里地里山

里地里山の文化:メカイ製作技術が東京都指定無形民俗文化財(民俗技術)に指定

八王子由木メカイの会が継承・保護する南多摩のメカイ製作技術技術が東京都指定無形民俗文化財(民俗技術)に選ばれました。(2023年2月15日発表)

メカイは、文字で表すと「目籠めかご」と表記され、多摩地域の里山で自生する篠(=アズマネザサ)の表皮を薄く剥がしたものを編み上げる六つ目の籠で、江戸時代から製作されてきました。農作業や家庭の炊事用など日常生活用具として重宝された他、都市部の商店や料亭に出荷・販売することを目的として製作されました。

特徴の一つは、メカイ包丁を製作に使用すること。二つには、芸術的な完成度は求められていなかったので、訓練すれば皆が作れたこと。三つには、材料の篠を乾燥させずに青いまま使うことです。当地のメカイは主に正月の年賀用として使われ、青い方が好まれたためです。

由木地区にある宮嶽谷戸

重要里地里山500に選定されている多摩丘陵(由木地区)

宮嶽谷戸_里地里山-a2.pdf

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里地里山の多様な生物

里地里山_生物_20230428.mp4

宮嶽谷戸の植物(2022.6)

冬の里山探検隊 in 堀之内  2022.1.29

コロナのために中止となりました。3団体協議会による里山の保全活動は実施されました。

由木の歴史と寺社の由来  

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古代

 現在の八王子市域には有史以前から人々が暮らし、その遺跡が浅川およびその支流付近の段丘面にあります。由木地区には現在の堀之内・芝原公園あたり(大栗川の北側の段丘)に縄文時代前期(約6,000年前、中期(約4,800~4,000年前)の遺跡があります。およそ1万年前から縄文時代にかけては間氷期で地球全体が温暖でした。由木では木の実や動物を採集・狩猟する生活が営まれ、段丘で陽当たりがよく 谷戸をながれ下りる水も得られる場所に大きな集団で定住し また移り住んでいたのでしょう。世界に眼を転ずれば、およそ1万年前の温暖期に農業(や牧畜)が発明され、5,000年前には都市文明が始まっています。北部九州への渡来人による水稲農業の伝来とその東進は縄文時代後期から始まり、縄文人は弥生人へと同化していきます。農業は、単に農業技術にとどまらず、それに付随して 高度な文化・宗教、社会・政治的なしくみを要求します。農業による生産力の増大は、社会の階層を分化させました。集団間の戦争もおこり、環濠をめぐらして防御された集落がつくられました。そのなかから多くの国があらわれ古墳をのこし、その後 大和王権による全国的な支配へと進みました。

 大和王権の支配下に由木地域が組み入れられると、武蔵国(東京都、埼玉県 および神奈川県の一部)の多麻郡(現代の用字では多摩郡)となりました。武蔵国の国府は由木からは多摩川をはさむ武蔵野台地の南端の府中に置かれました。高麗川や新座などの地名に残るように、先進的な技術をもっていた渡来人の集団は武蔵国にも展開しました。由木地区でも御殿峠一帯に多くの窯跡や高温で焼成する須恵器のかけらが発掘され、国分寺の瓦など硬質の須恵器を焼く先進的な窯の遺跡がみられます。焼成には多くの燃料を要し、窯の近くの木を使い尽くすと別の場所に窯を作ったのでしょう。931年(延長9年/承平元年)に勅旨牧に指定された小野牧(おののまき)は由木付近ともいわれています。「牧」は軍用馬を牧畜して中央の官に収めるという律令の制度のひとつです。

 平安時代後期(12世紀)には 天皇を頂点とする律令制が崩壊して、有力者が開墾土地を私有した荘園制が発達しました。中央の貴人や寺社の権威のもとに荘園が寄進され、その庇護のもとに各地に割拠する有力者・武士団が経営していました。関東各地で形成された武士団である武蔵七党のひとつである横山党が八王子地域を支配しました。横山党は古代氏族小野氏の末裔を称した小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町あたりに横山荘という居館を構えました。横山党の一族には由木・田名・海老名・平山などの武士がいました。それらは 由木を含めて、八王子周辺の地名に残っています。ただし由木の名の由来の説には楮など繊維を利用する木の多かった地域とするなど別の説もあります。


