学と言えます。そして、モジュラー計算(合同算術)では、12≡3(mod 9)と簡潔に表わせるコトになります。

大事なコトですが、これは「フトマニ数列群の出番である」と言っているのに等しいのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】

この方程式は、神聖比例を生じるフィボナッチ数列の一般論として位置づけられるフトマニ数列(FMn)のアルゴリズムを示していて、9を法とする剰余算では整数のみによる循環(FLKMの4系列)で表わせるという合同式です。

思えば『神の数学』守護者さんからヒントを頂いてすでに6年が経ちますが、『日本古来のDNAの為せる業』がやっと『未来を変える方程式』として成就したという想いがいたします。

日本古来のフトマニに秘められた「二つを足して、次に正しく置く」というアルゴリズムとひふみ算術およびカバラ算術に共通する(mod 9)の復活が同時になされるべき時が遂に到来したのです。

131 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/21(金) 21:07:31

【FMn≡FLKMchain(mod 9)】という『未来を変える方程式』は「フィボナッチ数列や律動とラチオについて」「フィボナッチ数列の殿堂への夢」「モノとコトあるいはカタチとコトバ」等のレスに共通したアイデンティティです。

また、30年前のニューサイエンスの高揚がオカルト化の嵐の中で消滅したコトを反省して、あくまでも数学的な論理思考のコトバを持ったカタチで提示される「生命知の殿堂」のアーキタイプとしての方程式にも当たります。そして、それは全てのアーキテクチャへと繋がって行くのです。

132 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/24(月) 13:04:05

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】

:『黄金比(神聖比例)を生じるフィボナッチ数列(フトマニ数列群)は、法を9とするモジュラー算術で観察すると、24項目で循環する4つの数の流れ=FLKM系列を持っている』

「デュラックスピノル」についてはDNAの4重らせん構造をテーマにした時に触れていて、相対性理論と量子論の融合に寄与したポール・ディラックが示した4つのスピノルとFLKM系列の関係性について直観で述べていました。

また、『物理学には数学的な美が重要である』(ディラック)と『神は整数を作られた。それ以外は人間が作ったものである』(クロネッカー)をカサネてみる時、『万物は流転する』(ヘラクレイトス)、『万物は数である』(ピタゴラス)と古代ギリシア人が考えていたことは、改めて納得せざるを得ません。

133 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/25(火) 21:15:11

面白いことに、フトマニ数列群で0項を10、第1項を12にすると第9項目に618、第10項目に1000、第11項目に1618、第12項目に2618が現れる。これらは千単位で見れば、φ、1、Φ、Φ^2の近似値に相当する。隣り合わせの数の比が黄金比になるコトの整数レベルでの実例である。

http://8w1hflkm.jp/FutomaniJ.pdf

スタートの10と12は2で割れば5と6の関係になるので、これは動植物に係る5という数と鉱物に係る6という数のコラボレーションにより生じる神聖比例数と言えようか?

フィボナッチ数列の一般式と位置づけて良いフトマニ数列群のアルゴリズムは「二つを足して次の間に置く」です。(パソコン上でエクセルなどの表計算なら、一つだけ計算式を作れば、後は簡単にコピーで済みます)

「世界を変えた17の方程式」でイアン・ステュアートが言う「未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ」とカサネて考えるならば、自ずとその意味が明らかになるコトでしょう。

134 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/26(水) 15:20:12

『世界をその最も奥深くで統べているものが、何であるかを認識し、一切の作用の力と種子とを目で観る』という行動をゲーテはファウストに課していた訳ですが、アートが芸術と科学・技術の両方を含めていた良き時代の「宇宙巡礼」でありました。

現代に生きるファウスト的人間といえる博士の「宇宙巡礼」は21世紀に入り、その数理的な裏付けが為されたのです。

武谷三段階論的に言えば、現象論:ト―ラス、実体論:Φとフィボナッチ数列、に対して最後の本質論は何かというコトですが、それはFLKM系列に関係すると考えられます。

下記の数式は、計算のレシピとも言えるアルゴリズムを示す合同式です。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】

Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】

Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】

Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】

Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】

24項目で循環するフィボナッチ(F)系列が基本となっていて、リュカ(L)系列はF系列を2倍したもので、ケン(K)系列は3倍したもの、ミチコ(M)系列は4倍したものに該当します。もちろん(mod 9)で処理します。また、0を起点にして観察すると、各項目は足し算することでも一致します。F+L=Kは例えば第6項目ではF8+L7=15、1+5=K6となり、F+K=Mは同じくF8+K6=14、1+4=M5となります。1倍と2倍を足したら3倍になり、1倍と3倍を足すと4倍になる理屈です。

では更に広げて、2倍と3倍を足したら5倍になる数列は考慮しなくていいのでしょうか?

それを仮にP系列としましょう。

Pchain:【0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4,0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5】が考えられます。

しかし、これはMchainを後半からスタートさせた系列に一致するのです。9-5=4だからです。

9-6=3、9-7=2、9-8=1以下省略で、法を9とする限りはFLKMの4つの系列に集約されてしまうのです。

まあ、何と有限で幽玄な世界が現れるのでしょう!

135 名前:千々松 健 投稿日: 2013/06/27(木) 22:39:23

『あ、わかった! 世界の見え方があざやかに変わる発想』という帯コピー文のある「思考の補助線」(ちくま新書)茂木健一郎著という本を5年前に読んでいるのですが、そこから2ヶ所引用させてもらいます。

p34『ゲーテの「ファウスト」にいう「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない、両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。(中略)何時間かけて考えても解けなかった幾何学の問題が、たった一本の補助線を引くだけで見通しがつき、一挙に解決に向かうように、何らかの新しい視点を得る努力をしてみたい。』

p207『ある方法論に従ってさえいれば、収集するデータの有効性や理論の普遍性が担保される。天才でなければ成功しないというような実験には科学としての意味はない。どんな平凡な人間でも、性格の悪い人でも、善意に満ちた人も、あるプロトコルに従って操作さえすれば、同じ結果が出る。これが、科学という知的営為の偉大なる大前提である。』

このところ話題にしている【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】が、その意味での“一本の補助線”になることを願っています。

136 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/04(木) 23:35:49

数学の基礎演算は、加法・減法・乗法・除法の他にモジュラー演算(計算)を加えた「五則演算」とすべきことを強調しておきたい。

ライプニッツは行列式や二進法を考え着いただけではなく、法を9とするモジュラー計算(mod 9)の特徴にも気づいていたという。行列式は日本の関孝和が若干先行していたが、その後の行列数学や量子力学に繋がって行く基礎となったし、二進法は言うまでもなくコンピュータの開発に繋がりました。

それでは、モジュラー計算(mod 9)の特徴は一体何の役に立つというのでしょうか?

137 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/05(金) 21:12:15

アンドリュー・ワイルズ氏は1990年代に

【楕円曲線のゼータ関数は、全てモジュラー形式である】

という谷山-志村予想を証明することによって、

【nが3以上のとき X^n+Y^n=Z^nをみたすX,Y,Zは正の整数解をもたない】

というフェルマーの最終定理を360年目にして証明することができたという。

ところで、2010.2.1 百人一首と魔方陣 >95 で書いた覚えがあります。

>4)ゼータ関数 ζ(S)=π^s / N では、Sが偶数のときNはmod9では全てが0となる。例えばζ(6)=π^6 /945 N=945、N≡0(mod 9)

複素平面でのモジュラー形式(関数)は難解なのでパスするとしても、時計算とも言われるモジュラー計算(算術)の方は理解がし易いです。従って、単純にはモジュラー計算が必要となるのがモジュラー形式の世界であると考えれば良いと言うことになるのでしょう。

*その辺を文系にも理解しやすいように解説している下記のサイトがありました。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/8931/index3.html#・フェルマーの最終定理とスープに浮かぶドーナッツの似非科学

138 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/07(日) 15:31:45

カレンダーでは1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と奇数のぞろ目が好まれていて、今日は7月7日の七夕です。次は重陽の節句の9月9日ですが、9は陰陽で言う陽(奇数)の極に当たる訳です。この9という数は、古今東西、秘数として扱われて来ていたのは確かです。

【時計算、剰余算、合同算術、モジュラー計算、モジュラー算術】その呼び方は多種にわたりますが、特に9に注目したモジュラー算術に当たるのが、古代日本では「ひふみ算」であり、古代ユダヤでは「カバラ算」であったのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :If you look at the modular arithmetic that the law 9, Futomani sequence caused a divine proportion becomes a flow of four numbers circulating in the 24 term.(Ken Chijimatsu 2013.summer Japan)】

http://8w1hflkm.jp/21st.Century.MandalaE.pdf

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) :神聖比例(黄金比=Φ)を生じるフトマニ数列群=FMn(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術(mod 9)で観察すると、24項で循環する4つの数の流れ(FLKM系列)になる】

これは<世界を変えた17の方程式>にはない<未来を変える合同式のアルゴリズム>として、通時性かつ共時性の故にいずれ認知されることでしょう。

・・・宇宙巡礼に相応しい七夕の日に祈念を込めて・・・

139 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/07(日) 16:39:31

整理のために、二つの式を比較しておきましょう。

Fn≡Fchain(mod 9)・・・・1)

FMn≡FLKMchain(mod 9)・・2)

1)はフィボナッチ数列でFn:0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89、、、

Fn+2=Fn+Fn+1で 初項=0、第二項=1の場合。

Fnを、それぞれの項を9で割った余りに置き換えると

【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】という

24項で循環するフィボナッチ系列=Fchainが出現する。

ガウスの合同式記号を使って示すとFn≡Fchain(mod 9)となる。

2)はフトマニ数列群で FMn:初項=任意数、第二項=任意数の場合。

あらゆる数列の項を9で割った余りに置き換えるると

Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】

Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】

Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】

Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】

4つの流れ、すなわちFLKMchainという24で循環する系列に集約される。

1)は特殊論で、2)の方が一般論とみて良いと考えますが、

2008年の段階で特殊論を見つけて、その後、一般論に発展して来たのです。

「二つを足して次の間に置く」という単純なフトマニのアルゴリズムが

神聖比例「Φ」を生じさせる事実には、ただ驚愕するのみです。

初期に『ひふみフィボナッチ数列』と呼んでいた頃が懐かしく思われます。

140 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/08(月) 16:34:14

竹下節子著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実」中央公論新社p115からの引用です。

『キリスト教カバラの成立とは、キリスト教が独自のカバラ的手法を発明したことではない。カバラが「神の言語」の正当な翻訳道具になることを証明するというやり方だ。ルネサンスの科学は、神の創った宇宙の自然現象の因果関係を理解しようとした。宇宙は神の言語で書かれている。それを理解するには神の言語を解く必要があり、神の言語とは他ならぬ「創世記」が語られているヘブライ語であろう。そのヘブライ語を神の言語として解くのがカバラであるとしたら、カバラは一種の神智学であり、真の神学でもある。(中略)カバラを使って神のプログラム言語を調べればその秘密は解ける。』

私はカバラに関しては「カバラ算術」にしか知識と興味を持たないが、それが、現代数学の(mod 9)を意味しているコト、さらに日本伝統の古神道の「ひふみ算術」とも共通しているコトを認識するに至り、神の言葉=プログラム言語=数学=アルゴリズムについて考えると、万物は数で生じているという認識に立ち至り、やがて【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】を提示するコトが出来たと言う訳です。

さて、この式にピッタリな名称は何でしょうか?

