大巻堤(弁天堤)跡

大巻堤(弁天堤)は、彦部地区の大巻に築造された灌漑用の堤です。近世期の大巻地区には盛岡藩主南部行信の息女光源院の知行地がありましたが、灌漑水が不足することから寛文3年(1626)に堤が築造されました。

大巻堤の土手はたびたび決壊するため、元禄12年(1699)、光源院が大巻堤の三つの中島の一つに江の島(相模国)の弁財天を守護神として勧請しました。この弁財天は「堤島弁財天・弁天」と呼ばれ(『御領分社堂」)、大巻堤は「弁天堤」とも呼ばれていました。

大巻堤は、昭和45年の基盤整備のため、弁財天がある中島を残して埋め立てられました。当時の大巻堤は、現在の五郎沼の面積を上回る町域では最大規模の堤と考えられます。現在の堤島神社は、かつては大巻堤の中島に鎮座していたものを高金寺西側に移転したものです。大巻堤跡や堤島神社は、水不足に苦難した大巻の土地開発や灌漑の歴史を伝える貴重な文化遺産と言えます。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

面積四町1反5畝10歩(台帳面積、4,153ヘクタール)で大巻地内の田地80余町歩の灌漑池。   

当大巻の地は、肥沃なるも、水源乏しいので、旱天に遭遇せば、灌漑水に窮することはしばしばであった。農民は盛岡藩に溜池の築造を請い、藩ではこれを採用、寛文3年(1626)工を起こし、藩の御用人夫の出仕を得て築造された。しかし大巻地内の田地の灌漑に雨水の貯水では足りず、盛岡藩の事業で、元禄3年(1690)、赤沢の火石沢で、赤沢川から分流する大巻堰を開鑿。この水路の長さは3250間。

この堤は、築後10年で一部が破損し、その後何回も破損した。延宝5年(1677)、元禄12年(1699)、享保2年(1717)等で、これら修築工事も藩の御用人夫の出役によって行われた。この堤については藩でも重要視したためであったと思われます。

往時島がなく、大風雨のときなど決壊し被害が多いので、島三つを築いたのであります。

元禄12年(1699)に至り、堤の貯水量はなお少ないので、星山村より雲南田川の流れを貯えました。この堤の貯水は大部分は赤沢川より、大巻堰によって流入し一方星山の雲南田川より流下するので、大巻の農民は堤の恩恵に浴するとことろ大であった。

大巻(弁天)堤の取り壊しについて

大巻構造改善事業において、弁天堤の扱いが一番の焦点となった。実は弁天堤の用地は元来屋号玉根家の土地でありました。玉根家六代目治右衛門が自分の土地を提供し、藩に願い出て堤を築造したものでした。玉根家の人達は、堤は先祖達が苦心して築き上げた財産である。堤嶋神社はそもそも堤の守護神として祀られおり堤と一体的なもの、堤を無くすわけにはいかないと訴えた。

そこで、大巻地区の人達が集まり、堤の処遇について話し合いがもたれたが、多数決で弁天堤は減歩率軽減のためにとうとう潰されることとなってしまった。

昭和43年(1968)秋から翌年の春にかけて大巻地区で構造改善事業による圃場整備が始まり、小規格の水田が三反歩の大区画水田に改良され、同時に用水路、排水路、地域内の道路も次々と整備されて行ったのでした。弁天堤の土手の桜は次々と倒され、社殿がある奥の島(大島)をのこしてブルドーザーで次々と土が押されて弁天堤は壊されていった。