中世

武士階級が全国的な権力を掌握した鎌倉時代に入ると、横山党の勢力は和田合戦(1213年)以降衰退しました。13世紀には鎌倉幕府の重臣大江氏の一族である長井氏や、執権北条氏の一族の支配が八王子・由木に浸透してきました。室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家の配下の大石氏が武蔵西部に地盤を築き、八王子市域一帯を支配するようになりました。

15世紀末から始まる戦国時代は、各地の有力者が争い、中央の権力による統治が困難となった時代です。16世紀前半に南の相模国から北上してきた後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力をのばし、大石氏もその圧力を受けました。1546年(天文15年)、山内・扇谷両上杉家が河越(近世以降は川越と表記)夜戦(1594年)で北条軍に敗れると、大石氏は後北条氏のもとにはいり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えました。

北条氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城にかまえていましたが、1584年(天正12年)ごろ、滝山城の西南にあたる深沢山(現在の城山)に新城を築城しました。城の山麓に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現(はちおうじごんげん)」があり、これを城の鎮守として八王子城と名づけました。この城名が市名の由来です。


近世

豊臣秀吉による天下統一と全国への支配の浸透は、江戸幕府機構の確立により天下泰平の世へと移ります。その間、1590年(天正12年)、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏照以下、その主力は小田原城に入りました。八王子城は上杉景勝・前田利家らの北陸勢の猛攻により落城しました。その後小田原城が降伏し、北条氏照が兄の北条氏政とともに切腹すると、没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられました。

徳川家康は八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領としました。八王子には武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめ、この地方の開発を担当しました。大久保長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに旧八王子城城下の住民を移住させました。

1650年代(慶安3年-万治2年)までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町ができました。また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕し、日光警護などに下級の武士として軍役を課す八王子千人同心としました。

八王子宿への代官の駐在は1704年(元禄17年/宝永元年)に廃されました。八王子宿は幕府直轄の天領でしたが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的な領域支配は行われていませんでした。

江戸時代には太陽活動が長期にわたって低下したことから気候が寒冷化し、世界の各所で飢饉が頻発しました。近世後半には全国的に生産力の増大がみられ、なかでも米などの貢納用作物のほかに商品作物の栽培が増加しました。江戸時代には武士による政治的な支配がなされたのですが、社会・経済的には市場経済への転換のもと 農村では階層分化がすすみ 多くの土地を所有し商業活動もおこなうこともある「豪農」がうまれました。また江戸をはじめとする都市が発展し 町人がになう商品経済・文化が江戸時代早期から発展しました。八王子宿を中心とする周辺の村々では、主に絹の原料となる蚕の飼育やその飼料となる桑、あるいは茶など商品作物の栽培、目籠などの農芸品の生産がさかんになされて商品経済が浸透し、近代への移かわりを準備しました。


八王子から横浜にいたる絹の道

 幕末期、横浜開港により絹が主要な輸出産品となると、八王子は生糸・絹の一次生産地として、また関東各地から横浜へ送り出す輸送の中継地として栄えました。鑓水商人は絹の交易で利益をあげるばかりでなく、由木地域での養蚕も取り仕切りました。

 1865年にはじまる慶応年間、武州一揆や長州戦争など社会情勢が不穏になると、幕府は八王子陣屋の再設置を計画しました。幕府は、相給地の私領を整理して多摩郡の宿村をすべて幕領とし、村落支配を一元化することを試みましたが、陣屋の設置による代官の交代と、引き継ぎに伴う混乱を嫌った八王子宿その他多摩の村々の反対により、実現せずに1868年の明治維新を迎えました。