141 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/10(水) 23:25:55

イアン・スチュアート著「もっとも美しい対称性」日経BP社p13からの引用です。

『空間、時間、物質が取りうる構造はその対称性によって決まるが、その中でも最も重要なもののいくつかは代数学における特別な構造に関係しているらしい。時空がこのような性質を持つようになったのは数学が特別な形を少数しか認めなかったからかもしれない。そうだとすれば、数学に目を向けるのは意味があることになる。』

この文章は大変意味深いと思います。

先ずは宇宙巡礼的には対称性を「回文」と相似象にしても良いと思われることです。

そして“代数学における特別な構造”とは「動態幾何学」や対称性を扱うのに優れているモジュラー算術に関係してくる訳ですし、“数学が特別な形を少数しか認めなかった”からは黄金比を生じるフィボナッツ数列(広くはフトマニ数列群)がイメージされるのです。

この「もっとも美しい対称性」は2008年以前の著作ですが、

英国の第一級の数学者は【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】の出現を予知していたのかもしれませんね。

142 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/12(金) 21:58:22

「黄金比はすべてを美しくするか」を書いたマリオ・リヴィオがその後に出した「神は数学者か? 万能な数学について」の言葉を借用するならば、『数学の持つ不条理な有効性』は神の仕業に他ならないと思う。

そして、数学という道具を『発明』したのは人間でしょうが、元来は神が数学者であり、人間は単にそのいくつかを『発見』したに過ぎないと考えてみたい。そして「動態幾何学」などの非ユークリッドの世界になっても、そのコトは微動ともしないと考えています。

その意味では、今般の【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】は古くて新しい『発見』と言えましょうか?

元々が神の数学の持ち物(道具)に、私たち人間が名称を付けるのは大変おこがましいのですが、

例えば【生命知の神聖比例アルゴリズム】(The Divine proportional algorithm of cosmic wisdom)は如何でしょうか?

143 名前:千々松 健 投稿日: 2013/07/13(土) 21:11:35

今日から盆の入り、燈明の火には松の木を使うのですが、松ぼっくりは火がつき易いので昔は重宝されたそうです。そして、火はそれを拝したゾロアスター教に繋がります。

さて、広島に本社のある自動車会社の【MAZDA】の名称は創始者の松田姓から来ている訳ですが、偶然にもゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーのマズダーと同じなので、世界進出にも適しているのです。

MAZDAの中央のZの文字を90度回転させてNにして読むとMANDA になり、それにLAを付けると【MANDALA】(曼陀羅)になるのはとても不思議なコトです。こんな言葉の遊びにも、何か深い意味つながりがあるのかもしれませんね。またMANDAのMを180度回転させたら、WANDAになり、同じ発音ですがAをOに替えるとWONDAになり、コーヒー缶の銘柄になってしまいます。

アルファベッド26大文字の中で回転して他の文字に化けるのは、結局のところ、ZとN、WとMしかないのです。

146 名前:藤原 投稿日: 2013/10/31(木) 23:29:05

夜の十時半に第七巻の「あとがき」読み終え、これから所感の書き込みを開始するが、あと一時間余りで Jack –o’ – Lanternの灯が消え、新年を迎え記念すべき年と日が終わる。

脳と目を酷使する長いが愉悦に満ちた旅路であり、マゼラン海峡と嵐の岬(喜望峰)を通過した旅を終え、ようやく母港にたどりついた感じで、七十五歳の誕生日に最後の頁を閉じることが出来た。

古代ケルト人が収穫を祝うハロウインの夜に、読了を完成するかどうかを危惧しただけでなく、最後に出会う精神の汚染を回避して、第七巻十章のジェンダー/コミックに属す可なりの本は、一瞥だけで通過しようと決断した。

それだと画龍点睛を欠くという気もしたが、知る必要がない情報も存在するし、品性と節度を保って生きて行く上で、知らない方が良い領域は禁断の地として、近づかないのが賢明だと判断した。

おぞましさが支配している空間は、そこをすっ飛ばして通り過ごし、目や頭脳をごみ溜め代わりにしないのが、精神衛生における防疫措置でもある。そうした例外的な十数冊ほどの本を除いては、じっくり観察し読み込んだので、見聞録として心の中の書庫に収蔵できた。

半世紀にわたる遍歴人生において、年に数度だけ客人の形で訪れ、その間に劣化と荒廃が進む故国に対しは、彼方に広がる異界としての設定で、浦島の逆玉手箱効果の相似象を観察した。

千冊に近い選ばれた本の渉猟で得たのは、若き日の留学の時に学んだ教訓や体験を積んだ過程で、見過ごしたものや分からずに終わった、盲点を埋める作業をおそらく果したことになる。

京都生まれの呉服商の息子の松岡さんは、江戸っ子で医療機械商の息子の私に較べ、面白いような共通面と異質面があって、若い頃にフランス語の世界に遊んだし、数学や博物学に強い関心を持っており、彼は国内に留まり私は日本を脱藩した。

ところが、彼は高校時代に上京して九段高校に転入し、私は東叡山にある上野高校に進み、共に後藤新平が作った旧制市立中学の環境で、詰襟でなく背広で青春を過ごし、官途につかず「野ごころ」の維持を図って来た。

生涯をかけて百一連環の帝網に挑み、松岡さんは編集の奥義を窮めたことで、彼は『千夜千冊』の千人斬りの偉業を果たし、私はその返り血でアムリタを賞味した。

私がえにしを結んだ愛着を持つ本のリストの中に、彼が触れなかった本と著者があって、重ならない世界があるのも興味深いが、そのうち思いがけない幸運に恵まれ、セイロン島あたりで出会いをもち、発見と再会の縁起を持つ楽しみがある。

147 名前:藤原 投稿日: 2013/10/31(木) 23:41:22

(NGの文字があると撥ねられたので、直した後半を以下に続けようと何度も試みたが、書き込み不能なので小刻みに書き込み、残りの部分は明日にやり直します)

知情意が構成する三角ダイアグラムを作り、その流体力学の位相の階位の頂点に、洗練度における名人と芸術性における鉄人、それと論理性における達人を置く。

そうすると、『千夜千冊』を作り上げた松岡正剛の作品は、シェヘラザード築いた夜の偉業と並び、叡智と編集術で組み上げた「花伝書」で、日本が誇るマエストロの逸品になる。

半世紀を費やした世界巡礼の草枕の果てに、生まれ故郷における憩いの場で、千夜の夢を一年半という時間枠の中で見終わって、安堵の気持ちに包まれている境地は、何という恵まれた心の寛ぎになることか。

148 名前:藤原 投稿日: 2013/10/31(木) 23:54:50

(残りの部分ですが、未だ受け付けられないので細切れ状態です)

母親が亡くなった直後にあった述懐が、『岳人』の1994年9月号の誌上で活字になり、それが『山岳誌』の追悼号に収録され、遺言で日本全国の高校図書室の書架に並んだが、それは山頂に積む憩いのケルンだった。

そこには青年期のゲーテが山小屋の壁板に、「 総ての頂きに憩いあり(ドイツ語の書き込み省略しました)」と刻み込んだ、若い頃に残した書き込みの文章に対面した、82歳の老詩人の感激が伝って来る感じがして、人生の来し方を振り返った一瞬である。

また、「冥土の旅の一里塚」として積むケルン代わりに、賑やかな英語の誕生日の歌ではなく、フランツ・リストの「流離の人の夜の歌」を味わい、これから暫し熟睡を楽しむことにする。

http://kunstlied.blog23.fc2.com/blog-category-54.html

2013年10月31日の11時を過ぎた大晦日の夜に。

149 名前:藤原 投稿日: 2013/11/01(金) 00:09:21

そこに青年期のゲーテ・・・

の前に貼りつけたURLがNGになった原因らしく、それを取り除いたら書き込みが出来ました、

何だか奇妙ですが全文を再現するために、URLを改めて貼り付けておこうとしたが、再び撥ねられたので貼り付けを諦めます。

「宇宙巡礼」の「記事」にある、『岳人』の1994年9月号の記事を参照ください。

意味が不明のトラブルのために、二日がかりの書き込みになってしまいました。申し訳ありませんが、一応これが最近読んだ本の感想です。

150 名前:藤原 投稿日: 2013/11/01(金) 00:30:24

取り上げた本についての説明不足で、分かりずらくて失礼しました。

千冊の本が束になっていて、著者は松岡正剛で題名は「千夜千冊であり、」内容は次のようなものです。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%8D%83%E5%86%8A-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E6%AD%A3%E5%89%9B/dp/4763006428/ref=sr_1_19?s=books&ie=UTF8&qid=1383232967&sr=1-19&keywords=%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E5%89%9B

151 名前:千々松 健 投稿日: 2013/11/01(金) 00:38:24

ハロウィーンに誕生日を迎えられた藤原肇博士が松岡正剛氏の「千夜千冊」全7巻を読破されたことを知り、デュアルの祝福を贈りたいと思います。(祝^2)

【言霊と数霊の出会い】

カタカムナ研究者の宇野多美恵さんの命日が10月22日でしたが、丁度7年後に当たる10月23日午前に、関西のある人物からメールを頂き、まことに不思議な縁を感じざるを得ませんでした。

早速に、東京丸の内にてお話したのですが、それは、まるでコトダマとカズダマの出会いでした。

今回の収穫の一つ:

22-77の組み合わせが特徴的なリュカ数列(コトダマ的にはルカ数列の方が適しているようです)の一般公式から11-88の組み合わせが特徴的なフィボナッチ数列も出現するという意味では、ルカ数列の方が核になるのかもしれないと思うこの頃です。

