赤沢館跡

赤沢館跡は、町域東部の赤沢字田次(たつぎ)の丘陵に位置する中世城館跡です。現況は山林で、遺構として廓・空堀・土塁が確認されています(「岩手県遺跡台帳」)。館の沿革は不明ですが、「赤沢村郷土教育資料」では「大字赤沢長櫃山(ながひつやま)の西北端に連なる突角で北面は赤沢川の整流に臨み非常に峻険である。その上部は数条の堀及び堰よりなり、赤沢氏の旧城趾である」と記録されています。また、『紫波郡史』は戦国末期の館主を高水寺斯波氏の家臣赤沢氏と伝えています。

町域東部の赤沢・佐比内地区一帯は、産金地帯として近世期に隆盛を極めますが、比爪氏の時代から稼行されていたと考えられます。奥州合戦後は河村氏が北上川河東を領知しますが、高水寺城を拠点とする斯波氏に臣従します。戦国期には斯波氏と三戸南部氏との抗争が激化し、赤沢氏は主家斯波氏の滅亡後、南部氏の家臣に組み入れられたと伝承されています。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

赤沢地区は11か所の城館があり、紫波町内でも城館の密集地帯であります。

地域最大の山城、赤沢館と的場館が赤沢川下流域や、南からの進入路を守っております。的場館の付近には源義経ゆかりの判官堂(義経神社)がある。北には梅ノ木館、田村館などが進入口を守っております。東の金山地帯の守りとして舟久保館がある。

ただ、遠山館、高間館、星川館など遺跡地図には存在するが城館の痕跡を残していないものもあります。これらは表面に残る痕跡は見られませんが、立地場所は街道に沿った、要衝の地にあります。土塁や郭を持たない居住空間(必要なときに防御やバリケードを施す)としての館だけであったのかとも考えられます。