由木にある寺や神社の由緒


由木城跡・永林寺

由木城の「由木」は平安後期(12世紀)の荘園を支配した横山党のひとつである由木氏に由来するともいわれます。15世紀より山内上杉氏の配下であった大石氏がこの地域を支配・経営していました。由木城は大石定久が家督を相続する1527年までの居所でした。大石定久が滝山城に移ると、由木城は叔父の一種長純大和尚に譲られ永林寺が開山され、道俊院心月閣と称していました。

1546年に上杉氏が河越夜戦で敗れ 後ろ盾を失った大石定久は 北条氏から北条氏照を養子として迎えました。北条氏照は七堂伽藍の完備した大禅寺を建立し、永麟寺(三つ鱗は北条氏の家紋)と改名されました。

天正15年(1587年)豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけて在位した後陽成天皇から綸旨を賜り、護国禅寺となって皇室の勅願寺となりました。天正19年(1591年)に後北条氏が小田原城で破れ、その所領は徳川家康に与えられました。徳川家康は江戸城にはいった翌年に永林寺を巡拝しました。朱印十石、公郷格式拾万石を徳川家康は永林寺に授け 寺は大名寺院となりました。家康は「名に負う、永き林なり」と賞賛し、寺名を永林寺と改名しました。これらにより、寺の紋は三つ銀杏(大石)、三つ鱗(北条)に加えて、五三桐や菊(皇室)や葵(徳川)の紋が門や屋根瓦などに使われています。地域の末寺18寺(明治の廃仏毀釈により10寺)を統べる寺となっています。


玉泉寺

室町時代前期、南北朝時代の永徳3年(1383年)足利義満の頃に法印賢海が開基したといわれています。江戸時代元禄年間、火災に遭いましたが、土屋但馬守(土屋政直:1698年より老中首座 1719年まで、徳川吉宗などが将軍の時代)の寄進を得て、元禄八年(1695年)に本堂を再建、中興したと伝えられています。元禄時代は町人による経済・文化が盛んになり、由木でも農村への商品経済の浸透が進んだとおもわれます。玉泉寺は真言宗智山派の寺院です。越野の鎮守山王社(今の日枝神社)の御朱印を拝領しその別当を兼ねていました。


越野日枝神社

創建年代等は不詳ですが、天正18年(1590)の棟札が残されているといいます。別当寺の玉泉寺の開山法印賢海が永徳3年(1383)であることから、玉泉寺開山と同時に祀られていれば永徳3年(1383)以前の創建となります。江戸期には3代将軍 徳川家光より社領6石の御朱印状を拝領していました。

日枝(ひえ)神社の名称は比叡山(ひえいざん)の山麓の守護神(神仏習合神)に由来します。土着の信仰の対象である神と文明の成立のもとでおこった普遍宗教のひとつである仏教が融和していた神仏習合は明治維新後の国家神道化により神仏分離、廃仏毀釈がおこりました。


武相十三番聖觀世音札所

越野日枝神社の下にある越野自治会集会所へ本尊が祀られています。廃寺となった導義寺観音堂の本尊としてあった室町時代の作といわれる観音像は金属製の宝冠・胸飾りをつけ、手は腹前で禅定印を結んでいるそうです。裳が蓮台にまでかかっている宋風のつくりであることから、「もかけの観音」と呼ばれています。


参考:石高制

一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当します。石高×年貢率が、その時の権力から「安堵された」徴税者が得る米の量です。寺社への朱印状にある石数が 寺社に与えられる石数そのものであるのか、寺社には年貢率をかけた米の量が入るのかは調べないとわかりません。「公郷格式拾万石」というのは 実際にその寺に与えられる米の量というよりは 寺の格を示すものと考えられます。

石高が実際に意味をもつのは「米本位制」であった江戸時代初頭までであり、その後の商品経済の発達・浸透により 実効的な意味は失われました。

明治39年(1906年)の地図にみられる由木

江戸時代中期より由木でもカイコや竹細工などの商品をつくる農林業が発達しました。はじめて近代的な測量地図がつくられたのは明治15年(1882年)です。明治39年作成の地図では 田や桑畑がどのように広がっていたのかがわかります。地図の水色のラインが大栗川などの川、緑色が田、黄色が桑畑です。 