152 名前:中村 投稿日: 2013/11/02(土) 09:26:54

75才といえばナントカ高齢者に数えられる年で、普通なら神経痛とかアルツハイマーになったりして、生命のエネルギーが低下する年齢です。

そんな年になってもこれだけのチャレンジをして、こんな薀蓄に富んだ文章を書けるとゆうことは素晴らしいです。

本当に素晴らしい誕生日おめでとうございます。これからも元気にご活躍されて、指導して下さるようにと、心から期待しています。

153 名前:千々松 健 投稿日: 2013/11/07(木) 14:26:05

引越しの準備で本棚を整理していたら、「私のゲーテ」小塩節著が目についたので付箋の箇所を読み返した。

ファウストについて P65-66『神の行為であり神の意志であるロゴスを、この自分の力で認識せんがための行動である。【世界をそのもっとも奥深くで統べているものがなんであるかを認識し、いっさいの作用の力と種子とを目で観る】そのための行動なのである。(中略)原子物理学者や遺伝子工学の先端をゆく現代の自然科学者は、みなファウストの嘆きを身にしみて知っているはずだ。』

154 名前:藤原肇 投稿日: 2014/03/25(火) 07:03:34

[単にマネージメントがあるのではなく、そこには常にイメージメントがはばたいている]という結論は、俯瞰して全体的に物事の本質を見抜き、関係性を読み取って物語りを編集するのが、リーダーシップであるという意味で、「イメージとマネージ」と題した本書は素晴らしい内容に満ちている。

また、「リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針」という副題も、日本人として異例に属す指導性を持ち、それを実践し活躍した平尾誠二という関西人がが、如何に稀有の人材であるかを克明に証明していく。

だから、人材枯渇と不毛な支配者たちの洪水という、実に情けない日本の現状にあるせいで、慚愧の気分に包まれて思いを馳せていた時に、この本に出会った幸運を痛感させたのである。それにしても全く不思議な因縁であり、ラグビーという英国人が作ったスポーツの世界とはいえ、他人事とは思えない印象をこの本は私に与えたといえる。

彼が同志社大や神戸製鋼のチームを率いて、実践で積み上げてきたゲームの指導能力は、明治時代からの日本の戦争の歴史と較べても、あるいは、明治から現在に至る日本の政治においてさえ、彼に匹敵するビジョンと統率力を持つリーダーは、見つけるのが困難なのではないかという気持ちになった。だから、その感慨は実に印象深いものになった。

(中略)

それにしても、日本の各分野の実践現場には、平尾のような優れたビジョンと指導力を持ち、着実に堅実な実績を積み重ねていたのに、なぜ日本の現状は支離滅裂な衆愚主義が支配し、亡国への道を盲目的に驀進したのだろうか。

(中略)

しかも、日本の未来をめちゃくちゃにしているのに、日本人は屠殺場に率いられていく牛のように群れをなし、反抗する気概もないのかと不思議でならない時代でもあった。

それにしてもである。この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

155 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/25(火) 16:40:23 注:一部修正あり

>153 つづき

これは要するに『 Want(神の意志)、Plan(神の論理=ロゴス)、Action(神の行為)を三位一体的に理解しようと努力するコト』になろうかと思います。

武谷三男の三段階論すなわち「人間の認識は現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階の三段階を経て発展する」

1)現象論的段階- 現象をありのままに記述する段階

2)実体論的段階-- 対象の構造を研究する段階

3)本質論的段階--- 対象がどのような相互作用の下に、どのような運動法則に従っているのかを明らかにする段階

「自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような発展が得られる。すなわち歴史的発展と論理的構造の一致である。」

京都大学の素粒子論研究グループの方法論の基礎には、この武谷三段階論という新しい弁証法が在ったといわれている。

そこで私は、●を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、■を本質論的段階にてイメージし、三位一体的な立体構造の全体をマネジメントして行くのが重要であろうと思い着き、2012年秋ごろ松岡正剛氏に手渡した1枚が、パワーポイント用に作成した「未来を変える方程式」というPDFの最終16枚目のシートでした。

注)検索エンジンが進化してPDFファイル内のキーワードでもグーグルが、すぐに見つけてくれるようになったのは嬉しいですね。

その例としても「本質を抉る思考のヒント」にて一度検索してみてください。「病理を抉る」ほどにはヒットしないかもしれませんが、、、

2014.3.25

156 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/25(火) 21:30:36 注:2014.11.2 再修正後です

>155『●を現象論的段階に、▲を実体論的段階に、■を本質論的段階にてイメージし』は間違ってしまいました。

これは最終的には『●を現象論的段階に、■を実体論的段階、▲を本質論的段階にてイメージし』が正しいのでした。

ことのついでに、

1)ステロタイプ:●:現象論

2)プロトタイプ:■:実体論

3)アーキタイプ:▲:本質論

とイメージして、三位一体的に立体構造全体を扱い、1.2.3の順序に3.2.1の逆序も加味した秩序の総体をマネジメントするコトが肝要となりましょう。

また、このようなイメージは三種の神器にもつながり、鏡:■、剣:▲、勾玉:●となります。(断面のカタチから見る)

157 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/25(火) 22:08:52

三種の神器は現在では三ヶ所に別々に在るようです。

八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は八咫鏡の形代および草薙剣の形代とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に安置されているといいます。

アーキタイプの■のイメージになる「八咫鏡」が本質であり、最重要であるコトがこのようなことからも解かりますね。

明日3月26日には20年ぶりに皇居の剣璽が伊勢にて鏡とめぐり合う事になるようです。

158 名前:藤原肇 投稿日: 2014/03/26(水) 13:14:43

155で千々松さんが松岡さんに触れているのを読み、154の私の記事の最後の行に関して、それにしてもである以下を次のように書き改めて補いたい。

それにしてもである。過去30年間の私は専ら対談を試みてきたが、対話は同じレベルの人の出会いが決め手であり、

その点で型破りのスポーツマンの平尾誠二を相手に、対等であることに疑いの余地のないレベルで、編集の達人の松岡正剛が存分に語り合っているのを知ることになった。

そして、この対談こそは二十世紀の日本に生まれた、最高のダイアログだという嬉しい読後感を持ち、久し振りに読書の快感を満喫したのである。

159 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/27(木) 22:18:57

平尾誠二氏は山中伸弥氏と神戸新聞で新春対談をされていました。

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201312/0006608321.shtml

2月23日に秩父宮ラグビー場で開催されたラグビー日本選手権2回戦の神戸製鋼対ヤマハ発動機の試合を天皇皇后両陛下が観戦され、森喜朗さんがラグビー協会トップとして同席していたようです。

そして、神戸製鋼ラグビー部のGM兼総監督として平尾氏は場内で采配を振り、大逆転の勝利を飾っています。

さて、初めはSTAP細胞の小保方さんにエールを送っていた山中氏なのですが、今後はiPS細胞対STAP細胞の対戦(対談)は不成立のようですね。

160 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/28(金) 23:53:55

三段階論の現象論、実体論、本質論に関連して

日本古来の伝えに『その言は数にあり、数の道は理を含み、理は玄を有て在り』というのがあるそうです。

そこで、ふと私なりに次のように解釈したいと思うのでした。

「神のコトバは数(神が示す図=カズ)にあり、数の道である『神聖方陣』には道理(黄金比を生じるフィボナッチ数列)が含まれていて、その本質は『FMn≡FLKMchain(mod9)』に在る」

ここ数年来公開して参りました<21世紀マンダラモデル>と<未来を変える方程式>は日本文化の遺伝子ともいえるHUTOMANI=フトマニを宿しています。

2014.3.28

161 名前:千々松 健 投稿日: 2014/03/31(月) 22:08:41

ヒフミシンジ(日月神示)・イシモクシロク(五十黙示録)・フソウ(扶桑)の巻に登場する数字群にヒントを貰い、

フィボナッチ数列を72倍した数列を考えました。

Fn: 0,1,1,2,3,5,8,13,21、

72Fn: 0,72,72,144,216,360,576,936,1512、

この中には、0項目を抜かすと三番目に144、四番目に216、五番目に360が現れます。

天が3ならば天の数は144で、地が4ならば地の数は216で、(並んだ二つを足して次に置くというフトマニのアルゴリズムから)5番目が360になるわけです。

そこで、1番目と2番目を改めて確認すると、72と72です。2^3×3^2=8×9=72 ですから扶桑(2と3)だけで表されていることになります。

この72Fnの数列を「ひふみ算」すなわち(mod 9)で処理すると、全てが0となります。

そこで「未来を変える方程式」の【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は、初項と第二項を任意としていますが、<9の倍数は除く>という但し書きが必要になるということが確認できました。

また、伊勢神宮の「八咫鏡」は「天の中の元」です。すべての本質がその鏡にうつるのであれば、その鏡面対称性は「神の数式」にも欠かせないのです。

そして『神聖比例(黄金比=Φ≒1.618)を生じるフトマニ数列群(フィボナッチ数列はその特殊例)は、法を9とするモジュラー算術 (mod 9)で処理すると、全てが24項で循環する4つの数の流れであるFLKM系列のいずれかになる』ことを示す

【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は「日出る時は来にけり」の一つのアカシかも知れません。

2014.3.31

162 名前:千々松 健 投稿日: 2014/04/01(火) 22:56:16

日月神示・五十黙示録・扶桑の巻に関しての続き

そこに「イセにはモノ言うイシがある」と書かれているのですが、それに私は大変な興味を持ちました。

数の読み方でヒフミヨイムナヤコトが1,2,3,4,5,6,7,8,9,10の古来の読み方ですから、イは5で、セは世界ということにして、イセは5に関係するコト全ての意味になると思われるのです。

イセが伊勢神宮で5に関係すると考えると、√5を含む黄金比すなわちΦ=(√5+1)/2につながり、フィボナッチ数列へ更には「フトマニ数列群」に繋がりました。

そして、イシは1と4で、それら二つを足すと5になりますから、

1+4=5のミチコ数列が想起されます。

Mn:1,4,5,9,14,23,37,60、 ミチコ数列

ついでに

Fn:0,1,1,2,3,5,8,13,21、 フィボナッチ数列

Ln:1,3,4,7,11,18,29,47、 ルカ数列

kn:0,3,3,6,9,15,24,39,63、ケン数列

以上の4つの数列が重要で、それらを(mod 9)=ヒフミ算で観察して出現するのが24項目で循環する「FLKM系列」と呼ぶ4つの数の流れでした。

黄金比を生じる数列群は(mod 9)=ヒフミ算で観察すればこの4つの数の流れのどれかに該当します。(但し、9の倍数が並ばない限り)

http://8w1hflkm.jp/21st.Century.MandalaJ.pdf

164千々松 健 :2014/10/31(金) 23:31:03

<藤原肇博士の誕生日=ハロウィーンを祝して>

ヘーゲル自筆の書き込み本を神田の古本屋で寄川条路教授が見つけられた。

http://mainichi.jp/select/news/20141022k0000m040094000c.html

それはヘーゲルのデビュー作である「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」1801年初版本に、自書の書評の一部を写し書きしたもので、

