赤沢石卒塔婆群
磨崖碑

町指定有形文化財・考古資料

赤沢石卒塔婆群は、赤沢地区の音高山周辺に点在する10基の石卒塔婆(そとば)です。石卒塔婆は板碑(いたび)とも呼ばれ、末法思想や浄土信仰の広まりとともに鎌倉時代から室町時代にかけて造立された供養碑の一種です。仏を表す梵字(ぼんじ)の種子(しゅじ)や紀年銘、造立(ぞうりゅう)趣旨などが刻まれます。

赤沢の板碑群は、比爪氏の滅亡後、志波郡の北上河東に所領を得た関東武士や在地豪族などによって造立されたと考えられ、造立時期は鎌倉時代から室町時代前期に集中しています。

自然の懸崖(けんがい)に文字などが刻まれた赤沢駒場の磨崖碑(まがいひ)には、阿弥陀三尊を表す梵字と正和(しょうわ)元年(1312)の年号が刻まれ、白山神社参道近くの嘉暦(かりゃく)4年(1329)の板碑は、藤原経清(藤原清衡の父)の母の供養碑と伝承されています。これらの板碑群は、文字資料が数少ない中世志波地方の歴史や人々の信仰の姿を無言で伝えてくれる貴重な資料と言えます。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

赤沢川沿いの字駒場、梅沢家敷地の入口右手に所在する紫波町指定文化財「赤沢卒塔婆群」1 0基中の1基です。 

この正和元年磨崖碑は、幅3mほどの岩塊で、斜面から露出し下端は土中へ、背面も斜面へ続いています。露出した岩の前面は廂上(ひさし)、「窟」状になっており、「窟」の壁面に種子、紀年銘が刻まれています。

種子は「キリーク・サ・サク(阿弥陀三尊)」で、薬研彫りの刻みです。紀年銘は「正和元年七月廿八日」西暦1312年に相応します。

尚、他に向井に4基、田中に5基とあります。向井のものには金剛界大日如来を表す梵字「バン」が刻まれています。

田中は山頂に鎮座する白山神社の参道沿いにあり、嘉暦2年(1327)・嘉暦4年(1329)・元徳3年(1332)2基の計4基に紀年銘があります。このうち嘉暦4年のものには、奥州藤原氏初代清衡の父、藤原経清の母を供養したものとの伝説が残されています。

付近には樋爪氏の影響下にあった蓮花寺が所在したとされ、関連が考えられます。