その後の地図をみると、昭和5年(1930年)では 田や桑畑は明治とさほど変化がありません。由木では 稲作と養蚕が盛んであったことが読み取れます。ところが、第二次世界大戦後の昭和29年には桑畑の面積は大きく減じました。戦争直後やこの時代の航空写真をみると、「里山」に広い面積で大きな木の林があるのをみることはできません。

昭和50年(1975年)の地図では商品作物を栽培する畑がたくさん出てきます。地図には示されていませんが、酪農も明治中頃から盛んにされてきました。また、当時は多摩ニュータウン開発が緒についたばかりで愛宕地区や永山地区に団地が建ち始め頃で、由木地区では開発が始まっておらず田んぼや野菜畑に加え丘陵地斜面に桑畑が沢山ありました。大栗川はまだ下流部分に限られますが 川筋を直線にする治水工事がされています。

平成5年の地図では まだ由木地区に田や畑は残っていますが、宅地開発が各所で行われて地形が大きく変わり、京王相模原線や多摩ニュータウン通り、尾根幹道などがとおった様子が見られます。


参照

八王子市の歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

しもゆぎだより

http://simoyugi.web.fc2.com/

由木の博物館

http://www3.tnt-net.co.jp/ossan/yugi/

八王子の里地里山にはクワが多くあります。明治から昭和初期にかけて養蚕・生糸生産は急速に発展して、その期間 生糸の輸出額は総輸出額のおよそ半分を占めていました。八王子は横浜から輸出する生糸の集散地として 群馬と並びシルクでさかえた地域です。クワの樹皮から作る和紙は このような八王子の歴史を思いおこすものです。

桑都八王子のクワ

 八王子の里地里山では、江戸時代に商品貨幣経済が浸透するなかで 養蚕や生糸、絹織物の生産が盛んになりました。初めは座繰機による製糸が家内制生産でなされていました。米国の南北戦争後の経済成長による絹織物の需要の増大と フランス・イタリアの養蚕が微粒子病の蔓延により一時壊滅したこともあって、江戸時代末期から明治時代には生糸の生産と輸出がさかんになされました。機械による織りでは糸の品質への要求が厳しく、製糸も水力や蒸気機関により駆動される機械を使い 工場制生産されるように変わりました。

 明治初期1872年には明治政府により富岡製糸場がつくられ、昭島でも、明治中期には民営の製糸工場がはじまりました。生糸の生産や輸出は1930年までに急伸し、日本からの品目別輸出額ではずっと1位で、日本の資本蓄積と産業社会の近代化(殖産興国)に寄与しました。第二次世界大戦により生糸の輸出はほとんどゼロとなりましたが、その後回復し1970年に戦後の生産量のピークを迎えました。合成繊維なども発達し、国内の養蚕はその後どんどん減少して2000年にはほとんどゼロとなり、農水省のカイコ・シルク研究・試験部門もまた終焉したのです。

絹と武士:ハル・松方・ライシャワー(1986)より

農水省資料

 新宿御苑は明治5年(1872年)に開かれた大蔵省租税寮勧業課の内藤新宿試験場の跡であり、そこには蚕業試験掛も置かれました。日野には養蚕試験・研修の分室の遺構があります。府中に農学部、小金井に工学部のある東京農工大学は、それぞれ養蚕と紡績・織物機械が重要なテーマの教育・研究機関としてはじまりました。小金井キャンパスには、シルクについて各種機械が動態展示されている科学博物館があります。

 由木地区での養蚕をみると、1961年では農業生産高のなかで断トツに多いのは酪農・畜産でしたが、養蚕は2位で、稲よりは多い額でした。日本で全国的に西洋式地図が初めて作られたのは1882年(明治15年)でした。土地利用の表記が加えられた1906年から1930年の地図を見ると、由木地区の丘陵の多くは薪炭林として使われ その裾の水田適地以外の部分の広い面積が桑畑であることがわかります。一人分のシルク衣料を作るには60m2以上のクワ畑が必要です。1954年の地図では桑畑は小さなパッチ状となり、面積は大きく縮退しました。 

