奥州街道跡

江戸時代の町域の主要街道である奥州道中は、現在の国道4号の基軸になっています。五街道として知られている奥州街道は正式には「奥州道中」と記録され(『駅肝録』)、厳密には江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白沢から白河までの往還を指しますが、一般には白河以北の往還も奥州道中あるいは奥州街道と呼ばれていました。奥州道中は、江戸を起点とする基幹道路の一つとして、参勤交代制度の確立や商品流通の進展によって、往還の両側には松などの並木が植えられ、一里(36町)ごとに一里塚が置かれ一層整備されました。


町域の一里塚は蔭沼(南日詰)と二日町(古館)の存在が知られていますが、遺構は確認できません。石鳥谷町以北の犬渕・南日詰の田園地帯や二日町付近は、部分的に旧奥州道中筋が一部良好に保存されていますが、街道筋の並木は漸次枯れ、かつ風倒木となり、さらに戦時中の伐採や道路拡幅工事等によって大きく変容しています。

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奥道中 石鳥谷~日詰郡山より

五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河以南を指し、道中には27の宿場が置かれました。江戸時代には江戸と陸奥国さらには蝦夷間の物流が増加しました。岩手県岩手郡岩手町から二戸郡一戸町に至る街道跡の7区間、延長8.86kmが、「盛岡市の北方、かつての一戸宿周辺には、浪打峠をはじめ往時の姿をとどめる街道跡、一里塚が良好に残っており、近世の交通の歴史を知る上で貴重である」として、国の史跡「奥州街道」に指定されています。


石鳥谷駅の北側にある好地旧一里塚を見に行く。石鳥谷小学校の北側の道路の先の畑の向こうに雑木林が茂っており、そこにこんもりした一里塚が現存します。その奥は、溝のようになっておりますが、古くからの奥州街道の痕跡といいます。明暦4年(1658)、盛岡藩第2代藩主南部重直が花巻から真っ直ぐに続く新道(現在の国道4号)に付け替えましたが、その前の奥州街道の名残を伝える貴重な史跡として、岩手県指定史跡になっております。


 滝名川を越えて、蔭沼の集落の入口右手付近が善知鳥館(うとうだて)跡。ここの屋号は「館屋敷(たてやしき)」で、前の空き地は「館(やかた)跡」と呼ばれていることがわかりました。ちなみに善知鳥館は、安倍氏の柵か安倍に連なる有力者の居館的柵だったと考えられるようです線路の高架下を過ぎ、その先の二股で、国道4号線を左に分け、右斜め前方に行く、やがて右手に長い参道があり、志賀理和氣(しがりわけ)神社があります。ここは、坂上田村麻呂が東北遠征に際して武神を祀ったのが始まりと伝えられ、全国最北端の延喜式内社で、南部の一の宮。参道には、県下一樹齢700年の「南面の桜」を始め、節くれだった太い幹の桜の古木が並木になっております。