『純粋に絶対的なものは、絶対的に一つのものであり、同時に全体的なものでなければならない』などと書かれているという。

さて、興味はその書評内容そのものにあります。

ヘーゲルの正反合の弁証法に影響された武谷三男の三段階論に倣っている「●▲■の三段階論」の舞台で考えることになります。

http://8w1hflkm.jp/123universE77.pdf

『純粋に絶対的なもの』とは▲の本質であり論理であり数学的には「Φ」で示されるものです。

『絶対的に一つのものであり』とは■の実体であり原因であり数学的には「Fn^2」で示されるものです。詳しくは「FMn≡FLKMchain(mod 9)」

『同時に全体的なものでなければならない』とは●の現象であり結果であり数学的には「トーラス体」で示されるものです。

これは正に知的直観という「ピストル」で、突如として脳内の中心を射られたような気分でした。

2014.10.31

168千々松 健 :2014/12/19(金) 16:11:09

8年程前にWEB上で運命の出会いがあった神の数学「守護者」こと佐藤敏夫氏のサイトから以下引用させていただきます。

【「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。】

ここからは、私の解釈です。(過去の修正も込めています)

『万物の法則を学ぶには、先ず現象をもたらす言(コトバ)は数(神が示す図=カズ)にあることを知るべきです。そして、その数の道は『フィボナッチ数列ヒフミ九九算表=神聖方陣』という実体はFMn≡FLKMchain(mod 9)というアルゴリズムを含みます。さらに、その本質は理すなわち「φ:1:Φ」という黄金比率に在るのです。』

『従って、全てのものは、黄金比率という論理から発し、フトマニ数列群に秘された四つの数の流れが理由となって、陰陽の二重螺旋構造体のトーラスとして現れる結果といえるのです。』

以上が、この8年間で集大成したものです。

<21世紀マンダラモデル><未来を変える方程式><●▲■の三段階論>は日本文化の遺伝子を色濃く宿していると考えています。

http://www.8w1hflkm.jp/

2014.12.19

169千々松 健 :2014/12/22(月) 21:19:21

『たとえ死の陰の指す嘆きの谷を行くときも、生かされている命に感謝するならば、心の奥底から湧き上がる何かが生きる力を与えてくれる。

そして、その魂を人間の言葉に表現して行こうとすれば、それがやがて「志」となるに違いない。』

今回は残念な結果になった小保方晴子さんの「STAP細胞」も、未知なる現象である限り、その実体と本質が探求されなければなりません。

また、コペルニクス的転換という意味を踏まえれば、科学者は既知なるものから未知なるものを説明するのではなく、未知なるものから既知なるものを説明することの方がより重要でしょう。

<●▲■の三段階論>に立てば、現象●・実体■・本質▲がイメージされますし、拡大した因果律では、三角=論理、四角=原因、丸=結果ですから、本質かつ論理は黄金比(黄金比率・黄金分割)に関係するコトとなるはずです。

従って『STAP現象が起こる最適条件すなわち必要十分条件は、この「φ:1:Φ」のロジックの中に在ると予想されます。』

2014.12.22

170千々松 健 :2014/12/27(土) 22:02:06

言霊と数霊に更に音霊を加えるのが良さそうです。音は波長の長さにより音階が決まります。ピタゴラス音階には黄金比が関与しています。

また、波長すなわち周波数により(限られた領域において)粒子が振動されて様々な幾何学模様が出来ることが知られています。

水の結晶は言葉によって様々に変容するという事実を江本勝氏が発見しているのは驚きです。

しかも、水は言葉(音)によって好ましい響きに対しては綺麗な氷の結晶となり、嫌な響きに対しては崩れた結晶となるという不思議な現象も実験されています。

このコトは、望ましい周波数が即ち、望ましい数霊であり、望ましい言霊でもあるということの証明のように思われるのです。

人体の細胞も殆んどが水ですから、言霊・数霊・音霊に因って色々に反応するコトがあるに違いないのです。

生命のシステムが正常に機能するためには、それらの魂が望ましい波長であるコトが大切になるという訳です。

従って、話題の「万能細胞」にしても、そういった要素が加味されるべきでしょう。

また、弱酸性のペーハー数値だけではなく、その際に入る乳酸菌や各種の雑菌も含めて、最適な条件を探求するコトが寛容です。

いずれにしても「初期化現象」は、数学で言えば「逆行列」が成立する最適条件が必須となるコトに類比されるのです。

2014.12.27

171千々松 健 :2014/12/29(月) 15:40:18

江戸時代の思想家である安藤昌益の「三回」について再考する機会を得ました。

12月22日の読売新聞、時事・思想の欄で農の行方・安藤昌益「米粒の神聖性が問う」と題して末木文美士教授(日文研)が書いていたからです。

『昌益によれば、この世界は始めも終わりもない自然の運動である。その運動は通(上から下への垂直運動・横(水平運動)・逆(下から上への垂直運動)からなる。』

この5月にも触れましたが「●▲■の三段階論」はその「通気・横気・逆気」に類比されるのです。

すなわち▲から■へが通気、■から●へが横気、●から▲へが逆気の流れです。本質(論理)から実体(理由)へ、実体から現象(結果)へ、そして現象から本質へという運動になる訳です。

「廻りて巡り、とわに続く」イメージになりますね。

『逆により穀物が生ずる』となれば米粒こそが本質(論理)となるのですから、神聖比例(黄金比)が登場するコトになります。

偶然にも「米粒の神聖性が問う」のタイトルは当たっていたのかもしれませんね。

http://www.8w1hflkm.jp/123universJ77.pdf

2014.12.29

172藤原肇 :2015/01/22(木) 12:17:17

「方丈記私記」(堀田善衛)を読む

弁慶と牛若丸の話を始め、義経を保護した平泉の藤原氏の滅亡とか、平家と源氏の争いや壇ノ浦の合戦に関してのイメージが、平安末期から鎌倉時代について、何となく歴史の断片として頭の隅に貼り付いていた。

また、西行法師、源実朝、法然、親鸞などの名前の後に、「千載集」「新古今」などの和歌の世界と共に、藤原定家や後鳥羽上皇が登場した時代の面影もある。後鳥羽が二桁の后や女官だけでなく、遊女や白拍子を相手にして、博打や猟色に明け暮れただけでなく、摂政を相手に男色にふけり、荒淫荒亡を尽くしたことは知識としては知っていた。

しかも、連日のように放火や地震が起き、堀田善衛のペンに従えば、「学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢餓悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火」で、「天変しきりに呈すといえども、法令敢えて改めず」が続いて行く。そして、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず、ありとしある人は皆浮き雲の思いをなす」という「方丈記」の冒頭の言葉は、地震や噴火の予兆に怯える日本の現状に重なり、まさに不吉な相似象ではないかと思う。

しかも、治外法権の外国軍基地を放置した中で、原発の放射能が国土を包み、戦争体制に猛進する暴政が横行し、人権を護る憲法が機能しないまま、狂人に限りなく近い男が首相として、したい放題をする日本の現状を遠望する私の目は、鴨長明の視線と同じ波動が網膜で揺れる。

それにしても、未だ大飢饉による人民の苦難は始まっていないが、既に食糧の汚染は進行し、鴨長明のいう「物狂いの世、是非を論ずるに足らず」である。高校の時のテキストが初見だったが、日仏学院時代に緑色の表紙の本で仏訳に接したが、その時から半世紀ぶりだが、久しぶりに読んだ「方丈記」のガイドブックとして、堀田善衛が体験した敗戦直前の日本と共に、今と鎌倉初期の末世現象を結ぶ「悪夢の浮橋」は、「驕れるもの久しからず」の黒い虹を架け渡してくれたのである。

173千々松 健 :2015/01/27(火) 15:24:59

先日の大学入試センター試験の化学基礎で「物質の三態」問題が出ていましたので、早速に参考にしました。

まず、氷(固体)は昇華して水蒸気(気体)になり、水蒸気は凝縮して水(液体)になり、水は凝固して氷(固体)に戻るという水の三態をイメージします。

それに、帰納と演繹とアブダクションを加味しました。

http://8w1hflkm.jp/123univers.pdf

「物質の三態」を●固体、■液体、▲気体と位置づければ、●から▲へは昇華に類比されます。

この●現象から▲本質へと直接に向かうラインを逆行列的推理(Invertible abduction)と呼びたいと思います。

昇華は逆のラインにも使用されていますが、一度、●と▲との関係に「逆行列」が成立したならば、後は自由に行き来ができると言う様に考えるのは面白いと思いませんか?

