移住者の経験はどこで、誰とのあいだで形づくられるのか――東京の都市空間と民族誌的関係
本研究会では、東京で生活する中国出身者をめぐる二つの民族誌研究をもとに、移住者が都市空間をどのように経験し、そこでの生活や未来をどのように形づくっているのかを考えます。
また、複数の文化圏で生活し、異なるポジショナリティをもつ二人のフィールドワーカーが、調査にどのような影響を与えているのか、周囲からどのようにまなざされ、フィールドで何を経験しているのかについても検討します。さらに、フランス語と日本語という異なる言語で民族誌を書くことが、想定されるオーディエンスや問題提起の仕方にどのような違いをもたらすのかを議論します。
参加者の皆さま自身の都市経験や移動経験を共有していただくことも歓迎します。
開催情報
日時: 2026年7月28日(火)13:00–16:00
場所: 東京大学駒場キャンパス14号館407室
アクセス: 東京大学・駒場地区キャンパスマップ(14号館)
https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html
言語:日本語
参加登録:https://forms.gle/B4uGKCmnVWaV4kpu6
登壇者:
・ベランジェ松井のえみ(Noémie Matsui Bélanger/オタワ大学大学院人類学専攻修士課程)
・閻美輪(Meilun YAN/東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻文化人類学コース博士後期課程)
備考: 途中退室可。中国のお菓子と軽食をご用意します。
スケジュール
時間 内容
13:00–13:15 趣旨説明
13:20–13:50 報告1:ベランジェ松井のえみ
13:50–14:00 質疑応答
14:00–14:30 報告2:閻美輪
14:30–14:40 質疑応答
14:40–16:00 全体ディスカッション・参加者との交流
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報告1
報告者: ベランジェ松井のえみ(Noémie Matsui Bélanger)
現在、カナダのオタワ大学大学院人類学専攻修士課程に在籍している。研究関心は都市人類学および移民人類学であり、特に日中関係と、人口減少社会における日本の多様性に関心を寄せている。現在は、東京における中国人留学生と都市空間との関係をテーマに研究を行っている。
タイトル: Invisible Minority? Navigating and Integrating as a Chinese Migrant in Urban Tokyo
概要: 本研究では、東京において中国人留学生が都市空間をいかに経験し、利用し、そこでの生活をどのように営んでいるのかを明らかにすることを目的とする。近年、日本では極右的な運動や排外主義的言説の台頭を背景に、外国人はしばしば社会秩序や社会的調和を脅かす存在として描かれており、とりわけ中国人移住者はそのような言説の主要な対象となっている。公共空間は、すべての人びとに対する開放性とアクセス可能性を基本原則としている一方で、さまざまな社会的統制や規範への同調を促す作用によって、特定の集団にその利用を控えさせることがある。
学生という身分は、歴史的に中国人の日本への移住における主要な経路となってきた。そのため本研究では、移民に対して依然として抵抗感がみられる社会において、中国人留学生がどのように都市空間を活用し、日本社会における自身のポジショナリティをどのように認識し、長期的な移住プロジェクトの一環として自らの未来をどのように想像しているのかを探究する。
報告2
報告者: 閻美輪(Meilun YAN)
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻文化人類学コース博士後期課程に在籍している。移住者の身体的経験に着目し、とりわけ、高学歴・専門職層など、社会的に「高度人材」と呼ばれうる在日中国出身者を対象に、長期的な参与観察と対話を重ねている。制度、仕事、都市生活、人間関係などが、日々の身体感覚や実践のなかでどのように結びついているのかを、調査協力者との関係のなかで記述・考察し、その生活世界を描く民族誌研究に取り組んでいる。
タイトル:調査者の身体が「邪魔になる」とき――長期的な民族誌的関係はいかに日常経験を組み替えるのか
概要:民族誌研究では、再帰性をめぐる議論を経て、調査者は中立的な観察者ではなく、調査協力者との関係のなかで知識を生成する存在として捉えられてきた(Rabinow 1977; Clifford and Marcus 1986)。さらに、Strathernは、他者の記述を通じて人類学者自身の概念が組み替えられる「民族誌的効果」を論じ、Ingoldは参与観察を、人びとについて知るための技法というよりも、人びととともに学ぶ実践として位置づけている(Strathern 1999; Ingold 2014)。