 その後、ニュータウン開発により宅地が増え、人口は20倍に膨らみました。由木地区環境市民会議のウェブサイトのマップのページから明治から平成にかけての地図をダウンロードすることができ、レイヤー構造になっているPDFファイルのレイヤーを指定すると、由木地区の特定の部分の各年代の地図について 任意の尺度で比較・表示することができ、時代の変遷をたどれます。 

 ところで、横浜の港への生糸の輸送には国道16号線、そして八王子・横浜間に敷設された横浜線が利用されましたが、それまでは片倉・鑓水・橋本を経由するルートを馬が運びました。いまでも「絹の道」が由木地区の鑓水にのこります。

 由木地区のかつての桑畑の周囲には 鳥が種子を運んで自生したクワが広く散在しています。の写真は由木地区堀之内にのこる桑畑で、カイコの飼育にクワの葉をわけていただいています。桑畑のクワは  冬に当年枝が刈り取られ、次の養蚕シーズンにむけて準備されます。

 この当年枝の樹皮から 次のようにして 和紙を漉くことができます。和紙の原料にはコウゾの樹皮がよく使われますが、コウゾとクワはともにクワ科の近縁の種です。葉の形などよく似ていますが、花や実を見るとどちらかがわかります。カイコの幼虫は特有な苦味のあるクワの葉は食べますが コウゾは味が異なるので決して食べることはありません。


和紙の作り方

 クワの枝を1時間ほど煮て樹皮を柔らかくします。ナイフで切れ目を入れてから 樹皮を剥がします。スクレーパーにより 煮たばかりの樹皮の外側の黒皮を除き、一番内側の白い靭皮のみにします。写真の皮をはいだ枝の右にあるのが乾かした靭皮です。

 紙漉きをするには、炭酸水素ナトリウム(重曹)2%でアルカリ性とした溶液で1時間ほど靭皮を煮ることにより、靭皮のなかで繊維と繊維の間を接着し固めている物質を溶かしだします。煮えた樹皮を叩いて繊維をばらばらにしたあとで 繊維の束を5mmほどの長さでハサミにより切断し、さらによく叩きます。

 これを水に入れ、よく繊維が分散するようにハンドミキサーを使って念入りに撹拌します。紙漉きをする水槽のなかに繊維懸濁液をいれ、紙漉きしているあいだ繊維が沈まず分散状態が維持できるように ねばねばの液(ネリ)を加えます。本式にはオクラに近い種であるトロロアオイの根などから抽出した物質を粘剤として使いますが、ここでは化学合成物質(ポリアクリルアミドなど)によるネリとしています。ポリアクリルアミドは、タンパク分子などを分子の大きさで分離する生化学的な実験(ポリアクリルアミド電気泳動:SDS-PAGE)でつかうゲルをつくる化学物質でもあります。 

 下の写真の中央にあるのが、はがきサイズの和紙を漉く道具です。竹の簾の代わりに 0.2mmのナイロン・メッシュが2つの木枠の間に挟まっています。ネリの入った繊維の懸濁液を木枠のなかにすくいます。メッシュのうえにできる繊維の層が絡まり厚みが均一になるように前後左右に木枠を傾けて 繊維の懸濁液を枠の中で流動させます。繊維の層が所定の厚みになるまで 何回かこの操作を繰り返します。

 紙漉きが終わると、ナイロン・メッシュを木枠から外して 平らな面においた布の上に置きます。メッシュ上にできている繊維の層の上に 薄い不織布をかぶせます。水分を不織布の上からかけた布で吸い取り、濡れた紙の層を不織布に密着させたうえで、ナイロン・メッシュをめくるようにして 紙の層から静かに外します。平らな板の上に紙の層を貼り付けて乾燥させると 里地里山のクワによる手漉きの和紙のできあがりです。