●>■>▲のルートは帰納、その逆のルートが演繹です。

更に、般若心経の繰り返しと逆読ませの妙を次のように解釈するのも面白いと思います。

「色不異空 空不異色」=「いろとそらの段階」=演繹と帰納のレベル

「色即是空 空即是色」=「くうとしきの段階」=逆行列的推理のレベル

すると「空哲学=禅」は、この●から▲へのルートを観つけることを意味していたとも思えるのです。

固体の強固に結合した粒子の関係性が一気に解かれて、気体になってからは単独の粒子はバラバラに動けるようになる如くです。

ちなみに、液体の粒子は互いに引き合いながら動いていますが、演繹や帰納のルートでのみ現われることになります。

また「STAP細胞」も要するに固体から気体へ昇華するルート探しといえるのではないでしょうか。

2015.1.27

174千々松 健 :2015/01/28(水) 22:55:00

>2012/02/08(水) 21:00:47 一部再掲から

プラトンの教義であるイデア論:『地球上のモノはすべて、永遠なる理想的原型つまりイデアのコピーにすぎない』および『イデアというのは、数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。「大」とか「小」というときの大ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。』

その「永遠なる理想的原型つまりイデア」こそは、藤原肇博士の「ステロタイプ・プロトタイプ・アーキタイプ」の三層構造における「アーキタイプ」に相当するものと考えました。

その頃の私は、イデア論の具体的なイメージとして、リュカ数列を黄金比で現わした一般式の【 Ln=Φ^n +(‐φ)^n 】を考えていました。

しかし「超三段階論」の公表時点では「永遠なる理想的原型つまりイデア」は「黄金比」そのものであると確信をいたしました。

本質をロゴス即ち論理と理解すれば、ギリシャ語のロゴスの語源の示す「三つの数の関係ないしは比」は「φ:1:Φ」に違いなく、この中の一番大きい数のΦ=黄金比≒1.618こそが「大」に一致するのです。

まさに、ユーレイカ! ですね。

2015.1.28

175千々松 健 :2015/02/01(日) 21:49:08

「超三段階論」の最新版をWEB上に公開しました。2015.1.18の日付が入っているものです。

http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf

これは宇宙を含めて天然自然を「生命智の場」として図象する試みの一つです。

▲はプラトンの「イデア」で、■はライプニッツの「モナド」で、●は色即是空の「色」に相似像です。

そして、▲>■>●のルートが演繹で、●>■>▲のルートが帰納で、●>▲のルートが逆行列的推論になりますが、仏教的な悟りあるいは正覚が、この●>▲のルートの成就に該当するようです。

また、釈迦が最後に弟子に語った『ワヤダムマーサンカーラ』が何を意味するかを考えるとき、現象と結果の●、実体と原因の■、本質と論理の▲の三つを関連させた「縁起の場」で考えること、即ちこの●▲■の超三段階論がイメージされるのです。

サンは三でカーラは神の場と読むと尚更です。

また「三種の神器」については以前から述べてきましたが、それぞれの断面で見ると、草薙の剣は▲、八咫鏡は■、勾玉は●に相当するでしょう。

旨くはいえませんが「剣で黄金分割をしてモノコトを分析し、鏡で自らの姿を映す如くに鏡面対称としての実体を認識し、結果的に現われる諸現象を理解するコト」と考えたりするのは飛躍しすぎでしょうか?

初めての方は驚くことばかりでしょうが、実はこの「超三段階論」は第三シートに相当するもので、「21世紀マンダラモデル」の第一シートと「未来を変える方程式」の第二シートが理解されるならば、より深く納得されることでしょう。

しかし、実のところ、ここ数年の間には、▲と■とは本質と実体が入れ替わった時期もありました。その点はご了承願います。

http://8w1hflkm.jp/

2015.2.1

176千々松 健 :2015/03/04(水) 21:52:55

「出現する未来」原題「Presence」の中で、ピーター・センゲはゲーテを引用して「U理論」を説明しようと試みている箇所があります。p136

「これはまさにゲーテが言う『全体は部分に現われ』、『具体的で個別のもの』を通して、『その奥にあるパターンが立ち現われる』ということじゃないだろうか」

このゲーテの表現をそのまま借りて、私は「超三段階論」を説明できると考えたのです。

まず全体を現象●として把握します。全体は部分に現われ、その部分は具体的で個別のものとしての実体■になります。その実体を通して、その奥にあるパターン即ち本質▲が立ち現れるのです。(帰納ルート)

逆に辿れば、本質▲の黄金比という論理パターンがあって、その実体■のフィボナッチ数列の二乗が形成する原因を通して、現象●のトーラスという結果全体が生まれるのです。(演繹ルート)

このような二つの認識ルートを行き来するうちに、●から▲へ、あるいは▲から●へ直接的に結ぶルートに気がついたならば、それが「悟りとか正覚」になるのでしょう。

また「物質の三態」にな倣えば、固体●から気体▲へ(気体から固体へ)の昇華ルートが開発されたと呼べるでしょう。

量子力学にはなくてはならない行列数学の用語を使用するならば、それは「逆行列的推論(インヴァーティブル・アブダクション)」と呼ぶに相応しいと考えます。

大げさではなく、量子力学の父と呼ばれるハイゼンベルクが「部分と全体」で、またボームが「全体性と内蔵秩序」の中で云いたかったことは、今ではこのように三つの基本図形と関係性の中で、易しい代数と幾何を使って説明が付くのです。

http://8w1hflkm.jp/123universJE.pdf

http://8w1hflkm.jp/21st.Century.Mandala1206.pdf

2015.3.4

177藤原肇:2015/09/25(金) 10:38:06

水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだ。

第一章や第二章を読んでいた段階では、素晴らしい理論の展開に感嘆して、流石に漱石の未完の作品の「明暗」を展開して「続・明暗」を書き、日本の男のレベルでは真似のできない仕事をした人だけあって、大した才能を発揮していると感銘を受け呆然とした。

英語嫌いでアメリカでの留学時代はフランス文学を専攻し、米国の大学で優れた学生を相手にして教えただけあり、水村さんの見識と国際感覚は絶大であり、これだけの女性を持つ日本は大したものだと嬉しくなった。これは五つ星でなく七つ星を付けたいと思った。

特にパリで行われた日本の近代文学に関してのシンポジウムで、彼女が「二つの時間」について行ったスピーチは、こんなことを世界に向かって普遍語で言える日本人は、加藤周一さんくらいしかいないだろうと感じて、凄い女性が光の都に登場したと思った。

そして、この「日本語が亡びるとき」という挑発的な本一冊だけでも、十数冊の膨大なローマ帝国について書いたイタリア在住の日本女性の本より、はるかに優れていると感動したほどだった。

人生のほとんどを海外遍歴で過ごしただけでなく、若かった十代に日本の文学に熱中しただけあって、水村さんの筆法は唸らせる叡智を含み、格調高い日本語の表現力は、まともな日本語も喋れない男たちが首相になる国の現状からしても、掃き溜めの鶴の爽やかさがあった。

だが、文学を論じていた間は黄金の輝きを持っていたのに、小説一般や言語論に話題が拡散するにつれて、普遍言語議論やコンピュータ言語になった途端に、黄金の下に真鍮が見えるようになり、第六章や第七章に読み進めるに従って、傍線を引く箇所が減ってしまったので、本当は5つ星なのだが涙を呑んで4星にした。私が余白に書き込んだコメントを参考までに書いてみると、「水村さんは、Ilove only you.とI only love you.を翻訳できるコンピュータのソフトを人間が作れるとお考えですか」ということだ。あるいは、「見渡せば、山もと霞む水瀬川、夕べは秋となに思いけん」というような歌を訳すソフトなどは、人間の脳の外には存在しえないのではないか。この辺までの部分はアマゾンの書評に投稿して置いたが、以下はつれずれに書き加えてみる。

178藤原肇:2015/09/25(金) 10:44:23

177の後半部が長すぎると撥ねられたので続きを以下に記す。

著者は言語(Language)の問題を一般化して、普遍語(Universal)、現地語(Local)、国語(National)の三種に分けて、英語を普遍語として論じているが、それは文学者特有の思い込みに過ぎないもので、問題の立て方がおかしくないか。文学や小説などの言語としてのLa Langueを論じるつもりであるならば、文語(Litteraire)、一般語(Popuraire)、俗語(Vulgaire)を使うべきであり、その時に英語は一般語の範疇に入る。論文や散文ならある程度いい加減でも良いが、哲学や宗教では英語は語彙が不足し、詩のレベルでの翻訳は困難になるからだ。しかも、数学レベルならプロトコールを作れても、幾何学にはとても利用し得ないのは、超無限には人間は挑み得ないのであり、社会科学や文化系の人には分り難いだろうが、幾何学がMetalanguageだからである。

コンピュータなどで英語が君臨し蔓延しているが、英語がLingua francaになり得ないことは、ハンバーグとポテトチップがfoodsのレベルで広まっていても、それで料理の問題を論じられないように、普及と普遍は取り違え得ないのである。しかも、これだけ文学に精通している著者だのに、トリックスターについて偏狭な捉え方をしているのを見て、いささか驚きの印象を持たざるを得なかったが、文科系の発想の限界がそこにあり、勇み足をすると足を踏み外すことになる。

それに、日本人は劣等感を持つので称賛しているが、ドナルド・キーンやサイデン・ステッカー程度の英訳で「源氏物語」や「芭蕉七部集」を読むよりは、選ばれた日本の優れた女子高校生の感受性に従った方が、はるかにまともだし、幸田露伴の考察や堀田善衛の「方丈記私記」を読むに限ると私には思える。戦争の時に暗号解読や防諜に駆り出されて、リニア発想で訓練された翻訳家たちには、カービリニアの世界の理解が難しい上に、ネイティブの感受性にはかなわないし、翻訳はあくまでも近似的なものであり、本物に接近したものに過ぎないからである。

また、後になって丸山真男と加藤周一の「翻訳と日本の近代」を読んだら、普遍語について論じた部分があったが、幾ら英語が君臨しても彼らは英語を普遍言語として扱っていないし、「文学は一種の私事」とか「今言をもって古言を解してはいけない」と薀蓄のある発言をしていたので安心した。しかも、釈迦を始め孔子やキリストにしても、最も重要な発言は著書などになっておらず、弟子や第三者が書いたものの行間を読むだけでなく、書いてないことを読み抜くところに決め手になっているのである。

だから、書かれたことや喋られたことは抜け殻であり、国語で書かれた文学などは幻影の一つで、大自然が物語るストリーの偉大さを知る者にとっては、テレビや日本のメディアの汚い日本語のせいで、日本語は既に死んでいると見切りをつけている。それは国会での討論の愚劣さからして明白だし、日本の文学作品のレベルのお粗末さは芥川賞を見れば明白であり、小説類は題字を見るだけでも目を濯ぎたくなるほどである。

しかも、喜寿を迎えようとしているのに、何が日本語の規範かが見当もつかず、「私は人間である」が主語と述語で構成されている、膠着語の日本語の文体だと思っているのに、「私は 人間である」という最近の文章を読むにつけ、何がまともな日本語か私には見当がつかないのである。

179藤原肇:2015/09/25(金) 13:38:54

20年以上も昔の話になるが、1994年1月号の「ニューリーダー」の誌上で、小室直樹博士と「意味論オンチが日本を亡ぼす」と題した対談を行った。憶えている人がいるかどうか分らないが、その時に以下のような議論を行った。

藤原:小室さんとお会いして対談するのは久しぶりで、今から十数年前に、『脱ニッポン型思考のすすめ』を出したとき以来ですね。

小室:あの頃は「脱ニッポン」なんて言うと異端者扱いだったが、今ではそういう本が続々ベストセラーになっている。最近は日本の方がおかしくなって潰れかけているが、それにしても、あの頃から今までこの国はよくもったものだ(笑)・・・・

