白山館跡

白山館跡は、赤沢白山神社が鎮座する音高山に位置する中世の城館跡・経塚と考えられています。白山館跡は、県教育委員会が実施した現地踏査による城館跡の分布調査の対象にはなっておりません(『岩手県中世城館跡分布調査報告書』1986)。近年、この音高山の丘陵を利用した「白山館跡」の遺構が確認されました。この館跡は江戸期の「篤焉家訓」に記録されている名称です。

白山館跡の遺構・遺物として、空堀・廓や一字一石が確認されています(「岩手県遺跡台帳」)。二重堀切(ほりきり)の存在は、かなり防御性を追求した縄張(設計)といえ、この館が軍事的な緊張下に置かれていたことを示しています。

白山神社別当遠山家の家伝は、文明二年(1470)に大迫氏一族の夜襲を受け社殿が神宝・古記類とともに焼失したと伝えています。この館跡は、地域社会における中世城館の構造変化、山岳伽藍内における位置づけなどを考察する上で貴重な情報を与えてくれる城館跡と言えます。

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紫波町観光交流協会HP・『彦部みどころ よりどころ』より

旧釜石街道が通る赤沢、その中心部に位置する音高山は、山上に白山神社が鎮座し、山麓に七仏薬師像が安置されている薬師神社(薬師堂)が祀られている。比高は100m余、山頂に近いほど鋭くせりあがり、低丘陵地帯にあって独立丘のごとく抜きんで、赤沢のランドマークとなっております。この音高山に山城(館)の遺構が確認されました。

現況、作業道や車道に削られ分断されておりますが、白山社拝殿の背後に、幅5m、深さ1.5mの二重堀切が残り、東西29m、南北39mの境内地を下ると、斜面を半周する幾段かの腰曲輪、あるいは帯曲輪の残片が認められます。一部は堂舎を画する結界の転用とみられ、往昔の神域が城塞化されたと見られます。さらに参道の登りロを隠すように、薬師堂の東側面に下りる枝尾根も、二本の堀切で区画した曲輪群が築かれている。幅7m弱の細尾根を削平した櫓または物見台の縄張で、白山神社側の前衛を担った外曲輪(出丸)か堡塞とみられる。これらの遺構は、この地が神域をも巻き込む、軍事的緊張の時代にあったことを物語っております。

一方、赤沢は紫波東部の金山地帯にあり、赤沢川上流には繋金山をはじめ舟久保、女牛、御蔵山、漆山などの諸金山が藩政期に隆盛しました。この中には、戦国期まで遡る古い露天掘方式をとった採掘跡も残っております。また周囲3km内外に、赤沢氏の拠ったとされる赤沢館ほか、五か所の中世城館が存在し、鎌倉時代に北上川東部へ扶植した川村氏支族の関与も考えられます。白山神社別当遠山家の家伝に、文明2年の事として、大迫氏一族の夜襲のため社殿が神宝・古記類とともに焼失したとあり、また『志和軍戦記』には戦国期斯波氏の旗下に赤沢鉄弥なる名も出てきます。いずれも史料的価値に疑問はありますが、斯波氏時代の赤沢郷の有力者を、「家伝」と「赤沢氏」に仮託し伝えたものでしょう。宗教勢力も武力を持ちえた中世、寺社仏閣が武装化した例は、全国的に慶長年間まで見受けられます。この音高山の神域を城郭化した築城主も、堂主・座主などと呼ばれる宗教勢力であったか、あるいは、山岳寺院を庇壊した武家勢力か、また郷民が自衛のため立て龍もった「村の城」であったのでしょう。

今後、山岳寺院と城郭、および郷村の支配構造を考える上で貴重な遺構といえます。なお「白山社館」の名称は、『篤焉家訓』の寺社本末支配に出て来るもので、これをとって館跡名としたものです。

以上の文章は白山神社の宮司の家系でもある、故遠山英志さんが盛岡タイムスに連載した随筆をまとめた「伝承の周辺」(ツーワンライフ社)に掲載された文章を載せました。縄張り図を書かれた、室野さん(盛岡市教育委員会)、高橋さん(盛岡の城郭研究家)、古沢さん(赤沢の城郭研究家)の方々です。本に掲載されたものを引用しました。