舟久保館跡

舟久保館跡は、町域東部の船久保字十分一の丘陵に位置する中世城館跡です。現況は山林・畑ですが、顕著な遺構や遺物は確認されていません(「岩手県遺跡台帳」)。戦前に編さんされた「赤沢村郷土教育資料」では「大字舟久保の南境を画する所、東西に連なる丘陵の中央部の林の中に周囲に堀を廻らし館趾がある。これを舟久保氏の居舘」であったと伝えています。

また、館主については「陸奥の国栗原郡獅子内の城主亘理伯耆守康武、慶長元年二月、伊達政宗のため獅子内城を攻落され三の迫において戦死し、その弟舟窪中務少輔康長主従二十四人紫波郡赤沢に来り赤沢半右ェ門源重方に寓居せる後、舟窪の郷に移住した」と伝承されています。

時代の背景としては、天正18年(1590)に発生した葛西大崎一揆の鎮圧によって伊達家家臣が相次いで出奔していることから、志波郡に定住した可能性も考えられますが、確証は得られず更なる検証が必要と考えられます。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

赤沢地区は11か所の城館があり、紫波町内でも城館の密集地帯であります。時代的に同時代に存在したとも限りませんが、それにしても中山間地で、平坦部の農地が少ない場所に城館が多くあります。

地域最大の山城、赤沢館と的場館が赤沢川下流域や、南からの進入路をまもっております。的場館の付近には源義経ゆかりの判官堂(義経神社)があります。北には梅ノ木館、田村館などが進入口を押さえている。東の金山地帯の守りとして舟久保館があります。ただ、遠山館、高間館、星川館など遺跡地図には存在するが城館の痕跡を残していないものもあります。これらは表面に残る痕跡は見られませんが、立地場所は街道に沿った要衝の地にあります。土塁や郭を持たない居住空間(必要なときに防御やバリケードを施す)としての館だけであったのかとも考えられます。