由木の変遷
明治-平成
由木地区の変遷 明治から平成の地図
明治15年から平成にかけての由木地区の変遷を地図でみることができます。
ここをクリックすると、スライドショウでお見せしている内容を大きく1枚ずつゆっくりみることができます。
明治から平成の地図何枚かと航空写真をそれぞれのレーヤーとしてまとめた地図のPDFファイルを作成しています。ファイルサイズは161MBです。こちらからダウンロードすることができます。上のスライドショウでは由木地区全体に加えて下柚木から越野にかけての変遷をお見せしています。
地図のPDFファイルをダウンロードすれば、それ以外の見たい場所を任意の縮尺でえらび 明治から平成までの各年代の地図を簡単な操作(PDFのレイヤーの選択)で見て変化を確かめることができます。
ファイルが大きすぎて Googleによる ウィルスの検査ができないという警告がでます。ダウンロードのボタンを押すと少し時間を要しますがファイルを取得できます。(ファイルにウィルスが含まれていないことはアップロードする前に確かめてありますが、ダウンロードはそれぞれのご判断にてお願いします。)
水色:川や池、緑:水田、黄:桑畑、ピンク:畑、社寺
このファイルをAdobe Acrobatにより表示して 見たい地点の見たい年の地図を表示させるための手順を説明したファイルをここからダウンロードすることができます。
明治から平成にかけての地図からわかる由木の変遷
江戸時代中期より由木でもカイコや竹細工などの商品をつくる農林業が発達しました。はじめて近代的な測量地図がつくられたのは明治15年(1882年)です。明治39年作成の地図では 田や桑畑がどのように広がっていたのかがわかります。地図の水色のラインが大栗川などの川、緑色が田、黄色が桑畑です。ちなみに明治12年の由木は 733世帯、人口3,666人でした。
鑓水の絹の道、横浜線、国道16号線、野猿街道などの年代による姿から 地域での人とモノの動きがどのように変遷したかがみれます。
昭和5年(1930年)では 田や桑畑は明治とさほど変化がありません。由木では 稲作と養蚕が盛んであったことが読み取れます。ところが、第二次世界大戦後の昭和29年には桑畑の面積は大きく減じました。戦争直後やこの時代の航空写真をみると、「里山」に広い面積で大きな木の林があるのをみることはできません。昭和39年の由木は 1,129世帯、人口6,267人でした。明治からすると人口はおよそ2倍になりました。
昭和50年(1975年)の地図では商品作物を栽培する畑(ピンク)がたくさん出てきます。地図には示されていませんが、酪農も明治中頃から盛んにされてきました。また、当時は多摩ニュータウン開発が緒についたばかりで愛宕地区や永山地区に団地が建ち始め頃で、由木地区では開発が始まっておらず田んぼや野菜畑に加え丘陵地斜面に桑畑が沢山ありました。大栗川はまだ下流部分に限られますが 川筋を直線にする治水工事がされています。
平成5年(2003年)の地図では まだ由木地区に田や畑は残っていますが、宅地開発が各所で行われて谷戸や丘陵の地形が大きく変わり、京王相模原線や多摩ニュータウン通り、尾根幹道などがとおった様子が見られます。2013年の由木は 46,719世帯、人口113,968人で ニュータウン開発により人口は20倍に 世帯数は40倍に増えました。