機織館跡(彦部館跡)

機織館(はたおりだて)跡は、彦部字機織の機織(はたおり)館山(だてやま)の丘陵に位置する中世城館跡で、彦部館とも言われます。現況は山林・畑で、遺構は確認されていませんが陶磁器が出土しています(「岩手県遺跡台帳」)。戦国末期、斯波氏の家臣彦部氏が館主であったと伝承されています。


彦部氏は、高師直(こうのもろなお)などを輩出した高階(たかしな)姓高(こうの)一族の同族で、康和4年(1102)高階河内守惟章(これあき; 惟孝)の養子惟頼(これより)が陸奥国菊多郡(福島県勿来(なこそ)市)の検断職(けんだんしき)を務めたとされます(『彦部家譜』)。後裔の惟長(これなが)は足利義兼(よしかね)に仕え、孫の窪田光貞は足利家執事を務め、その嫡男光朝が彦部を名乗り、菊多郡彦部郷(一説に紫波郡彦部郷)に所領を得たと伝えられています。斯波氏開祖である足利家氏は、寛元(かんげん)元年(1243)頃に下総国香取郡大崎より彦部秀光らを従え志波郡を往来したとの伝承があります。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

旧彦部村東南端の佐比内川(彦部川)が巻いて流れる標高140メートルの小高い丘陵の頂に機織(彦部)館跡が位置しおり、大迫街道を俯瞰するところです。


建武2年(1335)8月、室町幕府の足利尊氏将軍が、同族の尾張孫三郎家長(ここにきたため、斯波氏を名乗るようになる)を奥州管領として高水寺城(斯波館)に置きました。斯波氏の臣として彦部氏(その前は福島県勿来関におり窪田氏を名乗っておりました)が、従って来郡、彦部郷を賜り機織(彦部)館に定住したのでした。


天正16年(1588)8月、南部信直に、斯波氏が攻撃され、高水寺城を捨て、山王海を通って秋田方面に逃亡しましたが、彦部氏や星山氏・犬吠森氏も従って落ち延びたのではないかと思われます。


彦部家は、飛鳥時代の第40代天武天皇の長子「高市親王」が氏祖であり、第21代光朝が彦部氏の初代。(『彦部家の歴史』(群馬県桐生市の彦部家発行))

岩手の郷土史料に、彦部新左衛門尉秀光、彦部六郎、彦部喜内の名が見られます。『彦部家の歴史』によれば、彦部新左衛門尉秀光は中央において活躍しております。


群馬県桐生市に武家屋敷を構えている彦部氏は、本流であり、当地の彦部氏はいつの頃からか、この本流から分れてこの地を治めた一族であろうと思われます。

なお、彦部字川前の正養寺に彦部氏のお墓がありますが、元は、彦部字後庵、屋号檀古の南側にあったのを、昭和47年(1972)頃、区画整理の際にこの正養寺に移転したのでした。