藤原:特にここで強調しなければならないのは、潰れかけている原因が“セマンティックス(意味論)”にあり、日本人に意味論が分かっていないことだ。われわれは共にヨーロッパ派に属する日本人だとも言えるが、小室さんはやはりドイツ派で、著書の中にガイスト(精神)どかゲミュート(情緒)なんて単語が続々と使われている。ぼくはフランス派でドイツ語は口に合わないから、あんな野蛮な言葉は誰が喋るものかと思っている。だから、あなたの本を読むたびに鳥肌を立てている(笑)・・・・

小室:ドイツ語はバーバリアン(野蛮人)の言葉だという劣等感は、ドイツ人自身が抱いているんだ(笑)。

藤原:こんな話がある。フランス王が「私は神様と対話するときにはスペイン語で、人間と話すときはフランス語を操り、馬と喋るときはドイツ語を使う。犬と喋るときには英語で、若い娘にはイタリア語で話しかける」と言ったとか。ぼくはアメリカ人に「どうして英語で著書を書かないのか」と聞かれたらこの話を引用して、「犬に使う言葉で書くのは気がすすまないし、フランス語だと日本語の五倍も時間がかかり、アメリカの美徳の能率に反する」と答えると丁解する。要するに、アメリカ人は理路整然とした話なら納得するんだが、日本人は腹芸でやるし気分が先に立つ。だから、日本人は最も親密なはずのアメリカ人のみならず、世界中ともコミュニケーションができないでいる。

小室:コミュニケーションが成立していないことにさえ気がついていない。・・・・

この発言をした直後に小室さんの顔がこわばり、一分以上も横を向いて口を開かずに、不機嫌に沈黙していたことが今になると懐かしい。あの頃の私は表現が未熟だったので、あんな言い方をしてしまったが、今なら自分の言葉として「私は神様と対話する時にはスペイン語で、淑女にはイタリア語で話しかけ、マドモアゼルと話す場合はフランス語を操る。また、犬と喋るときはドイツ語を使うし、コンピュータを相手にするときには英語を利用する」と言っているだろうと思う。

夏目漱石、水村美苗、藤原肇の三人は。英語が嫌いな三角関係の日本人で、そのくせ漱石は英語が嫌で府立一中から二松学舎で漢学をやって、それからロンドンに留学して英文学者になっている。また、水村さんは米国でフランス文学を専攻しただけでなく20年以上も住んでいるし、私は高校で英語を忌避したのに、フランスではTEロレンスを読むために英文学科に入学して、アメリカに30年以上も住んだつむじ曲がりであり、言うならば英語嫌いの三羽烏みたいな日本人に属している。だから、英語の帝国主義的な君臨に対しては、それとなく反発を感じてしまうのだが、江戸っ子の私と漱石を置き去りにして、水村さんが英語を普遍語だと持ち上げたために、私は言わずもがなの発言をしてしまったのであった。これも秋の夜長の「徒然草」であろうか。

180藤原肇:2015/10/31(土) 09:49:16

ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』を読むと、ケルト族の生態にまつわることが沢山出てくるし、あれだけの名将の彼が悪戦苦戦した模様が、克明に記録されていて実に楽しい。

また、ケルト族に関しては鶴岡真弓さんの『黄金の生命』が素晴らしい内容を持つので、それに触れたいが自分で密かに楽しむのがこの本の真骨頂だから、ヨーロッパ文化の基盤はケルトにあることを指摘するだけで、読後感に関しては差し控えることにしたい。

そして、今日はハロウィーンの日であり、これはケルトの収穫祭の風習の名残で、クリスマスと同じでそれをキリスト教が簒奪して、諸聖人の日(All Hallows eve)が訛ったというが、北欧人の新年の前夜の大晦日でもある。

この大晦日は子供たちが大好きであり、Jack-0-Lanternに蝋燭をともして祝うが、海外生活を半世紀も体験した私にとっては、毎年のように私の誕生日を子供たちが可愛い声を張り上げて祝ってくれたので,嬉しい思い出が山のようにある。

しかも、大晦日から新年への境界線の意味論は、ツアラストラの巻物を読むまでもなく、善悪、白黒,陰陽、日月、正負、明暗などの特異点であり、これはトーラスで言えば空の中心でもある。

そして、私のホロコスミックス理論で空の英訳を若気の至りでというか、出来合いの言葉を使いNothingnessと書いてしまったが、本当はKuunessという言葉を使いたかったと告白したい。

だが、Kuunessなどと書くと空の説明が必要になるので、解説が大嫌いな私にとっては面倒なことになるので、お粗末だし嫌悪している直訳英語を使ってしまったのである。

それでも、私の『般若心経』の理解では色は人間の世界であり、あの盤石と信じられて来た数学の世界でさえ、公理と公準に従って天下不動と信じられてきたのに、非ユークリッド幾何学の登場で数学的な不確実性が支配し始めた。

そうなると、空は色に表しえない逆や対偶を含めた総てを意味しているので、この百年にも一兆年にも一度しかない記念すべき喜寿の日を期して、ギリシア語で何が来るかは知らないが、フランス語的に表記すればKououté になるので、そのコンピュータ言語としてKuunessという用語をお披露目したいと考えるのである。

181千々松 健:2015/11/02(月) 22:47:08

博士の喜寿を祝うと同時に「空=Kuuness」の命名に寄せて

空=Kuuness「クウネス」をカタカムナ思念で読み解くと【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。参考:吉野信子「カタカムナ 言霊の超法則」徳間書店

●を色、▲を空と考えて「色即是空」を●から逆行列的推論で▲を直観するルートとみるならば、帰納法的ルート・演繹法的ルート上には■が実体として必要で、それを「色不異空・空不異色」

と述べたのです。

そのように考えるに至った例の●▲■の超三段階論から、更に動態幾何学を駆使してイメージを働かせるならば次のようなことが見えてくるに違いありません。

0次元:先ず、創造の主すなわち御柱を真上から観ると点となるので「0次元」と呼び、空とします。 【クウネス】

1次元:次に、その御柱を真横から見て、神聖比例に分割して行きます。φ:1:Φ 【ロゴス】

2次元:次に、神聖比例そのものを数値として認識し、行と列に置き二次平面に展開させます。対角線には二乗数が観られます。【レゲイン】

3次元:次に、二次平面に展開されたものを、(mod 9)で処理して、縦横を繋げれば、循環するドーナツ状が出現する。【トーラス】

また、クウネスをカタカムナ思念の数で計算すると11+19+46+29=108の数となります。それは除夜の鐘に撞く108ですし、9×12=108でもあります。

『全ての者が0次元に引き寄せられて、神聖比例が生まれ出て、縦横に充電されて、対角線上を一方向きに進む。

しかし、決して拡散して消え去るのではなく、メビウスの輪の如く終わりも始めも無く螺旋を描いて循環し、バランスして観える』

と考察すれば、この『Kuuness』そのものが博士の考えておられる『生命智』と言えるのではないでしょうか。

2015.11.3

182藤原肇:2015/11/03(火) 16:14:26

空(Kuu)をフランス語風の発音に改めKououと書くと、語感としては鳥のカッコウ(Coucou)に似てしまい、奇妙で落ち着きの悪い言葉になり、KとCを足して二で割り、キメラで名詞を作るとKououté という変な言葉が生まれる。カッコウ(Coucou)は英語だとKuckooでスペイン語ではCucoで、この言葉はオノマトペで郭公という鳥の鳴き声から来ている。

同時にKuckoo頭がおかしい意味する俗語だが、それ以下の卑語としては頭がくるくるパーを表し、アメリカではKuckoo’s nestは精神病院を表す。だから、アカデミー賞をとった映画のOne Flew over the Cuckoo‘s nestには、痛烈な皮肉とメタファーがこめられ、精神分裂病は今では統合失調症と変名しているが、意識と無意識が同一時空に混在する症状を指している。

これからは連想ゲームになるが,その延長上に書かれた本にKuckoo’s Eggという本もあり、これはコンピュータのセキュリティを扱い、ハッカーを追い詰めるストリーだ。それにしても、コンピュータが未だ普及していない頃だったが、ハッカー問題をだけも知らない時代に、元ハッカーの手による警世の書として出たこの本には、信じられないことが沢山書いてあった。

セキュリティの問題は暗号解読と密着していて、それは素数が重要な役割を演じるが、それに関心を持ったのはカナダ時代で、『暗号解読』という本はその後に書き直して『暗号戦争の時代』という本になっている。

「宇宙の多次元構造の図」を最初に公表したのは、1984年に出した『無謀な挑戦』であり、その時に宇宙の上に宇宙システムを置き、素粒子の下にコスミック素子を置いたことで、それがホロコスミックスという私の宇宙概念の誕生を生んだ。それまでの宇宙論は宇宙から微小な素粒子で終わっていたが、宇宙は宇宙システムのサブシステムだという理解がある。

また、この宇宙システムの導入によって、その彼方にある仏教思想の空と結びつくことが出き、それがメビウスの輪で無に繋がり,道教が好む無が特異点という宇宙観として完成し、複素数空間で構成される概念図になった。

そんな模式図を著書に書いたために、いろんな声が「藤原はKuckooだ」と言ったらしいが、私はそれをCoucoutéと聞き流して、Kououté のことを言っているのだから,暫くの間は無のNothingnessにして置こうと考えて、二十世紀はCrazyな世紀だと諦めていた。

だが、誰か若い人が二十世紀が終わるまでに、アインシュタインの相対性理論に対して、その欠陥を指摘して欲しいと待っていたが、誰もそれをしてくれなかったので仕方なく、ホロコスミックスとしてまとめて国際環境大学の紀要に寄稿したら、二十世紀の最後の年にそれが活字になった。また、台湾に招かれて行った講演の原稿が、『生命知の殿堂』の中に収録されたのだが、残念ながらその図はKuunessではなくて、昔の Emptinessのままだったので、ここに喜寿を期し改めてKuunessに直すことを記録しておくことにした。

183千々松 健:2015/11/03(火) 22:46:51

11月3日の文化の日は、11を1+1=2と見ると、1,1,2,3となり、1,1,2,3,5,8,13,21、のフィボナッチ数列が思い浮かびます。

勿論、1月12日、11月2日、11月23日などの日の方が、そのものの並びで適当ではないかと思われるでしょう。

しかし、ひふみ算で11を1+1=2と計算するところが重要で、『二つを統合して次に置け』という大宇宙の法則であるフトマニのアルゴリズムを読み取ることに意味があるのです。

かつて『アレクサンドリア』というスペイン映画でテオン(ユークリドの原論を編纂した学者で、映画の主人公ヒュパティアの父)が、ある問題を出して『226の場合は4である』とサラット答えている場面があり、ずっと気になっていました。

