星山館跡

星山館跡は、彦部字間(あい)野村(のむら)の北上川左岸(東岸)位置する中世城館跡です。現況は宅地等になっていますが、郭・空堀が確認されています(「岩手県遺跡台帳」)。館跡には八幡宮が鎮座し、東側には「八幡田」の地名が残されています。造営年代や歴代の館主は不明ですが「南旧秘事記」によれば「志和舘侍」「舘持ナリ」として、斯波氏の家臣星川左馬助(または佐馬丞)の存在が確認できます。

「奥南落穂集」によれば、三戸南部氏が斯波氏を攻略した際、左馬助は主家に反意し、中野修理康実(高田吉兵衛)に加担しています。慶長6年(1601)の「信濃守利直公岩崎御出陣人数定」(『聞老遺事』)では、大萱生玄蕃、栃内弥五郎 栃内与兵衛、山王海太郎等と共に出陣していることが確認できます。左馬助は主家の滅亡後、盛岡南部氏の家臣に組み入れられ、出陣当時150石の家禄を与えられていますが、その後の動向は不明です。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

星山館跡 星山字間野村 イワテプリミート(株)

星山館跡は、高水城寺跡の南東約2Km、北上川左岸にあり、かつては東側にも北上川が流れた痕跡があり、川に囲まれた中州上に館が築かれたのではないかと思われます。斯波氏の家臣、星山氏の居館と伝えられます。『彦部の歴史』(彦部公民館発行)に詳しいので引用します。

「現時耕耘せられて畑地となり、東北方及び南方に的場であったと伝える高地あり、館跡を俗に館と称し、その北東に八幡宮[南方には星の宮]の小祠を存す。館主左馬丞は斯波氏の臣なりしが如くで、天正中(1573~1592)南部信直、斯波の境を蚕食し中野修理を遣わして反間の謀を用ひ斯波の君臣を離間し大兵を率いて、斯波氏を掩撃した。しかるに斯波の城には警国の士もなかったので長岡民部少輔、乙部長蔵、星山左馬丞等に催促するも応じなかったという。「奥南盛風記」の斯波氏没落の条に、かくて信直公高水寺の城に御入有て四民を撫育し、背者をば戒め降者には本領その侭宛行かれけるは太田、小屋敷を始め彦部、大巻、川村、星山、赤沢、乙部、手代森、升沢、煙山、越田、黒森。その外追々降人に出、紫波六十六郷悉く御手に入れける、との記事あり。」

地形図及び航空写真(昭和23(1948)年米軍撮影)を見ると、紫波二中付近から分流しているのが見て取れます。したがって星山館は東西を北上川に挟まれた中州のような場所に築かれ非常に要害な地形を利用しております。また、南北朝時代、河村館(大巻字花立)の河村氏は南朝に属し、高水寺城(城山)の斯波氏(北朝)と対立しておりました。

星山館は河村氏に対する境目の城であり、北上川の舟運を監視し、川湊の管理機能も持っていたのではないかと思われます。

『彦部の歴史』に掲載されている阿部栄吉氏が調査した図には石垣や土塁、空堀等が描かれております。残念ながら現在は、イワテ・プリミート(株)の本社や工場の敷地となっており、遺構は大部分消滅しております。

ただ、北上川縁には土塁の跡のような痕跡や外郭に当たる山神社付近には虎口のような土塁が見られます。

紫波町日詰の郷土史家工藤隼人氏が、調査・研究され、斯波氏が没落、一緒に逃亡した星山氏の末裔の方々が秋田県千畑町に住んでおられることを知り、平成6(1994)年に、星山の有志が彦部公民館事業として千畑町を訪問し、星山氏の方々と交流を深めてきました。なお、平成22(2010)年7月22日には、彦部公民館主催の活き生き大学の移動学習で美郷町(現大仙市)千畑町を再び訪ね、星山氏の居住した地や庭園の湧水池等を見学し、星山氏の末裔の方と合い、郷土史家のお話しをお聞きし、星山氏のその後の歴史を深めました。

工藤隼人氏の調査では、星山左馬丞は勇猛果敢で知略に富む 武将であったという。