こうした議論からは、民族誌的関係が調査者の記述や概念をいかに形成するかだけでなく、その関係が調査協力者と調査者双方の日常経験にどのように入り込むのか、という問いも開かれる。とりわけ、長期にわたり人びとのそばに居続ける調査者の身体が、調査協力者の知覚・発話・自己理解にどのように関与し、同時に、調査者自身の生活をどのように民族誌化していくのかについては、改めて検討する余地がある。
本報告では、在日中国出身者を対象とする長期的なフィールドワークと、報告者が民族誌的記述を公開・発表した後に調査協力者から寄せられたフィードバックを手がかりに、報告者が自らの身体を「邪魔になる」ものとして捉え直した局面を検討する。ここで身体に注目するのは、調査者を抽象的なポジショナリティや属性としてではなく、そばに居続け、見つめ、聞き、問いかけ、応答を待つ、場のなかの具体的な存在として捉えるためである。
調査協力者は報告者との関係について、「一緒にいると常に研究であり、観察である」「目を逸らしたいことなのに、考えて喋ってしまう」と語った。これらの言葉は、調査者との同席が日常的なやりとりを観察される場として意識させ、それまで意識されなかった経験を、考え、語るべき問題として立ち上げる契機になりうることを示唆している。
同時に報告者にとっても、「調査する身体」は生活の隅々に入り込み、友人として過ごす時間や私的な感情までも、後から観察・記録・分析の対象へと変えていく。報告者自身は、生活経験を分析へと回収していく「調査者としての私」を、友人として関わり、喜びや痛みを生きる「生活者としての私」に対して「アンフェア」な存在だと感じることがある。この感覚は、長期民族誌において、調査から切り離された生活の外部を保つことの難しさを示しているように思われる。
したがって、ここでいう「邪魔」は、調査者の身体が調査協力者の日常経験に入り込むことだけでなく、調査する身体が報告者自身の生活を絶えず民族誌化していくことにも関わっている。ただし、調査協力者と報告者がともに民族誌的関係に巻き込まれることは、両者のポジショナリティや負担が対称であることを意味しない。何を記録し、いかに記述し、どこまで公表するかを決定する権限は、なお報告者の側に偏っている。
本報告では、こうした過程を、相互に重なり合う四つの契機として暫定的に整理する。第一に、それまで見過ごされていた経験が、調査者との関係を通じて考察すべき対象となる「問題化」。第二に、調査協力者と報告者が、それぞれ関係のなかで自らのポジショナリティを意識し、語る主体として自己を捉え直す「主体化」。第三に、両者の対話が、それ以前には存在しなかった発話、摩擦、相互理解を生み出す「出来事化」。第四に、そこで共同生成された経験が、記述・発表・フィードバックを通じて民族誌的知識へと変換され、両者の関係へと再び差し戻される「資料化」である。
以上の分析を通じて、本報告は、民族誌を既存の現実を記述する方法にとどまらず、知覚・発話・自己理解の新たな回路を現実のなかに持ち込む実践として捉える可能性を検討する。そのうえで、調査者の影響を消去できるか否かを問うのではなく、民族誌的関係が誰の経験をどのように組み替え、何を民族誌化したのかをいかに可視化するのか、その作用と非対称性を誰とどのように引き受けるのか、また、どの時点で問いかけや記述、あるいは関係そのものを中断するのかを、長期民族誌における方法論的・倫理的課題として考察する。
主に以下の話題について、報告者と参加者で議論します。
複数の文化圏で生活し、異なるポジショナリティをもつ二人のフィールドワーカーは、調査にどのような影響を与えているのか。また、二人は周囲からどのようにまなざされ、フィールドでどのような経験をしているのか。
両報告者にとって、日本語は第一言語ではない。ベランジェ松井はフランス語で、閻は日本語で論文を執筆する予定である。書く言語の違いによって、どのようなオーディエンスを想定し、問題提起やコミュニケーションの仕方をどのように組み立てていくのか。
日本で生活しながら調査を行う閻と、カナダで学びながら東京でフィールドワークを行うベランジェ松井の経験を手がかりに、移住者の位置づけや、異なる社会・言語圏における人類学研究、大学院、研究室のあり方にはどのような相違があるのか。
両報告者にとって、日本語は第一言語ではありません。研究会では、やさしい日本語を中心に、必要に応じて英語や中国語も交えながら、ディスカッション形式で進めます。
参加者の皆さまにも、報告者を日本語の第一言語話者としてではなく、日本語を第一言語としない相手として、必要に応じて言い換えや確認を重ねながらコミュニケーションを取っていただければ幸いです。言語の流暢さにかかわらず、どなたでも議論にご参加いただけます。