それはまさに、2+2は4である。2,2,4,6,10,16、と言うフィボナッチ数列の倍数を考えなさいという意味でもあった訳です。

日本文化に相応しいということで、11月3日は「ふとまに数列の日」としたいと思います。

2015.11.3 文化の日に因んで

188千々松 健:2015/11/08(日) 22:00:46

<一部に重複するところがありますが、ご了承願います>

空=Kuunessをカタカムナ思念で読み解けば【引き寄せる 生まれ出る 充電される 一方向へ進む】となります。

『全ての物事が一度、引き寄せられて(0次元)、次に黄金分割され神聖比例が生まれ出て(1次元)、99算表の如く縦横に展開、充電されて(2次元)、マトリックスの対角線上を一方向へ突き進み増殖するが、

法を9とするモジュラー算術により、メビウスの輪の如く終わりも始めもなく、陰陽太極図のような二重螺旋を描いて循環するトーラスとなる(3次元)。』

ここまでが Kuuness「クウネス」をカタカムナを活用して拡大解釈したものです。

次元に関して言えば、これらに時間を加えて5次元世界といえます。(0次元もカウントします)

そして、コンパクト化される6次元を加えると超ひも理論やM理論で云う11次元世界に相当するでしょう。

そのコンパクト化される6次元を説明するためのヒントは『オイラーの合同式の定理』のなかに在ります。

【 n^6≡1(mod 9)】 但し nは3の倍数でないとき、nが3,6,9の場合は右辺は全て0となる。

3の倍数ではない整数の6乗数は、9を法とするモジュラー算術(9に特別の意味を持たせた、ひふみ算・カバラ算に同じ)では、全てが1となる。

このように考察を進めれば、藤原肇博士の『Kuuness』は万物理論になり、アインシュタインを凌駕して、まさに「神の数学」に出会うことになるのです。

2015.11.8

237藤原肇 :2016/02/14(日) 14:32:54

一か月余りにわたり書き込めなかったのは、喜寿の新年を迎えたのを契機にして、幾何シャーマンの故地を訪れていからだ。「人生交響曲」の最終楽章のために、これまで訪れないで残して置いたが、昨年の夏にイランの南部に行き、ペレスポリスやイスファファーンを訪れた。こうして、中東の古代の遺跡に踏み込み、途中でペトラに行く計画まで作って、アレクサンダー大王を身近に感じ、古代史が身近なものになってしまった。次に喜寿を迎えた今年になると、古代巨石文明の原点に位置している、エジプトに残る遺跡を訪れることで、宇宙から地上に降りて大地の霊気を吸い、長年の懸案を確認したいと思い立って、この漂泊の道に踏み出すことになった。

まず、ギザに座すスフインクスの岩体に触れ、問題である風化の状態を観察し、この石像が1万500年前の豪雨によって、浸食を受けたのかについて調べ、ついでに数時間ほど瞑想した。その影響のせいだったのか、翌日は物凄い砂嵐に遭遇し、ホテルから一歩も外に出られなくなり、外の世界と繋がるWifiを頼りに、「宇宙巡礼」のこのサイトを開き、「最近読んで印象的だった本」を最初から、最近に至る全部の記事を読んだ。そうしたら、印象としては既視(デジャ・ビュ)感覚を伴い、どこかで見た懐かしい気分がして、これは『ゲーテとの対話』で味わった、エッカーマンが描いた雰囲気に、見事に対応した相似象だと閃めき、二十数年前に知り合った人の言葉を思い出した。

その人は出版社の元編集者であり、彼は独自の構想で私の発言を集めて、『驕りへの紙つぶて』という本を企画し、会社に提案して却下された経験を持っていた。彼は私の本は一冊も作らず、出す工作はいろいろと試みてくれ、結局はすれ違いで終わったが、別れる時の言葉が印象的だったので、それがカイロ滞在の私の頭にふと蘇って来た。

「エッカーマンの『ゲーテとの対話』みたいな形で、原稿を作ってくれる日が来たら、それを本にするのが私の夢です・・・」

その言葉には忘れ難いものがあり、「掲示板」のスレッドを読んで、既視感覚に包まれて呆然とした私は、E-mailのフォルダーを探しまくり、「ゴミ箱」や大量の情報倉庫を開き、彼のアドレスを探し求めて、やっと発見して手紙を書いた。

「今カイロにいるがスフインクスのお蔭で、君の夢が実現するかも知れないので、『宇宙巡礼』の『掲示板』の中にある、『最近読んだ印象的だった本』のスレッドを開き、1」から180)までを熟読して欲しい」と書いた。そうしたら、ルクソールに滞在している時に、彼から共鳴する返事が届き、「後半部で増えている数学理論と、藤原さんの回顧的なものは、難しすぎる内容のためにカットして、別の形で生かした方が良いし、本として纏まりが良くなると思う」とあった。この件はスフインクスの神託ではないにしても、興味深い体験だと思うのだが、果たして皆さんはどう考えますか。

また、この旅に持って出た『不確実性の数学』は、ナイル川のクルーズ船のサンデッキで、ルクソールからアスワンに至る徒然の旅の時間を使い、楽しく読み終えることが実現したのである。

238千々松 健 :2016/02/15(月) 23:32:52

何と共時性なのでしょう。2月13日に吉野信子先生のカタカムナ講座の前座で「フィボナッチ数列ヒフミ99算表」誕生話をし、二次会の際にある参加者から「宇宙の扉を開く50の鍵」(ダイアナ・クーパー他著)という本のあるページを見せられました。

それはピラミッドとスフィンクスとシリウスに関する箇所でした。直観したのは無機質で機械的なピラミッドと有機質で生命的なスフィンクスの好対照が、金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅に相似象になるということでした。

興奮冷めやらずに帰って来たところ、今度は藤原博士の中東・エジプト探索の話を拝見したわけです。

ビックリでしましたし、ピラミッドばかりではなくスフィンクスにも注目が行かざるを得ません。

***「ゲーテとの対話」風、編集者に恵まれ善いものが産まれる予感がいたします。

2016.2.15

248千々松 健 :2016/03/07(月) 23:29:21

「ピラミッド5000年の嘘」のフランス人映画監督のプーヤール氏の最近のFB画像から解くと、ギザの3大ピラミッドとスフィンクスの位置関係には、やはりフィボナッチ数列と黄金分割が関係しています。

1,1,2,3,5,8,13のフィボナッチ数列で、スフィンクスの長さを1とすれば、大と小のピラミッドの南北の底辺の距離が13になっています。

また、オウムガイの様に平面展開した枠の中で見ると、東西南北を黄金分割した中心にスフィンクスが位置していることも判明します。

ブラボー! これぞ藤原肇博士の『スフィンクスの神託』のシンクロ版です。

2016.3.7

250千々松 健 :2016/03/10(木) 21:48:19

【最重要事項】

藤原肇博士の「スフィンクスの神託」とは何か?

・・・私の答えです。【スフィンクスこそが1であり、ロゴスを示唆していた】

私たちは 1,1,2,3,5,8,13、、、のフィボナッチ数列のみで思考するところから卒業しなければなりません。

それは「黄金比ふとまにアルゴリズム」を提唱している者としての責任でもあります。

引用しましたプーヤール氏の最近のFB画像は実は近似値でしかなく、作図と実物とは若干のズレが生じています。

古代の設計者は【φ,1,Φ,Φ^2,Φ^3,Φ^4,Φ^5、、、】という黄金比フトマニ数列を使用していたのです。

そして、スフィンクスの長さを1の単位とすれば、大ピラミッドの北底辺と小ピラミッドの南底辺を挟む南北の距離はΦ^5≒11.09になります。

更に、スフィンクスの前(東側)には長方形の台が残されていますが、正面の右側部分は大きく破壊されています。その長さがスフィンクスと同じく1に相当します。

中央少し左側にトンネル通路がありますが、それから左側部分がφ≒0.618に相当しています。もちろん長方形そのものが南北/東西=Φ≒1.618になっています。

顧みれば【φ:1:Φ】の「三つの数の比」はロゴスの語源ですから、ロゴスがスフィンクス周辺に在った訳です。

ギザの大ピラミッドとスフィンクス周辺のグランドデザインをした者が誰かは謎ですが、黄金分割をマスターしていたに違いないのです。

東西・南北を黄金分割した中心にスフィンクスが位置するのは重要なポイントです。

いずれは誰かが、現地で実測して、これらを証明してくれることでしょう。それは日本人か、フランス人か、宇宙人?でしょう。

https://www.facebook.com/312309982163991/photos/pb.312309982163991.-2207520000.1457613725./1018110201583962/?type=3&theater

