栃内館跡

栃内館跡は、町域東部の栃内字栃内の北上川左岸(東岸)に位置する中世居館跡です。現況は水田・宅地ですが、遺構として堀の一部が確認されています(「岩手県遺跡台帳」)。

町域東部には北上高地を背に、長岡館・大巻館・赤沢館・佐比内館など規模の大きい複郭の城館が丘陵上に立地していましたが、栃内館はあずま海道や遠野街道に近く、北上川近くの低地に位地していることから水陸交通の結節点である河岸や集積物資を統括する機能を担っていたと考えられます。

天正年間(1573~92)における館主は、斯波氏家臣の栃内源蔵の名が伝えられています。栃内源蔵は志波河村氏の後裔とされていますが、この栃内氏とは別系統である盛岡藩家老栃内与兵衛の始祖とされる栃内右京吉連の居館であった可能性も考えられます。栃内吉連は当初、村田姓を称し、寛永6年(1629)に二戸郡から志和郡栃内村に知行地替えがあり、260余石の家禄を給与されています。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

館主:栃内秀綱 形態:平城 遺構:堀跡  
規模:100m×120m、標高:105m
町指定史跡 

栃内館は北上川河岸東側の低地にあったが、原状を留めているものは東西に延びる堀の一部のみである。堀の幅は16~18m、深さ6mで、築城時には残る三方も開削されていたと伝えられます。

現在の地形を見ると北上川が東に蛇行した先にあり洪水の被害をまともに受ける位置にあります。館跡の東側は現在水田になっているがかっては北上川の分流が流れており、栃内館はその中州に築かれたものと思われます。北上川の舟運の拠点となり、防御にも優れた地形と思われる。

栃内氏は川村氏の後裔といわれ、天正年間(1573~92)、斯波氏の家臣として栃内源蔵の名が伝えられる。斯波氏攻略に際しては江柄式部と共に南部氏に内応し、長岡館の攻撃に荷担しております。その後、栃内秀綱は南部氏に出仕し、与兵衛の代に至って南部藩の寺社奉行などを務め、戊辰戦争に際しては軍事局総督として野辺地口を守備しております。