2016.3.10

253千々松 健 :2016/03/15(火) 23:43:17

【カタカムナ思念で読み解くピラミッドとスフィンクス】

ピラミッド=三角形の中心を根源とする場

スフィンクス=スピンクス=一方向に回転して引き寄り通す

初めは何を意味しているのか判りにくかったのですが、両者をセットで考えると善いのです。

また、大ピラミッドはクフ王に関係していますから、クフ=引き寄り増えると読めます。

考察結果は以下の通りです。

先ずピラミッドは黄金比を象徴し、黄金比の増加は【黄金比ふとまにアルゴリズム】に繋がります。

黄金比ふとまに数列はルカ数列に近似しますが、フィボナッチ数列も親戚とみて善いでしょう。

スフィンクスは回転渦のセンターを表現していて、ブラックホールないし、逆回転のホワイトホールなのです。

ギリシャ語ではスピンクスですが、エジプト語ではアブルホールと呼んでいるそうですから、正にホールを示唆していたのです。

神聖数理学的にはク=9ですので、更に発想を広げます。

スフィンクス≒ブラックホール・Φ・9・ホワイトホール

トーラス=統合・場・通す とカタカムナ思念で読めるので、真ん中に通す穴があるドーナツ様になる訳です。

また、陰・陽はイ・ヨ=5・4ですから、5+4=9=0で(mod 9)に通じます。

2016.3.15

254千々松 健 :2016/03/15(火) 23:44:39

『博士 ギザの台地こそが生命知の殿堂=The Hall of Cosmic Wisdomであったのですね!』

藤原肇博士の『生命知の殿堂』の英語タイトルは確か『The Hall of Cosmic Wisdom』でした。

喜寿を迎えた博士が尋ねられたピラミッドとスフィンクスの場=「ギザの台地」を想えば、

コザト偏すなわち陰陽(他に院・陸・隠など)に使用される漢字の意味とおり『盛り土、段々、丘、山などと関係あるコト』になります。

陰陽太極図(トーラス)に繋がらざるを得ません。

2016.3.16

255千々松 健 :2016/03/16(水) 22:32:26

<HallとHoleの違い>

千々松さんチョット待って、「ホール」でも二通りのスペルがあって、意味は違うよとの声が聞こえそうです。

確かに、ブラックホールのホウルの方はHoleで穴の意味ですし、殿堂のHallは広間の意味です。

スフィンクスのアラビア語はアブ・ル・ハウルですから、エジプト語のアブルホールのホウルは穴の方です。

アブルハウルは【生命が増えたり減ったり、引き離れたり引き合ったりするが、留まって見えるところ】と【カタカムナ思念】では読解されます。

そして更に私的な解釈を加えるならば、それはブラックホールの入り口であり、ホワイトホールの出口でもあるということです。

また『生命知の殿堂』にフランス語の「パンテオン」を表記されたことが思い出されます。

パンテオンは【強く引き合い、発信放射する、大変深いところ】というのが【カタカムナ思念】の直訳です。

従って、陰陽がゼロ点の特異点で渦を巻いてカミ(神)合っているところのイメージです。正に「パンテオン=万神殿」でもあるのでした。

藤原肇博士の『Kuuness』万物理論の象徴に相応しいモノが『大スフィンクス』だと私は今、確信いたしました。

2016.3.16

257千々松 健 :2016/03/20(日) 23:31:30

春分の日と秋分の日に限って、「ギザの大ピラミッド」の四面の斜面の中央に縦の線が現れて八面に観られるといいます。微妙な光線の為せる業です。

ところで、日本書紀に書き残された「八紘為宇(はっこうゆ(い)う)」をカタカムナ思念で読むと「引き合う、集まる、転がり入る、生れ出る、湧き出る(伝わるもの)、生れ出る」となり、トーラス・陰陽太極図のイメージとなります。

これらを、真善美の神聖数理学で解釈すれば【0から8までの数が書かれた4本のメビウスの輪が組み合わされて、宇宙は生まれている】となります。

すなわち【FMn≡FLKMchain(mod 9)】*という【黄金比ふとまにアルゴリズム】の登場です。。

*【神聖比例(黄金比Φ)を生じるフトマニ(二つを足して次の間に置く)数列群FMn(フィボナッチ数列はその中の特例)は、法を9とするモジュラー算術(mod 9)で数理処理すると、全てが24項で循環する4つの数の流れ(FLKM系列)のいずれかと合同になる。】

2016.3.20 春分の日に因んで

258千々松 健 :2016/03/20(日) 23:34:04

"If you want to find the secrets of the universe, think in terms of energy, frequency and vibration." Nikola Tesla

「もしも、あなたが宇宙の秘密を解き明かしたいのなら、エネルギー・周波数・振動の関係を考えなさい」 ニコラ・テスラ

アインシュタインの【 E=mC^2】:エネルギーは質量×光速度の二乗に等しい。

この有名な式に【m^2 /q^2=Φ】質量の二乗と回転速度の二乗の比が黄金比に等しいを代入し、整理すると

【 E=√ΦqC^2 】:エネルギーは黄金比の平方根と回転速度×光速度の二乗に等しいとなりますが、

これは宇宙物理学者ポール・ディヴィスの回転ブラックホールの理論です。

【大ピラミッドの三つの比 1:Φ:√Φ=底辺の二分の一:斜面の長さ:全体の高さ】

【スフィンクス≒ブラックホール・Φ・9・ホワイトホール】

このようにして、ピラミッドとスフィンクスを統合して観察するならば、ニコラ・テスラの云うような宇宙の秘密を解き明かすためのエネルギーの公式が浮かび上がるのです。

2016.3.20

260千々松 健 :2016/03/22(火) 23:43:19

この『宇宙巡礼』を通じて、藤原肇博士から黄金比やフィボナッチ数列が宇宙の法則であるに違いないこと、また、カタカムナや古代巨石文化に注目することの大切さを教わって来ました。

そして、2016年は正にそのコトがハッキリと理解されました。カタカムナを育んだ日本列島の縄文時代を想うと、これから『ジャパン・ルネッサンス』が起こる可能性を強く感じるのです。

「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日がイースター」で、今年は3月23日の今日が満月に当たり、27日が復活祭です。

言霊と数霊のコラボをすれば、イースターは(1+√5)/2に通じ、27は22-77のルカ系列に通じます。

これは「黄金比ふとまにアルゴリズム」を示唆していることになりますから、私もビックリです。

2016.3.23

261千々松 健 :2016/03/23(水) 23:44:27

フトマニは通常「太占」と漢字で書かれて来ました。太は「宇宙」を意味しますから、その占いは専ら「占星術」に変容して行ったのかも知れません。

しかし、カタカムナ思念からすれば、フトマニには科学的・数理学的な意味があるのです。

ヒフミヨイムナヤコト=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10の読み方からすれば、フトは2・10です。

今「フトマニ=二つを足して次の間に置く」に従えば、2、10、2+10=12、10+12=22、12+22=34、22+34=56、34+56=90、56+90=146、90+146=236、146+236=382、236+382=618、382+618=1000、618+1000=1618

数列の13項目目には1618が現れ、その前の1000との比は1.618となり黄金比が出現していることが判ります。

初項が2、第二項が10の場合の広義フィボナッチ数列で、判り易い【0.618:1:1.618】の【三つの数の比=ロゴス=論理=言(ことわり)】が綺麗に観察されるというわけです。

そして、2,10,12,22,34,56,90,146,236,382,618,1000,1618、の数列を「フトマニ数列」と定義します。(初項、第二項を任意としたものは「フトマニ数列群」と定義済みです)

このフトマニ数列をひふみ算で処理して一桁化すると【2,1,3,4,7,2,0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8】24項で循環するルカ系列になり、その特徴が22-77です。

「黄金比ふとまにアルゴリズム」が『万物創造のアルゴリズム』に為ると考えるならば、「順序+逆序=秩序」と考えて来たコトとも矛盾しないのです。

2016.3.23

262千々松 健 :2016/03/27(日) 22:23:13

<イースターに因んで>

聖書のヨハネ福音書とヨハネ黙示録に登場する数字を小さい順に並べてみます。

1,2,3,4,6,7,10,12,24,42,46,666,1000,1260,5000,7000,12000,144000などです。

この中には5,8,9,11,13が見当たりません。13はキリスト教では忌み嫌われているのは解りますが、それ以外は不思議です。

特に一桁の5,8,9が登場しないのは何故でしょうか? 何かイワク付きなのでしょうか?

私なりに推論するならば、5はピタゴラスを嫌って、8と9はヒフミ算やカバラ算を嫌ってのことだと思われてなりません。

ただし、666、1260、144000などはヒフミやカバラ算では9=0ですから、裏では意識していたのでしょう。

大スフィンクスと大ピラミッドを『黄金比ふとまにアルゴリズム』として統合理解すれば、

φ,1,Φ,1+Φ,1+2Φ,2+3Φ,3+5Φ,5+8Φ,8+13Φ,13+21Φ、、の1が大スフィンクスの長さで、3+5Φ≒11.09が3つのピラミッドの南北の底辺を囲んだ長さに相当します。

この数列をよく観察すると、1,1,2,3,5,8,13,21、というフィボナッチ数列が読み取れます。もちろん大ピラミッドの構造に黄金比が内蔵されているのは周知の事実ですね。

ついでに、ヨハネは48音と読め、それがカタカムナ48思念ではないかと吉野信子さんから伺っています。

2016.3.27

263千々松 健 :2016/04/01(金) 22:43:48

「黄金比ふとまにアルゴリズム」に登場するアルゴリズムについて補足説明いたします。

Algorithm=言葉そのものの元は9世紀のイラン人数学者アル=フワリズミの名に由来するそうです。

「ゼロの概念」を産んだインドからアラビアに伝わった0から9の算用数字を用いた筆算のこと。

アルゴリズムとはコンピュータの世界では、計算を行うときの「計算方法」のことですが、

ごく一般的には、何か物事を行うときの「やり方」ないしは、問題を解決するための「手法」と言えましょう。

ご婦人向けには料理の「レシピ」と説明したほうが判り易いようですし、

最近では『システムを組み立てる方法や手順』という説明が気に入っています。

また子供向けの「アルゴリズム行進」や「アルゴリズム体操」をテレビで観ましたが、動作・作法といった動きの概念が大切なことが解ります。

2016.4.1

264千々松 健 :2016/04/03(日) 15:57:50

4月2日は不思議な共時性がありました。

7年前に鎌倉に居ました時期にお世話になった漢方のT先生の跡を継いだO先生にお会いし、守谷に3年半いました時期に、家内がお世話になった銀座のK先生を思い出し『間脳幻想』を読み直そうと書棚から出したこと。その夜のTV番組でストレスは多少あったほうが善く、ストレスが悪いと思い込むことをしないで、ストレスと仲良くすることが肝要なことを取り上げていたこと。そして、それはOリングの生理に繋がることだと気が付いたことです。

そうして何と『藤井先生の思想が結集した『間脳幻想』から、『生命知の殿堂』に至る生理論』の文の含まれた藤原肇博士のレス書き込みに出会ったのでビックリしました。

「間脳幻想」「宇宙巡礼」「生命知の殿堂」の流れにある生理論すなわち生命智の探求路線は、「21世紀マンダラモデル」「超三段階論」「黄金比ふとまにアルゴリズム」の万物創造論へと繋がっています。

「政治の病理」と「自然の生理」とを重ねて相似象に捉える視点が今後はより大切になると思われます。

『小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す』更には<超医は世界を癒す>と言えましょう。

265千々松 健 :2016/04/03(日) 22:38:21

●▲■『真善美と神聖数理学』の中核をなす『未来を変える方程式』すなわち【FMn≡FLKMchain(mod 9)】は、

無限連続数学から有限離散数学への転換を促すものとなるでしょう。

そして、哲学と数学と自然科学や宗教までをも視野に入れて、新たな解釈と理解がそれぞれの分野で為されるべきです。

喜寿を迎えて藤原肇博士ご自身が命名された『Kuuness』の概念は万物理論に繋がります。

そして、その実体・実在・原因・構造を説明しているのが●▲■の中の■である【FMn≡FLKMchain(mod 9)】に他なりません。

1)ロゴス▲真 2)レゲイン■善 3)トーラス●美 と把握すれば、2次展開のレゲインの善(行為)が重要です。

それは、ゲーテが「ファウスト」の中で強調した行為の重要性に意味論的にも重なるのです。

2016.4.3